まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

スピノザ『エチカ』覚書(9)

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スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

物を区別するもの

 前回の【定理三】を考察した際に「物」を「実体」と同一視してもよいかという問題提起をしたが,この【定理四】においてようやく「物」と「実体」とが結び付けられて論じられている.

定理四

 異なる二つあるいは多数の物は実体の属性の相違によってか,さもなくば実体の変状の相違によってたがいに区別される.

証明

 存在するすべてのものは,それ自身のうちに在るか,他のもののうちに在るかである(公理一により).すなわち(定義三および五により)知性の外には,実体およびその変状のほか何ものも存在しない.ゆえに知性の外には,実体,あるいは同じことだが(定義四により)実体の属性,および実体の変状のほかは,多くの物を相互に区別しうる何ものも存在しない.Q.E.D.

(Spinoza1677: 3-4,畠中訳(上)40頁,ただし訳は改めた.)

【定理四】で述べられていることは,二つ以上ある場合の「物」つまり複数の多様な「物」はいかにして本質的に区別されるのか,ということである.本質的に,というのは,「実体」に従って,ということである.なぜなら互いに異なる属性や異なる変状を有している二つの実体は本質的に区別されるからである(【定理二】による).

 「物」が,それが内属しているところの実体の属性よって区別されるにせよ実体の変状によって区別されるにせよ,ここで重要なことは,「物」が区別される仕方は,「物」それ自体を観察することによってなされるのではない,という点である.「物」それ自体を観察して区別する仕方は近代科学の発想であるが,ここでは「物」よりも「実体」の方が先行している点で非常に観念論的である.

 「物」が区別される仕方は,例えばそれが「実体A」に帰属する性質(実体Aの属性や変状)を有しているのであれば,それは「実体A」群に区別されるし,あるいはそれが「実体B」に帰属する性質を有しているのであれば,それは「実体B」群に区別されるというようにである.

知性の外部は存在するか

 【定理四の証明】では「知性の外には extra intellectum 」という新しい表現がみられる.「知性 intellectus 」は【定義四】において初めて登場した(ただし【定義一】から登場する「〔私が〕解する intelligo 」を除けばの話だが).

 ここでスピノザは,定義に従って「実体」もその他なる在り方である「変状」も,それらを「知性」が知覚する限りにおいてしか存在しない,あるいは知性の外部には何も存在しない,と述べている.

 しかし,このことは我々の思考を知性の外側へと,知性の外部へと向かわせる.知性の外部とは知性の限界を越えたところのことであるが,スピノザのいう通り知性の外部は存在しないということになねば,結局,存在というものは,知性の内部においてつくりあげられた構築物だということになりかねないのではないだろうか.

「物」と「実体」の関係

 念のため,スピノザが【定理四】で言及している【公理一】および【定義三・四・五】を引いておく.

【公理】

一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか,それとも他のもののうちに在るかである.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)39頁)

【定義】

三 実体とは,それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの,すなわちその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの,と私は解する.

四 属性とは,知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの,と私は解する.

五 様態とは,実体の変状,すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの,と私は解する.

(Spinoza1677: 1,畠中訳(上)37〜38頁,ただし訳は改めた.)

スピノザが参照するこれらの公理や定義においてはいずれも,「物」と「実体」の関係が述べられていない.「物」と「実体」の関係が述べられていない以上,【定理四の証明】は【定理四】の内容を十分に証明していない,あるいは論証が不十分である,と私は思う.

 【定理四】を見る限り,スピノザは,「物 res 」が存在する以上,そもそも存在するものはすべて「実体」であるから,「物」と「実体」は同一のものだと考えているように思われる.

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文献

スピノザ『エチカ』覚書(8)

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スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

「物」と「実体」

 【定理三】では共通点と因果の関係について述べられている.

定理三

 相互に共通点を有しない物は,その一が他の原因たることができない.

証明

 もしそれらの物が相互に共通点を有しないなら,それはまた(公理五により)相互に他から認識されることができない,したがって(公理四により)その一が他の原因たることができない.Q.E.D.

(Spinoza1677: 3,畠中訳(上)40頁)

ここで述べられている「相互に共通点を有しない物 res 」とは,一見すると【定理二】で述べられている「異なった属性を有する二つの実体」のことかと思うかもしれない.だが,これまで「実体」が「物」だとは一言も述べられていない.したがって,この「物」を「実体」と解釈してもよいのかどうか, 注意が必要である.

 この証明で参照されている【公理四】と【公理五】を見てみよう.

【公理四】

 結果の認識は,原因の認識に依存し,かつこれを含む.

【公理五】

 互いに共通点を持たないものは,また互いに他から認識されることができない.すなわち一方の概念は他方の概念を含まない.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)39頁)

公理では「物 res 」はまだ登場していない.公理では「実体」にも「物」にも適応可能な,より抽象度の高い記述がなされていたのである.

Q.E.D.

 Q.E.D.とは"Quod erat demonstrandum"の略である.これは訳注にも書いてあるように「これが証明されるべきことであった」という意味である.【定理三の証明】からQ.E.D.が付けられているのだが,以前の定理の証明にQ.E.D.が付いていなかったのは何故だろうか.以前の定理の証明にQ.E.D.をただ付け忘れていただけでないとすれば,そこには実質的な違いがあるはずである.

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文献

情愛・努力・死——『鬼滅の刃』の三原則

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鬼滅の刃』の三原則

 『鬼滅の刃きめつのやいば』(吾峠呼世晴ごとうげこよはる)のアニメの続きが知りたくて、コミックス7巻以降をKindleで買って読んでみた。

 もし「子供に『鬼滅の刃』のアニメの続きを見たいと言われていたのだけれど、何巻から買えばいいのか分からない」という人がいたら、7巻から買えばいいのである。アニメ最終第26話が、コミックス7巻のちょうど最初の話(第53話)に対応している。7巻から読めばシームレスに続編へと入っていけるのだ。

 もともとは「小学生が食い入るようにして観ている『鬼滅の刃』とは、一体どこに魅力があるのだろうか」と思って観始めた。最初のうちは面白いとも思えず馴染めなかったが、一通りアニメを観た後でその魅力が徐々に理解できるようになってきた。

 『鬼滅の刃』の魅力は、視聴者である我々が主人公の竈門炭治郎かまどたんじろうにその懐の深さを感じるところにあると思う。世の中ギスギスしているときにこういう感情を抱ける物語はなかなかない。

 週刊少年ジャンプの三原則は〈友情・努力・勝利〉だが、もし『鬼滅の刃』の三原則があるとしたら、それは〈情愛・努力・死〉ではないだろうか。

情愛

 ジャンプ三原則の一つ「友情」は主に炭治郎と我妻善逸あがつまぜんいつ嘴平伊之助はしびらいのすけのトリオの間柄に見られるけれども、『鬼滅の刃』の持ち味は間違いなく情愛にあると思う。情愛というのは、人を思う心のことである。炭治郎は妹の禰󠄀豆子ねずこを大事にしているし、炭治郎が出会った人々もまた人を大事にする。そこには情愛がある。ぶっきらぼうに見える登場人物でさえ、そうなのである。

努力

 鬼を倒すための戦いはまさしく努力の道のりである。『鬼滅の刃』は〈しんどいところで踏ん張ること〉の大事さを教えてくれる。なぜなら〈しんどいところで踏ん張ること〉ができなければ、次々と強敵として現れる鬼たちは倒せないからだ。こうして努力は鬼との実践を通じてなされるし、鬼殺隊の訓練としても描かれている。例えば、鬼殺隊入隊のための山籠りでの訓練や、蝶屋敷での機能回復訓練、そして合同強化訓練「柱稽古」などである。

 各々の登場人物は、に直面すると走馬燈が流れる。その人格を形成した原体験のようなものが想起されるのだ。そこで想い出される原体験とは、自身の家族の追憶であり、鬼との邂逅である。原体験を描くことによって、作者は個々のキャラクターに息を吹き込む。鬼もまた、倒され消滅する際に、鬼と化して生きながらえてなお未解決のままであった自己の原体験との了解を果たし、成仏していく。

鬼滅の刃』が読者の心の琴線に触れるのは、この作品が人間の情動を揺り動かす〈情愛・努力・死〉という三つの要素の織成す物語だからなのである。

スピノザ『エチカ』覚書(7)

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スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

異なった属性を有する二つの実体

 【定理二】では「異なった属性を有する二つの実体」について述べられている.

定理二

 異なった属性を有する二つの実体は,相互に共通点を有しない.

証明

 これもまた定義三から明白である.なぜなら,おのおのの実体はそれ自身のうちに存在しなければならず,かつそれ自身によって考えられなければならぬから,すなわち,或る実体の概念は他の実体の概念を含まないから,である.

(Spinoza1677: 3,畠中訳(上)39頁)

スピノザは「定義三から明白」だとしているが,この定理を理解するには【定義三】だけでなく,「属性」について述べられた【定義四】や,「共通点」について述べられた【公理五】も必要だろう.

【定義三】

 実体とは,それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの,すなわち,その概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの,と私は解する.

【定義四】

 属性とは,知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの,と私は解する.

(Spinoza1677: 1,畠中訳(上)37頁)

【公理五】

 相互に共通点を持たないものはまた相互に他方から認識されることができない.すなわち一方の概念は他方の概念を含まない.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)39頁)

以上のことを踏まえて【定理二】を図式化すると次のように表せるだろう.

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「異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない」(【定理二】)場合に「たがいに共通点を持たないものはまたたがいに他から認識されることができない」(【公理五】)のであるから,「異なった属性を有する二つの実体」は「またたがいに他から認識されることができない」ことになる.

二つの実体を知覚する知性

 しかし「異なる属性を有する二つの実体」の両者を認識しなければ【定理二】を述べることもできない.つまり何者かがメタ的な視点に立って「異なった属性を有する二つの実体」について述べているのである.【定理二】を述べることができるのは,知性の知覚のはたらきによるものである.

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(「知性」をどう描くか悩んだ末,右上にパワポの図形を用いて人の顔のようなものを描いたが,これは擬人化された「知性」であると考えて欲しい.)

「知性」が二つの実体を区別することができるのは,二つの実体が異なる属性を有していることを知覚するからである.

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文献

スピノザ『エチカ』覚書(6)

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スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

定理

 以上の「定義」と「公理」を踏まえた上で「定理 Propositio 」が述べられる.第一部では三十六個の「定理」が出てくる.

アプリオリな「実体」

定理一

 実体は本性上,実体の変状に先立つ.

証明

 定義三および五から明白である.

(Spinoza1677: 3,畠中訳(上)39頁)

スピノザはこの【定理一の証明】で【定義三】と【定義五】を参照すれば明らかだとと一蹴しているが,はたしてそうであろうか.念のため【定義三】と【定義五】を確認しておこう.

【定義三】

 実体とは,それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの,すなわちその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの,と私は解する.

【定義五】

 様態とは,実体の変状,すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの,と私は解する.

(Spinoza1677: 1,畠中訳(上)37頁,下線引用者)

【公理一】にあるように,〈存在〉には〈自己自身のうちにある在り方〉と〈他者のうちにある在り方〉という二つの様式があるが,ちょうど前者が【定義三】にある「実体」の在り方に対応し,後者は「実体の変状」の在り方に対応する.「実体の変状」とはいわば「実体」の派生形態, あるいは変化形態である.だが実体が他のもののうちにあること(つまり【定義五】「実体の変状」)は,勝義の「実体」の本性(【定義三】)には含まれていない.

 反対に「実体は本性上その変状に先立つ」のではないと考えてみたらどうだろうか.つまり実体の変状が実体に先立つとした場合,実体は実体の変状(つまり「他のもの」のうちにある在り方)によって成り立つことになってしまい,そうすると実体は「それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの」(【定義三】)という実体の本性と矛盾してしまうことになる.

 よって「実体は本性上その変状に先立つ」と考えられることになる.

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文献

スピノザ『エチカ』覚書(5)

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スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

公理

 「公理 Axioma 」とは何であろうか.「公理」は先の「定義」と何が違うのであろうか.

存在の二つの様式

公理一

 すべて在るものは,それ自身のうちに在るか,或いは他のもののうちに在るか,である.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)39頁)

存在の様式は二つ,すなわちそれが「自己」つまり内部にあるか,「他者」すなわち外部にあるか,のいずれかである.「すべて在るもの」とは「実体」のことである.それが「自己」(内部)にあろうが「他者」(外部)にあろうが,いずれも「実体」の在り方の相違にすぎない.「他者」のうちにある場合には「実体の変状」と解される(定義五).

概念規定

公理二

 他のものによって考えられえないものは,それ自身によって考えられなければならない.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)39頁)

公理二は定義三における「実体」に関する定義を裏返したようなものである.「他のものによって考えられえないもの」とは「実体」のことである.

原因と結果

公理三

 与えられた特定の原因から必然的に結果が生ずる.これに対して,何らの特定の原因が与えられなければ, 結果の生ずることは不可能である.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)39頁)

ここでは「原因」と「結果」についての原則が述べられている.

因果と認識

 公理三と同じく因果に関わるものだが,公理四では因果における「認識」のはたらきの側面が取り上げられている.

公理四

 結果の認識は,原因の認識に依存しかつこれを含む.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)39頁)

公理三で見たように,原因に基づいて結果が生じるのであるから,結果を真の意味で認識するためには,その原因を認識することが必要不可欠である.

相互認識と概念

公理五

 相互に共通点を持たないものはまた相互に他から認識されることができない.あるいは一方の概念は他方の概念を含まない.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)39頁)

相互に共通点を持つということは,同じ「実体」に属するものと考えられる.これに対して「相互に共通点を持たない」場合,両者は相互に異なる「実体」に属するものと考えられる.異なる「実体」に属するもの同士は相互に共通点を持っていない.したがって相互認識するための指標を自分の中に持っていないので,相互に認識できないし,相互に概念把握できない.

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 この公理を逆に言うと,相互に共通点を持っている場合には〈相互認識可能〉であり,一方の概念が他方の概念を含むことになる.このことを図に示すと以下のようになる.

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 ところで「たがいに共通点を持たないもの」同士が,相互に共通点を持つようになることはできるだろうか.そうすれば両者は相互に認識可能となるはずだ.そのためには,上の図のように両者が重なり合うところまで,つまり共通点をもつところまで移動し近づく必要があるだろう.

 ここで一つの疑問点が湧く.認識能力は感覚に左右されるはずである.仮に相互に共通点を持つものがあったとして,それらが一切合切の感覚を持たないとする場合,それらは相互に認識しあうことができるのだろうか.

真の観念と被観念対象

公理六

 真の観念はその対象〔観念されたもの〕と一致しなければならない.

(Spinoza1677: 3,畠中訳(上)39頁)

畠中訳はここでideatoを「対象」と訳出しているが,文字通りには「観念されたもの」であろう.

 「真の観念 Idea vera 」について言えば,『知性改善論』第33節にもこれに言及した箇所がある.

(三三)

 真の観念〔Idea vera〕(実際我々は真の観念を有するから)はその対象〔suo ideato〕と異なる或るものである.なぜなら円と円の観念とは別のものであるから.というのは,円の観念は円のように円周と中心を有する或るものではないからである.同様にまた,身体の観念idea corporis〕は身体そのものipsum corpus〕ではない.そして観念がその対象〔suo ideato〕と異なった或るものであるからには,それ自体,理解され得る或るものであろう.換言すれば,観念はその形相的本質〔essentia formalis〕という方面から見れば,他の想念的本質〔essentia objectiva〕の対象objectum〕たり得るのである.そして更にこの別な想念的本質はまた,それ自体で見れば,実在的な且つ理解され得る或るものであろう.このようにして無限に進む.

(Spinoza1677: 366,畠中訳(上)30頁,強調引用者)

この訳文の中で「対象」と訳されているのは,ideatoとobjectumの二つである.スピノザは「真の観念はそれが観念されたもの ideato とは異なるもの」だと述べている.そこで例として挙げられているのが〈円の観念〉と〈円〉との関係,および〈身体の観念〉と〈身体〉との関係である.〈円〉は「円周と中心を持つ」具体的な存在であるが,これに対して〈円の観念〉はそのような具体性を持たない抽象物であるとされている.この場合,具体的に「円と中心を持つ」〈円〉は,〈円の観念〉の「観念されたもの ideato 」であると考えられる.では〈円の観念〉とは何であろうか.それは今まさにこの議論をしている最中に円を具体的に描かずに我々が観念しているところのものである.「観念がそれの観念されたもの suo ideato と異なった或るものであるからには,それ自体,理解され得る或るものであろう」.わざわざ図に表現しなくとも「我々は」(円の)「真の観念を持っている」からこそ議論が可能なのである.

 ここで振り返ってスピノザが「真の観念はその対象〔観念されたもの〕と一致しなければならぬ」(公理六)と述べているのはどういう意味なのか考察しよう.例えば,円の真の観念は三角形や四角形と一致しないが,円とは一致する.円の真の観念が三角形や四角形と一致してしまっては困るし,そうであってはならない.なぜなら観念と異なる対象との一致は,概念の混乱状態を生じさせるからである.

非実在概念の本質

公理七

 存在しないと考えられうるものの本質は,存在を含まない.

(Spinoza1677: 3,畠中訳(上)39頁)

「存在しないと考えられうるもの」は,もしその「本質 essentia 」において「存在existentia 」を含むのだとしたら,それはもはや「存在すると考えられうるもの」になってしまう.

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文献

ルソー『社会契約論』覚書(3)

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ルソー『社会契約論』(承前)

第一編

 『社会契約論』は四つの編(livre)から成り立っている.

 目次によれば,第一編の内容は「ここでは,いかにして人間が自然状態から社会状態に移るか,また社会契約の本質的条件はいかなるものであるか,が探求される」(訳7頁)とある. 自然状態から社会状態への移行は,社会契約論の肝である.ホッブズリヴァイアサン』において社会状態の成立は「こうなったらこうなる」というようなもので,なぜそのように移行するのかは明確ではなかった(重田2013).これに対して,ルソー『社会契約論』では,一体どのような論理展開がなされるのだろうか.

わたしは,人間をあるがままのものとして,また,法律をありうべきものとして,取り上げた場合,市民の世界に,正当で確実な何らかの政治上の法則がありうるかどうか,を調べてみたい.わたしは,正義と利便性が決して分離しないようにするために,権利が許すことと利害が命ずることとを,この研究において常に結合するように努めよう.

(Rousseau1762: 1-2,訳14頁)

ここではdans l'ordre civilが「市民の世界に」と訳されている.civilとは,本書ではしばしば「社会〔状態〕」と訳されているように,「自然〔状態〕」に対立する言葉である.dans l'ordre civilとは,「自然状態から社会状態になったうえで形成される(自然の秩序とは異なる)秩序において」という意味である.自然のうちには自然の法則があるように,社会においても何らかの社会の法則があるとルソーは考えたのだろう.

 「正義と利便性が決して分離しないようにするために」とは,どういうことか.これは,例えば,或る社会制度が正義に適ったものだとして,それが社会の構成員に等しく不幸になるような制度にならないように,という意味合いではないだろうか.

 自由な国家の市民として生まれ,しかも主権者の一員として,わたしの発言が公けの政治に,いかにわずかの力しかもちえないにせよ,投票権をもつということだけで,わたしは政治研究の義務を十分課せられるのである.幸いにも,わたしは,もろもろの政府について考えめぐらす度ごとに,自分の研究のうちに,わたしの国の政府を愛する新たな理由を常に見出すのだ.

(Rousseau1762: 2,訳14頁)

ここでルソーがその市民として生まれた「自由な国家」とはジュネーヴ共和国のことである.ルソーは『社会契約論』を出版した後,ジュネーヴ共和国との関係が悪化した.その際に弁護に回った人々は,この箇所を引用し,ルソーが反国家的な書物を公刊したのではない証拠として愛国的な精神を持っていることを訴えたとされる*1

 ルソーはシトワイヤンであるがゆえに『社会契約論』という政治研究の書物を書いたと述べている.「投票権をもつということだけで,わたしは政治研究の義務を十分課せられる」と述べているが,これは喩えであって,実際に政治研究の義務が市民に課せられているわけではないだろう.

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文献

*1:「祖国愛に満ちた人物が「我々の政府を破壊する傾向がある」作品を書くはずがないと,ルソーへの有罪判決に対して意義を唱える」(橋詰2018:47).