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スピノザ『エチカ』覚書(5)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

公理

 「公理 Axioma 」とは何であろうか.「公理」は先の「定義」と何が違うのであろうか.

存在の二つの様式

公理一

 すべて在るものは,それ自身のうちに在るか,或いは他のもののうちに在るか,である.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)39頁)

存在の様式は二つ,すなわちそれが「自己」つまり内部にあるか,「他者」すなわち外部にあるか,のいずれかである.「すべて在るもの」とは「実体」のことである.それが「自己」(内部)にあろうが「他者」(外部)にあろうが,いずれも「実体」の在り方の相違にすぎない.「他者」のうちにある場合には「実体の変状」と解される(定義五).

概念規定

公理二

 他のものによって考えられえないものは,それ自身によって考えられなければならない.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)39頁)

公理二は定義三における「実体」に関する定義を裏返したようなものである.「他のものによって考えられえないもの」とは「実体」のことである.

原因と結果

公理三

 与えられた特定の原因から必然的に結果が生ずる.これに対して,何らの特定の原因が与えられなければ, 結果の生ずることは不可能である.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)39頁)

ここでは「原因」と「結果」についての原則が述べられている.

因果と認識

 公理三と同じく因果に関わるものだが,公理四では因果における「認識」のはたらきの側面が取り上げられている.

公理四

 結果の認識は,原因の認識に依存しかつこれを含む.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)39頁)

公理三で見たように,原因に基づいて結果が生じるのであるから,結果を真の意味で認識するためには,その原因を認識することが必要不可欠である.

相互認識と概念

公理五

 相互に共通点を持たないものはまた相互に他から認識されることができない.あるいは一方の概念は他方の概念を含まない.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)39頁)

相互に共通点を持つということは,同じ「実体」に属するものと考えられる.これに対して「相互に共通点を持たない」場合,両者は相互に異なる「実体」に属するものと考えられる.異なる「実体」に属するもの同士は相互に共通点を持っていない.したがって相互認識するための指標を自分の中に持っていないので,相互に認識できないし,相互に概念把握できない.

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 この公理を逆に言うと,相互に共通点を持っている場合には〈相互認識可能〉であり,一方の概念が他方の概念を含むことになる.このことを図に示すと以下のようになる.

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 ところで「たがいに共通点を持たないもの」同士が,相互に共通点を持つようになることはできるだろうか.そうすれば両者は相互に認識可能となるはずだ.そのためには,上の図のように両者が重なり合うところまで,つまり共通点をもつところまで移動し近づく必要があるだろう.

 ここで一つの疑問点が湧く.認識能力は感覚に左右されるはずである.仮に相互に共通点を持つものがあったとして,それらが一切合切の感覚を持たないとする場合,それらは相互に認識しあうことができるのだろうか.

真の観念と被観念対象

公理六

 真の観念はその対象〔観念されたもの〕と一致しなければならない.

(Spinoza1677: 3,畠中訳(上)39頁)

畠中訳はここでideatoを「対象」と訳出しているが,文字通りには「観念されたもの」であろう.

 「真の観念 Idea vera 」について言えば,『知性改善論』第33節にもこれに言及した箇所がある.

(三三)

 真の観念〔Idea vera〕(実際我々は真の観念を有するから)はその対象〔suo ideato〕と異なる或るものである.なぜなら円と円の観念とは別のものであるから.というのは,円の観念は円のように円周と中心を有する或るものではないからである.同様にまた,身体の観念idea corporis〕は身体そのものipsum corpus〕ではない.そして観念がその対象〔suo ideato〕と異なった或るものであるからには,それ自体,理解され得る或るものであろう.換言すれば,観念はその形相的本質〔essentia formalis〕という方面から見れば,他の想念的本質〔essentia objectiva〕の対象objectum〕たり得るのである.そして更にこの別な想念的本質はまた,それ自体で見れば,実在的な且つ理解され得る或るものであろう.このようにして無限に進む.

(Spinoza1677: 366,畠中訳(上)30頁,強調引用者)

この訳文の中で「対象」と訳されているのは,ideatoとobjectumの二つである.スピノザは「真の観念はそれが観念されたもの ideato とは異なるもの」だと述べている.そこで例として挙げられているのが〈円の観念〉と〈円〉との関係,および〈身体の観念〉と〈身体〉との関係である.〈円〉は「円周と中心を持つ」具体的な存在であるが,これに対して〈円の観念〉はそのような具体性を持たない抽象物であるとされている.この場合,具体的に「円と中心を持つ」〈円〉は,〈円の観念〉の「観念されたもの ideato 」であると考えられる.では〈円の観念〉とは何であろうか.それは今まさにこの議論をしている最中に円を具体的に描かずに我々が観念しているところのものである.「観念がそれの観念されたもの suo ideato と異なった或るものであるからには,それ自体,理解され得る或るものであろう」.わざわざ図に表現しなくとも「我々は」(円の)「真の観念を持っている」からこそ議論が可能なのである.

 ここで振り返ってスピノザが「真の観念はその対象〔観念されたもの〕と一致しなければならぬ」(公理六)と述べているのはどういう意味なのか考察しよう.例えば,円の真の観念は三角形や四角形と一致しないが,円とは一致する.円の真の観念が三角形や四角形と一致してしまっては困るし,そうであってはならない.なぜなら観念と異なる対象との一致は,概念の混乱状態を生じさせるからである.

非実在概念の本質

公理七

 存在しないと考えられうるものの本質は,存在を含まない.

(Spinoza1677: 3,畠中訳(上)39頁)

「存在しないと考えられうるもの」は,もしその「本質 essentia 」において「存在existentia 」を含むのだとしたら,それはもはや「存在すると考えられうるもの」になってしまう.

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