目次
ライプニッツ『モナドロジー』(承前)
モナドにおいてその生成と消滅のプロセスはあり得るか
ライプニッツはいう。
(1)エルトマン版(1839年)
(2)ゲルハルト版(1885年)
また、モナドには解体の危惧はない。かつ、単純な実体が自然的に消滅することがあるとはどうしても考えられない。
「解体 dissolution」とは、要するに、複合物においてのみ可能な現象である。なぜならば、複合物とは、個々の要素の寄せ集めだからである。「解体」してバラバラになった個々の要素は「単純な実体」というモナドに還元される。しかし、「単純な実体」と「複合物」がその本性上、明確に区別されている。「単純な実体」は、「部分がない sans parties」(§1)というその自然本性からして、それが「消滅する périr」ことはあり得ない、とライプニッツはいう。
(1)エルトマン版(1839年)
(2)ゲルハルト版(1885年)
同じ理由で、単純な実体が自然的に生じることがあるとは、どうしても考えられない。単純な実体は、複合によってつくることはできないからだ。
ここでもまたライプニッツは「自然的に naturellement」を「その自然本性からして」というような意味合いで用いている。
(1)エルトマン版(1839年)
(2)ゲルハルト版(1885年)
かくしてモナドは、生じるのも滅びるのも、一挙になされるほかない、と言ってよい。つまり、創造によってしか生じないし、絶滅によってしか滅びない。けれども複合されたものは、部分部分で生じる、もしくは滅びる。
ここでライプニッツが「モナドは、生じるのも滅びるのも、一挙になされるほかない」と述べる理由は、「単純な実体」たる「モナド」が、「複合物」とは全く異なる性質を持つからである。すなわち、「複合物」の性質は「部分部分で生じる、もしくは滅びる」点にあるが、この点で「複合物」は、「部分がない」(§1)という「単純な実体」たる「モナド」とその本性からして、本質的に全く異なっている。「単純な実体」たる「モナド」は、「複合物」の延長線上で捉えられてはならない。そもそも「モナド」のように「部分がないところには、拡がり〔延長〕も、形も、可分性もない」(§3)からである。
「モナド」にあっては、「創造 creation」と「絶滅 annihilation」だけが可能であるというのは、「創造」や「絶滅」が「一挙になされる」ものであり、そのプロセスとしての「部分がない」(§1)からである。反対に「始まり commencer」と「終わり finir」といった生成消滅のプロセスは、その推移的な変化の部分を取り出すことができるがゆえに、「モナド」の本性には対応しない。
(つづく)
文献
- Leibniz, 1720, Des Hn. Gottfried Wilh. von Leibnitz, etc. Lehr-Sätze über die MONADOLOGIE, etc., aus dem Französischen übersetzt von Heinrich Köhlern, Frankfurth und Leipzig. (Bayerische Staatsbibliothek, 2014)
- Leibniz, 1839, God. Guil. Leibnitii opera philosophica quae exstant Latina Gallica Germanica omnia, etc., instruxit Joannes Eduardus Erdmann, Pars altera, Berolini. (British Library, 2018)
- Leibniz, 1885, Die philosophischen Schriften von Gottfried Wilhelm Leibniz, herausgegeben von C. J. Gerhardt, Sechster Band, Berlin. (University of Oxford, 2007)
- ライプニッツ 2019『モナドロジー 他二篇』谷川多佳子・岡部英男訳,岩波書店.