まだ先行研究で消耗してるの?

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ヴィーコ『新しい学』覚書(13)

目次

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(承前)著作の観念

〈新しい批判術〉:ヴィーコマルクス

続いてヴィーコは「新しい批判術」という自身の方法について述べています。

さらに、ここで触れておくなら、この著作では、これまで欠如していたあるひとつの新しい批判術を用いて同じ異教諸国民の創建者たちにかんする真理の探究に入ることによって(これまで批判がかかわってきた著作家たちがそれらの諸国民の内部に登場するまでには〔それらの諸国民が創建されてから〕優に千年以上が経過していたにちがいないのである)、ここに哲学文献学、すなわち、諸民族言語習俗平時および戦時における事蹟についての歴史のすべてなど、人間の選択意志に依存することがらすべてにかんする学問の検査に乗りだす(なにしろ、それの提供する原因は残念ながら曖昧ではっきりとしておらず、また結果も無限に多様であるため、これまでそれについて推理することには、わたしたちはほとんど恐怖を抱いてきたのだった)。

(Vico 1744:6、訳25頁、強調引用者)

多くのヴィーコ研究書でも述べられている通り、ヴィーコは『学問の方法』などでクリティカとトピカという二つの方法について繰り返し述べてきました。キケロの『トピカ』以来、クリティカは真偽についての判断の術(ars iudicandi)とされ、トピカは論拠についての発見の術(ars inveniendi)とされてきました。時代的には若者はポール=ロワイヤル論理学を優先的に学んでいましたが、このような論理学やデカルトの方法をヴィーコは当時のクリティカとして位置付けました。しかし、こうしたクリティカ中心の時代にあって、ヴィーコキケロに倣って、トピカがクリティカよりも先行することを説きました。

こんな論理学をむりやり押しつけられると、子どもたちのなかで若々しい知性の素質がねじ曲げられてしまうこととならざるをえない。それらの素質は、本来ならそれぞれに見合った適切な術によって、すなわち、記憶力は言葉を学習することによって、想像力は詩人や歴史家や雄弁家の作品を読むことによって、構想力は図形幾何学を勉強することによって規制され促進されるべきものなのだ。なかでも図形幾何学は見方によっては一種の絵画のようなものであって、それを構成している要素が多数存在することによって記憶力を強化し、それが繊細な図形からなっており、またかくも多くの図面が緻密きわまる線で描かれていることによって、想像力を洗練させる。さらには、それらの線すべてに目を通し、それらのなかから、求められている大きさを証明するために必要な線を掻き集めなければならないことによって、構想力を敏活にする。そして、これらいっさいは、円熟した判断力が身につくようになったときに、鋭く、生き生きとした、雄弁な叡智を実らせるための能力にほかならない。ところが、そのような論理学のたぐいによって少年たちが時期尚早にクリティカ〔判断の術〕に連れこまれてしまうと、それはとりもなおさず、まずは習得し、ついで判断し、最後に推理するという、観念の自然な流れに反して、十分に習得する前に正しく判断するようにと督促されているに等しく、このような〔のっけからクリティカを教える〕やり方からは、無味乾燥な自己表現しかできず、自分ではなにひとつ作りだしてはいないくせに万事に判断をくだそうとする青少年層が輩出することとなる。これにたいして、彼らが構想力の活発な少年時代にトピカ──これは発見の術であって、構想力に富む者たちだけの特権である──に(ヴィーコキケロに教えられて少年時代に専念したように)専念すれば、論題を過不足なく準備することが可能となり、ついでこれについて正しい判断をくだすことができるようになるだろう。というのも、問題となることがらのすべてをまずもって知っていなければ、正しい判断をくだすことはできない。そしてトピカこそは問題となるそれぞれのことがらにおいてそのことがらのうちに存在しているものをすべてくまなく発見する術にほかならないからである。こうして青年たちはことがらの自然本性そのものに従いつつ哲学者にして雄弁家として自らを形成することとなるだろう。

ヴィーコ『自伝』

さて、以上を踏まえて先ほどのパラグラフでは『新しい学』の中で「新しい批判術」を用いることが宣言されています。では、この批判術は一体何が「新しい」のでしょうか。またこれがただの「批判」ではなく、いわば〈術 ars 〉としての「批判」であるからには、そこにはいかにしてキケロ以来の伝統が受け継がれているのでしょうか。

 この批判術の新しさは、ポール=ロワイヤル論理学やデカルト主義のようないわば〈推論の精確さ〉だけにこだわったものではないという含意があるのではないでしょうか。この「新しい批判術」とは、〈人間に関する諸々の学説(Dottorina)を検討すること(esaminare)〉だと述べられています。

 こうした「批判」の方法は様々なトピックの書物を分野横断的に読解し、「批判 Kritik 」として統合していくマルクスの方法に受け継がれていると言えるのではないでしょうか。かつて柄谷行人は『トランスクリティーク』でマルクスからカントへ遡って読み込む必要性を感じたと述べていたように記憶しておりますが、マルクスの「批判」はカントよりもむしろヴィーコの「新しい批判術」にまで遡る必要があるのではないでしょうか。こうした読み方は、当時「死せる犬」と扱われていたヘーゲルの弟子だと自ら述べた序文を読んだとしてもそうはならないはずです。しかし、ヘーゲルをいくら読みといたとしても「批判」の観点はヘーゲルには見出すことができません。ヘーゲルとは別の思想家を経由する必要があるのです。マルクスヴィーコに言及しているのは『資本論』の一箇所と手紙だけですが、マルクスの「批判」の源流がヴィーコにあるとしたらなんとも面白くはないでしょうか。

 念のため先行研究に触れておくと、ヴィーコマルクスを扱ったものとしては木前[2008]があります。ただし木前が「新しいクリティカ」をポール=ロワイヤル論理学やデカルトの方法としてのみ扱っていますが、これは『学問の方法』における「新しいクリティカ」の用法とガダマーの解釈に引きずられすぎているように思います。この意味での「新しいクリティカ」とは違う意味で、『新しい学』の「新しい批判術」は、トピカとクリティカが一体となったものとして用いられているように思います。

(つづく)

文献

ヴィーコ『新しい学』覚書(12)

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(承前)著作の観念

真のホメロスの発見とウァッロの三時代区分

 続きを読みます。

また、ホメロスの像がひび割れた台座の上に立っているのは、真のホメロスの発見を意味している(真のホメロスの発見については、最初に出版された『新しい学』でもわたしたちは感知してはいたが理解するまでにはいたっていなかったのであって、今回、これらの諸巻においてはじめて反省にもたらされ、十分に論証されているものである)。この真のホメロスは、これまで知られずにきたため、諸国民の物語〔神話伝説〕時代の真のことがら、そしてさらに多くはこれまですべての者たちによって知ることを断念されてきた暗闇時代のことがら、ひいてはまた歴史時代の諸事蹟の最初の真実の起源をわたしたちに隠匿したままにしてきたのであった。すなわち、ローマの古事についての最も学識ある著述家、マルクス・テレンティウス・ウァッロがいまではすでに失われてしまった『神と人間にかんすることがら〔の古事記〕』と銘打たれた大著においてわたしたちに書きのこした〔と伝えられている〕世界の三つの時代の真実のことがらがそうである。

(Vico 1744:5〜6、訳24〜25頁)

ここで「最初に出版された『新しい学』」とされているのは、1725年版の『新しい学』のことです。『新しい学』には主に三つのバージョンがあり、一つ目が1725年版(ヴィーコ 2018b)であり、二つ目が1730年版、そして最後の三つ目が1744年版です。今読み進めているのは1744年版(ヴィーコ 2018a)です。『新しい学』最初の1725年版でもホメロスには言及されていましたが、後の版になってようやく第3巻「真のホメロスの発見」が追加されたのです。

 ヴィーコは『新しい学』の中でマルクス・テレンティウス・ウァッロ(Marcus Terentius Varro、紀元前116年-紀元前27年)という共和制ローマ期の学者に繰り返し言及しています*1ヴィーコ言及しているウァッロの著作は"Antiquitates rerum humanarum et divinarum"ですが、この著作はすでに散逸してしまっています。暗闇時代/物語時代/歴史時代の三区分はウァッロによるものです。ここで問題となるのは、ホメロスとウァッロがどのような関係にあるのかということでしょう。

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文献

*1:ヴィーコは第一巻「原理の確立」でウァッロについて次のように述べている。「この時代区分をマルクス・テレンティウス・ウァッロは受け継いでいないが、かれはその無尽蔵な学識のゆえにローマ人の最も開花した時代であるキケロの時代に〈ローマ人のうちで最高の学識の持ち主〉と称賛されていたほどなのだから、それは受け継ぐことができなかったのではなくて、受け継ぐことを欲しなかったのだと言わざるをえない。なぜなら、おそらくかれは、これらのわたしたちの原理からすれば古代の諸国民すべてについて真実であることが見いだされることがらをローマ国民のものであると、すなわち、ローマの神と人間にかんすることがらのいっさいはラティウムラツィオ〕で生まれたと理解していたのであった。このために、かれは、時が不公平にもわたしたちから奪ってしまったかれの大著『神と人間にかんすることがら〔の古事記〕』において、それらローマの神と人間にかんすることがらのいっさいにラテン起源をあたえるべく努力したのである(そのウァッロに十二表法がアテナイからローマにやってきたという作り話を信じていたという説があるとは!)そして、世界の全時代をつぎのような三つ、すなわち、まずはエジプト人の言っていた神々の時代にあたる暗闇時代、ついで英雄たちの時代にあたる物語時代、そして最後に人間たちの時代にあたる歴史時代の三つに分けたのであった。」ヴィーコ 2018:96〜97)。ここでヴィーコがウァッロの時代区分と対照しているのはヘロドトスの時代区分(神々の時代/英雄たちの時代/人間たちの時代)である。

ヴィーコ『新しい学』覚書(11)

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(承前)著作の観念

口絵の光線と『新しい学』の叙述の順序

 次のパラグラフに移ります。口絵の左下の男性は「ホメロスの像」だとヴィーコは述べています。 

同じ神の摂理の光線が形而上学の胸のところで反射して、拡散しながら、わたしたちのもとに届いている異教世界最初の著作家であるホメロスの像にまで達しているのは、その光線が、形而上学——それは、そのような〔異教世界を創建することになった最初の〕人間たちがそもそも人間的に思考することを最初に開始したとき以来、人間的な諸観念の歴史 Storia dell'Idee umane にもとづいて形成されてきたのであるが、その形而上学の力によって、わたしたちのもとで、ついに、全身がこのうえなく強靭な感覚とこのうえなく広大な想像力のかたまりであった異教世界の最初の創建者たちの愚鈍な知性にまで降りていくにいたったからである。そして、かれらは人間の知性および分別力を用いうる、唯一の、しかもまったく愚かで呆けた能力しかもっていなかったという、この同じ理由からして、これまで考えられてきたのとは異なるばかりか、まったく正反対に、詩の諸原理〔起源〕は、疑いもなく異教徒たちにとっての世界で最初の知恵であった詩的知恵、または神学詩人たちの知識の、これまた同じ理由でこれまで知られずにきた諸原理〔起源〕のうちに見出されるのである。

(Vico 1744:5、訳23〜24頁)

冒頭に「同じ神の摂理の光線が形而上学の胸のところで反射して、拡散しながら、わたしたちのもとに届いている異教世界最初の著作家であるホメロスの像にまで達している」とありますが、「神の摂理」が『新しい学』第一巻「原理の確立」に対応し、その光線が向かう「形而上学」は『新しい学』第二巻「詩的知恵」に対応し、さらに光線が反射して向かう「ホメロスの像」は『新しい学』第三巻「真のホメロスの発見」に対応しています。要するに、光線の向かう順番は『新しい学』の叙述の順番を表現しているのです。

観念の原理と言語の原理

 実際ヴィーコは『新しい学』最初の1725年版を出版したのちにその構成を反省し、以後の1730年版と1744年版で叙述を大幅に変更しています*1。この辺りの事情についてはヴィーコ『自伝』で述べられています。

また、いま語ったような理由によって、その著作はナポリでも他の場所でも自分が費用を負担して出版してやろうという出版者が見つからなかったため、ヴィーコは別の処理法を考え出すことにした。それはおそらくその著作が本来とっていてしかるべき処理法であったのだが、こういう必要に迫られることがなかったならば、ヴィーコにしても到底考えつかなかったであろうもので、さきに出版された書物〔一七二五年の『新しい学』〕と比較対照してみれば、そこで採用されていたやり方とは、雲泥の差があることが明らかに見てとられるのである。また、この新しい処理法のもとでは、以前の著作では著作の筋立てを維持するために「註解」のなかで切り離されて雑然と羅列されていたことがらが、いまや、新しく追加されたかなりの量の事項とともに、ひとつの精神によって組み立てられ、ひとつの精神によって統率されているのが見られる。そして、このような秩序の力が働いた結果(この秩序の力こそは、論の展開にとって本来的な性質であることにくわえて、簡潔さの主要な原因のひとつである)、すでに出版された書物〔一七二五年の『新しい学』〕と今度の草稿とでは、わずか三葉分の増加があったのみである。

ヴィーコ『自伝』、強調引用者)

ヴィーコはこのように「秩序の力」によって『新しい学』の構成が変更されたと伝えていますが、この構成変更は「観念の原理と言語の原理」の取り扱いという本質的な問題を含んでいました。

『新しい学・第一版』では、主題においてではなかったにしても、順序においてたしかに誤った。というのも、観念の原理と言語の原理とは本性上互いに結合しているにもかかわらず、両者を切り離してあつかってしまったからである。また、そのどちらの原理とも別個にこの学があつかうもろもろの主題を展開していくさいの〔否定的な〕方法について論じたが、これらの主題は、もうひとつの〔積極的な〕方法によれば、観念と言語双方の原理から順次出てくるはずなのであった。このようなわけで、そこでは順序において多くの誤謬が生じることとなったのだった。

ヴィーコ『自伝』、強調引用者)

ヴィーコによれば「注解」スタイルはネガティヴな方法であり、なぜならそれは観念の原理と言語の原理を個別に切り離してしまうからだといいます。彼のポジティヴな方法はそうではなく、観念の原理と言語の原理が一体となってそこから主題が秩序をもって生まれるようなものです。 

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文献

*1:以下の点については上村忠男の解説(ヴィーコ 2018b:540以下)を参考にした。

サイード『オリエンタリズム』覚書(6)

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(承前)序説(二)

〈オリエント〉の「オリエント化」におけるヘゲモニー関係

前回このパラグラフに登場する「ヘゲモニー」概念を取り上げて、それがグラムシ的な意味でのそれであることを示した。そしてそれにつづく文章もまたグラムシ的であり、あるいはいわば「サバルタンスタディーズ」的な問題を孕んでいる。

The Orient was Orientalized not only because it was discovered to be “Oriental” in all those ways considered commonplace by an average nineteenth-century European, but also because it could be—that is, submitted to being—made Oriental. There is very little consent to be found, for example, in the fact that Flaubert’s encounter with an Egyptian courtesan produced a widely influential model of the Oriental woman; she never spoke of herself, she never represented her emotions, presence, or history. He spoke for and represented her. He was foreign, comparatively wealthy, male, and these were historical facts of domination that allowed him not only to possess Kuchuk Hanem physically but to speak for her and tell his readers in what way she was “typically Oriental.” My argument is that Flaubert’s situation of strength in relation to Kuchuk Hanem was not an isolated instance. It fairly stands for the pattern of relative strength between East and West, and the discourse about the Orient that it enabled.

オリエントがオリエント化されたのは、十九世紀の平均的ヨーロッパ人から見て、オリエントがあらゆる常識に照らして「オリエント的」だと認知されたからだけではなく、オリエントがオリエント的なものに仕立て上げられることが可能だった——つまりオリエントはそうなることを甘受した——からでもある。しかしそこには、ほとんど合意というものが見出されない。例えば、フローベールがひとりのエジプト人娼婦と出会ったことから、広範な影響を与えることになるオリエント女性像が想像された場合がそれである。そのエジプト人娼婦はみずからを語ることによって、自分の感情や容姿や履歴を紹介したのではなかった。フローベールがその女性のかわりに語って、その女性を紹介 = 表象したのである。フローベールは、外国人で、相当に金持ちで、男性であったが、これらの条件は、支配という歴史的事実にほかならない。この事実のおかげで、フローベールはクチュク・ハネムの肉体を所有するだけではなく、彼女の身代わりの話し手となって、彼女がどんなふうに「典型的にオリエンタル」であるのかを、読者に物語ることができたのである。ただし問題はフローベールがクチュク・ハネムに対して優位であった状況が決して例外的なものではなかったことである。フローベールにとっての力の状況は、東洋と西洋とのあいだの力関係の型ならびにそのような状況のおかげで成立したオリエントに関する言説をはっきりと象徴しているのである。

(Said 2003、訳27〜28頁、強調引用者)

ここでサイードが示唆しているのは、〈オリエント〉の「オリエント化 Orientalized 」の過程におけるヘゲモニー関係の存在である。すなわち(グラムシのタームである)「合意」を抜きにして、「オリエントがオリエント的なものに仕立て上げられることが可能だった it could be … made Oritental 」のは、(フローベールという)支配的階級が(エジプト人娼婦のような)いわばサバルタン(従属的階級)を「代表して代わりに語った」(He spoke for and represented her)からである。つまり、なぜ〈オリエント〉が作られたものなのかといえば、それは〈オリエント〉とされる人々が自分自身について語ったものではなく、他者による言説に過ぎないからであり、そしてまた支配階級という他者によって語られた〈オリエント〉の言説には常にすでにヘゲモニー関係が内在しているからである。

 しかし、どうして外国人の支配階級がエジプト人娼婦の代わりに語り、代表できるというのだろうか。フローベールが「ボヴァリー夫人は私だ」と述べたのと同様に、〈オリエント〉もまたフローベール自身に帰せられ得るのである*1

 なおここで「代表」という語が登場するが、これにはスピヴァクの興味深い問題提起が存在する。サイードの『オリエンタリズム』(1978年)が発表された十年後に、スピヴァクは『サバルタンは語ることができるか?』(1988年)という著作を発表した。スピヴァクのこの著作はグラムシの「サバルタン」概念を脱構築的に発展させたものであるが、その著作の中でスピヴァクマルクスの『ブリュメール18日』における「代表 representation 」概念に分析を加えつつ、「代表 representation」概念がもつ二重の意味に注目している。すなわち representation〔代表〕には、(政治的な意味で) vertreten〔代表する〕と(芸術や哲学における) darstellen〔表象する〕という二重の意味がある。そしてこの両義性こそが重要なのだとスピヴァクはいう。

(つづく)

文献

*1:クシウク・ハーネムが登場するのは、『フローベールのエジプト』(法政大学出版局、1998年、149頁以下)の箇所である。

サイード『オリエンタリズム』覚書(5)

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(承前)序説(二)

イードの〈オリエント〉とグラムシの「ヘゲモニー

 サイードが示す〈オリエント〉理解のための第二の留保条件は次のようなものである。

A second qualification is that ideas, cultures, and histories cannot seriously be understood or studied without their force, or more precisely their configurations of power, also being studied. To believe that the Orient was created—or, as I call it, “Orientalized”—and to believe that such things happen simply as a necessity of the imagination, is to be disingenuous. The relationship between Occident and Orient is a relationship of power, of domination, of varying degrees of a complex hegemony, and is quite accurately indicated in the title of K. M. Panikkar’s classic Asia and Western Dominance.

第二の限定条件として、観念や文化や歴史をまともに理解したり研究したりしようとするならば、必ずそれらの強制力——より正確に言えばそれらの編成形態コンフィギュレーション——をもあわせて研究しなければならない。オリエントはつくられた——あるいは私の言葉で言うと「オリエント化された」——ものだと考える場合、それは、もっぱら想像力がそれを必要とするからこそ起こることだと考えたりするのは、事実を偽るものである。西洋オクシデント東洋オリエントとのあいだの関係は、権力関係、支配関係、そしてさまざまな度合いの複雑なヘゲモニー関係にほかならない。この関係は、K・M・パニッカルの名著『アジア、そして西洋の支配』の書名のなかに、まことに的確に示されている。

(Said 2003:5、訳26〜27頁、強調引用者)

「強制力 force 」、「権力 power 」、「支配 domination 」、「覇権 hegemony 」、「力 strength 」、いずれもこのパラグラフ全体において「力」というタームが繰り返されていることがわかる。とりわけ「ヘゲモニー」はグラムシの思想において注目された概念である。グラムシ研究者の片桐薫は「ヘゲモニー」について次のように説明している。

 「ヘゲモニー」の語源はギリシャ語の「へーゲスタイ」で、ある国家や都市による他の国家・都市にたいする支配を意味していた。それを階級闘争の概念としてはじめて用いたのは、二〇世紀初頭のロシアの社会民主主義者たちで、農民その他の被搾取階級にたいするプロレタリア指揮権という意味に用いていた。レーニンもはじめはヘゲモニーという表現を使っていたが、一〇月革命前後からは「プロレタリアートの独裁」という表現を用いるようになっていった。それにたいし、グラムシヘゲモニーという表現を使って理論展開するようになるのは、一九二〇年代後半以降の「リヨン・テーゼ」「南部問題に関する若干の主題」「ソ連共産党中央委員会への手紙」においてである。だか原文ママこの段階では、「プロレタリアートの独裁」とほぼ同義語的に使っていた。

 ところが獄中期になると、はっきり変化を見せるようになる。それまでの「ヘゲモニー」概念をレーニンとクローチェから学んだことを認めながらも、その狭義の概念から脱皮していった。つまり、①レーニンの概念が政治指導をもっぱらとするのにたいし、支配と指導、強制と同意、政治社会と市民社会のかかわりでとらえた。②クローチェの「倫理的・政治的」指導という発想を介し、文化的・道徳的・イデオロギー的指導を意味するものとして、その概念の質的な修正をおこなった。こうして「ヘゲモニー」概念は、「獄中ノート」全体をつらぬく「赤い糸」として形成され、それは、コミンテルン系のマルクス主義とは大きく異なるものだった。

(片桐 2001:278)

要するに、「ヘゲモニー」とはかつて都市間の覇権をめぐる諸関係を示す概念であったが、後にレーニンが「プロレタリアート独裁」として用いた「ヘゲモニー」概念を、グラムシは「獄中ノート」の中で(クローチェの「倫理的なもの」を契機として)政治的なものから文化的なものへと変容させたというのである。

 サイードグラムシについて少しあとで言及しているが、その箇所はちょうどこのパラグラフを理解するために重要な点を含んでいる。

Gramsci has made the useful analytic distinction between civil and political society in which the former is made up of voluntary (or at least rational and noncoercive) affiliations like schools, families, and unions, the latter of state institutions (the army, the police, the central bureaucracy) whose role in the polity is direct domination. Culture, of course, is to be found operating within civil society, where the influence of ideas, of institutions, and of other persons works not through domination but by what Gramsci calls consent. In any society not totalitarian, then, certain cultural forms predominate over others, just as certain ideas are more influential than others; the form of this cultural leadership is what Gramsci has identified as hegemony, an indispensable concept for any understanding of cultural life in the industrial West. It is hegemony, or rather the result of cultural hegemony at work, that gives Orientalism the durability and the strength I have been speaking about so far.

グラムシは、市民社会と政治社会とのあいだに効果的な分析上の区分を設けた。市民社会のほうは、学校、家族、組合といった、自由意志による(つまり少なくとも理性的で非強制的な)加入・帰属関係から構成されており、政治社会のほうは直接の支配をその政治的役割とする国家制度(軍隊、警察、中央官僚制)から構成されているが、もちろん、文化の機能を認めることができるのは、市民社会においてである。市民社会では、思想・制度・他人格の影響力は、支配を通してではなく、グラムシの言う合意を通して作用する。さらに、全体主義的でない社会ではどこでも、ある思想が他の思想よりも大きな影響力をもつのと同じ意味で、ある文化形態が他の文化形態に断然優越している。この文化的主導権の形態は、グラムシによって、工業化された西洋社会の文化生活を理解するために絶対不可欠の概念、すなわちヘゲモニーとして認められたものにほかならない。オリエンタリズムに、これまで述べてきた持続性と力とを賦与するのは、このヘゲモニーであり、正確に言えば、文化的ヘゲモニーの作用の結果なのである。

(Said 2003、訳29〜30頁、強調引用者)

ここではグラムシの「市民社会」と「政治社会」(両者をあわせて「国家」とグラムシは考える)の区別について一般的な理解が述べられている*1。「政治社会」の機能とは「市民社会」に対する「支配 domination 」であり、これに対して「市民社会」の機能は「文化 cultur 」であり、そこには「合意」*2の契機がある。そこにおいて「ヘゲモニー」という概念は、国家権力のような勢力を意味するのではなく、われわれの内なるメンタリティと生活に根付いており、いわば社会に内在しているものである。〈オリエント〉にみられる西洋と東洋の力関係もまさに「ヘゲモニー」の観点から説明できるとサイードは考えているのである。

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文献

*1:そもそもこのような(「市民社会」と「政治的国家」の)区別について理性的な説明を与えたのは、ヘーゲル『法の哲学』である。ヘーゲル以前は、「市民社会」は「政治社会」と同一のものとみなされていた。

*2:ヘーゲルならばこれを「承認 Anerkennung 」と言うかもしれない。

ヴィーコ『新しい学』覚書(10)

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(承前)著作の観念

ゼノンの運命論(宿命論)とエピクロスの原子論

続きです。

神の摂理の光線は、形而上学が胸の飾りにしている凸面の宝石を照らしている。これは、傲慢な才気によっても卑賤な肉体的快楽によっても汚濁されていない清澄で純粋な心をここ〔本書〕では形而上学はもつべきであることを指し示している。前者の傲慢な才気によってゼノン運命〔宿命〕を生み出し、後者の卑賤な肉体的快楽によってエピクロス偶然を生み出した。そして、両者は、このために神の摂理の存在を否定してしまったのであった。

(Vico 1744:4〜5、訳23頁、強調引用者)

ここで2人の哲学者が登場します。ギリシアの哲学者ゼノンとエピクロスです。

 まずゼノン(キティオンのゼノン、紀元前335-263年)はいわゆるストア派創始者として知られており、彼の言葉に「運命πεπρωμένο)に従っていっさいは生ずる」というものがあるそうです。『すべては超越的な力によって左右されている』というこうした考え方は「運命論」や「宿命論」等と呼ばれています。

 次に、ここでヴィーコが言及しているエピクロスの生み出した「偶然 Caso 」とは、彼の原子論に関係があります*1エピクロスデモクリトスの原子論を継承しましたが、デモクリトスの原子論が決定論的であったのに対して、エピクロスにはいわゆる「クリナメン」、つまり原子の〈逸れ〉という考え方があったとされています*2。もっともエピクロス自身の著作は散逸しており、彼の思想が伝わったのはディオゲネス・ラエルティオスやルクレティウスらの著作を通してであります。

 ところでヴィーコは「後者〔の卑賤な肉体的快楽〕によって col secondo エピクロスは偶然を生み出した」と述べていますが、「快楽 piacere 」と「偶然 caso 」を結びつけているのは何故でしょうか。エピクロスの原子の〈逸れ〉という考え方は、従来の決定論的な考え方を退け、人間の「自由意志 libera voluntas 」の肯定につながりました。この「意志 voluntas 」という語は「快楽 voluptas 」という語と「アルファベット一文字の違いでしかない」*3という点で似ており、この点でエピクロスの原子論がかれ固有の快楽主義(とっても彼は肉体的快楽の追求を称揚したのではないのですが)と密接な関係を持っている可能性があります。

〈私的なもの〉の表現としての「平面」と〈公的なもの〉の表現としての「凸面」

さらにはまた、それは、これまで哲学者たちがおこなってきたように、神の認識が形而上学のところで終止してしまって、形而上学が自分だけ私的に知的なことがらによって照らし出され、ひいては、ただたんにおのれひとりの道徳的なことがらだけを統御するようなことになってはならないことをも指し示している。もしそれだけでよいのなら、平らな宝石で表示されていただろう。ところが、宝石は凸面で、光線はそこで反射して外部に拡散している。これは、摂理を立てている神を形而上学は公共的な道徳的なことがら、すなわち、諸国民がこの世に登場し自己を保存してきたさいに手立てになっている国家制度的な習俗のうちに認識するのでなければならない、ということなのである。

(Vico 1744:5、訳23頁、強調引用者)

ここで注目すべきは宝石の形状です。形而上学が身につけているのは、「平らな piano 宝石」ではなく「凸面の conversso 宝石」だと述べられています。「平ら」と「凸面」の形状の違いはどこにあるのでしょうか?

 宝石の平らな形状は、自己の私的な領域のうちに閉じこもってしまうこと、いわば物事を矮小化してしまうことの表現です。それは「自分だけ私的に知的なことがらによって照らし出され、ひいては、ただたんにおのれひとりの道徳的なことがらだけを統御するようなこと」だとされています。

 これに対して宝石の凸面の形状は、外に広がっていくこと、公的な事柄の表現です。「宝石は凸面で、光線はそこで反射して外部に拡散している。これは、摂理を立てている神を形而上学公共的な道徳的なことがら、すなわち、諸国民がこの世に登場し自己を保存してきたさいに手立てになっている国家制度的な習俗のうちに認識するのでなければならない、ということなのである」。この箇所をよく読むと、道徳には二種類あることがわかります。一つは前者の〈私的な道徳〉であり、もう一つは後者の〈公共的な道徳〉です。口絵の形而上学が身につけている宝石は凸面状ですので、〈公共的な道徳〉を志向する表現となっています。

 ヴィーコは、スコラ哲学のように社会から引きこもって自己内反省することで神を観照するような仕方を退けているわけで、そういったやり方ではなくむしろ社会の「習俗」のうちに神を観照するという方法を採用するわけです。ですので「哲学者たちがおこなってきたように」という箇所で批判されているのはスコラ哲学者の形而上学だとも言えるのであり、ヴィーコはここでいわば〈社会-形而上学者〉のような立場をとるわけです。

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文献

*1:エピクロスの原子論における〈逸れ〉について詳しくは中金 2017。

*2:彼らの自然哲学の差異に着目したものとして、若きカール・マルクスの学位論文があります。マルクスの学位論文について詳しくは加戸 2017。

*3:中金2017、5頁

ヴィーコ『新しい学』覚書(9)

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(承前)著作の観念

 祭壇と天

続けてヴィーコは、どうして祭壇が地球儀の下にあるのかの理由を説明しています。

祭壇が地球儀の下にあってこれを支えていることについても、これを不適切であるとおもってはならない。なぜなら、世界の最初の祭壇は異教徒たちによっていずれも詩人たちのいわゆる第一に建立されていたことが見いだされるからである。

(Vico 1744:4、訳22頁、強調引用者)

祭壇とは神聖なものなので、祭壇の上に余計なものを乗せることは不適切だと思われる可能性があります。だからヴィーコは、なぜ祭壇の上に地球儀が乗っかっているのかを説明しなければならなかったのかもしれません。

 ここで「第一天」という表現はよくわかりませんでしたが、おそらく地上と非常に近い天界をそのように呼んでいるのではないでしょうか。 その内容が以下の続きです。

詩人たちは、かれらの物語〔神話伝説〕のなかで、生育期にあった人類の幼児とでも言うべき最初の人間たちが——今日でも、幼児たちは、天は家の屋根とほとんど同じ高さのところにあると思いこんでいるように——山々の台地よりも高くはないと思いこんでいた時代に、天神は地上にあって人間たちに君臨し人類にいくつかの大いなる恩恵を残したと、これまた忠実にわたしたちに伝えているのである。それがその後、ギリシアの人々の知性がしだいに展開していくにつれて、ホメロスがかれの時代に神々がそこに住んでいたと語っているオリュンポス山のように、高山の頂上にまで高めあげられていった。そして最後には、今日天文学がわたしたちに論証してみせているように、天界にまで高めあげられ、オリュンポス山恒星天にまで高めあげられるにいたったのであった。これと同時に、祭壇も天に運ばれていって、ひとつの天宮を形成する。

(Vico 1744:4、訳22頁、強調引用者)

星座のモチーフはギリシア神話からきていて、僕は七月生まれのしし座に当たるのですが、これは12の星座に分けられています。西洋占星術はおそらく天文学と近いものがあり、12のサイン(宮)を合わせて黄道十二宮などと呼びます。

 古代の人々はオリュンポス山のような地上に神々が住んでいたと考えており、これは「人類の幼児」の持つ「想像力」によるものです。ヴィーコは歴史の初期の段階を「幼児」になぞらえて表現しており、「幼児」の特徴について本書第二部で次のように述べています。

幼児にあっては記憶力がきわめて旺盛である。ひいては想像力が過度なまでに活発である。想像力というのは拡大または合成された記憶力にほかならないのである。/この公理は、最初の幼児期の世界が形成していたにちがいないもろもろの詩的形象がいずれもじつに明白であることの原理である。

ヴィーコ 2018:訳197頁)

「幼児」の特徴は凄まじい「記憶力」と「想像力」にあり、だからこそ古代人は神話を持ち得たのだと言えるかもしれません。

ヘラクレスの「火」

また、それの上に置かれている火は、ご覧のように、獅子隣の宮座に移される(獅子は、いましがたも注意しておいたように、ヘラクレスがそこにを発生させて耕地に変えたネメアの森であったのである)。そして、その獅子の皮も、ヘラクレスの勝利を記念して、星辰にまで高めあげられたのだった。

(Vico 1744:4、訳22〜23頁、強調引用者)

祭壇の上に置かれている「火」は、ヘラクレスを表象しており、地球儀の中に描かれている獅子と隣り合わせになっています。ヘラクレスの十二の功業により、獅子は獅子座という星座になり、ヘラクレスヘルクレス座という星座とされるようになったわけです。ここで言及されているヘラクレスネメアの森については「ヴィーコ『新しい学』覚書(6)」ですでに述べた通りです。ヘラクレスとネメアの獅子については『新しい学』第4部「詩的家政学」でも次のように触れられています。

最後に、大地は凶暴で平定には多大の努力を要するという面をとらえたところから、最強の動物がつくりあげられた。ネメアの獅子である(そのためにそれ以来、動物たちのうちで最強のものには〈獅子〉という名があたえられるようになったのである)。この獅子を文献学者たちは途方もなく大きな蛇ではなかったかとも考えようとしている。また、これらはすべて口から火を吐き出すが、これはヘラクレスが森に放った火であったのだ。

ヴィーコ 2018:475)

しかし気になるのは「火」です。ヘラクレスの神話には、どうやら「火」は出てこないようなのです。この点、何か手がかりはないものでしょうか。

sakiya1989.hatenablog.com

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