まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』覚書(2)

目次

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アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(承前)

第一章 定義(承前)

感情としてのナショナリズムと運動としてのナショナリズム

 ゲルナーは続けて、「感情 sentiment」と「運動 movement」という二つの側面からナショナリズムを定義する。

 感情としての、あるいは運動としてのナショナリズムは、この原理によって最も適切に定義することができる。ナショナリズムの感情とは、この原理を侵害されることによって喚び起こされる怒りの気持ちであり、また、この原理が実現されたときに生じる満ち足りた気分である。ナショナリズムの運動とは、この種の感情によって動機づけられたものにほかならない。

 Nationalism as a sentiment, or as a movement, can best be defined in terms of this principle. Nationalist sentiment is the feeling of anger aroused by the violation of the principle, or the feeling of satifaction aroused by its fulfilment. A nationalist movement is one actuated by a sentiment of this kind.

(Gellner1983: 1, 邦訳107頁)

 第一に、ナショナリズム感情は、ナショナリズムの政治的原理を前提としており、つまり「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないことを維持する」という要請が実現されるかどうかによって、ナショナリズム感情はポジティブにもネガティヴにもなり得る。というのは、ナショナリズムの政治的原理は、ある種の理念的な欲望であり、この欲望の充足が何らかの障碍によって実現されえない場合には、ナショナリズム感情はネガティヴなものとして発生するであろうし、この欲望が充足されるならば、ナショナリズム感情はポジティブなものとなるであろうからである。

 第二に、ナショナリズム運動を突き動かす動因は、これに先行するナショナリズム感情にある。ナショナリズム感情はポジティブでもネガティヴでもあり得るから、ナショナリズム運動もまた、おそらくポジティブなものとネガティヴなものとの二つの傾向に分かれると考えられる。つまり、ナショナリズムは「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないことを維持する」ことを目指すが、それが妨害される場合にはネガティヴなナショナリズム感情に突き動かされて、先の要請を実現するためのナショナリズム運動が生じてくる。これに対して、「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならない」という要請が満足いく形で実現されている場合には、ナショナリズム感情はポジティブなものであり、これによって生じるナショナリズム運動は現状を維持する方向に向かうであろう。

(つづく)

文献

アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』覚書(1)

目次

はじめに

 以下では、アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(Ernest Gellner, Nations and Nationalism, 1983)を読む。

 本書第一版の邦訳(加藤節監訳)は岩波書店から2000年に出版された。今年4月に出版された岩波文庫版は、原著第二版(Second Edition, 2009)に収録されたブルイリーの序文も合わせて翻訳されており、この序文は本書の解説の役割も果たしており、ナショナリズム研究の文脈の中で本書を理解するための一助となっている。なお原題の「Nations」は複数形であり、「Nationalism」は単数形である。したがって、「"諸"民族とナショナリズム」が精確なタイトルである。エリック・ホブズボームの著作にも「1780年以後の諸民族とナショナリズム――綱領・神話・現実(Eric Hobsbawm, Nations and Nationalism since 1780: Programme, Myth, Reality, 1990)」(邦題『ナショナリズムの歴史と現在』浜林正夫・嶋田耕也・庄司信訳、大月書店、2001年)という似たタイトルのものがあるが、ゲルナーもホブズボームも「Nations」は複数形であり、「Nationalism」は単数形である。日本語では複数形を精確に翻訳に反映しない場合がしばしばあるが、とりわけ本書に限って言えば、「Nations」が複数形であることはナショナリズムの原理を理解するための重要な前提をなしている。

アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』

第一章 定義

ナショナリズムとは何か

 まずゲルナーはナショナリズムを次のように定義する。

ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である。

Nationalism is primarily a political principle, which holds that the political and the national unit should be congruent.

(Gellner1983: 1, 邦訳107頁)

ゲルナーがここで「第一義的には primarily」と述べているのは、この定義が本書においてナショナリズムを説明するための重要な「原理原則 principle」について述べているからである。

 第一に、ナショナリズムは「政治的な political」原理であって、「民族的な national」原理ではない。これを説明するためには〈政治的なもの political〉と〈民族的なもの national〉との違いを説明しなければならない。

 第二に、「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならない」という要請の背後には、〈政治的な単位と民族的な単位とが一致していないような事態がつねにありうる〉ということを示唆している。ある場所においてナショナリズムが生じているということは、そこにおいては政治的な単位と民族的な単位とが多少なりとも一致していないという事態がおよそ想定されうる。「政治的な単位」の代表例は「国家 state」であろうが、ゲルナーが「政治的な単位」を単純に「国家」の枠組みと同一視していないことは明らかである。だとすれば、「国家」と「政治的な単位」と「民族的な単位」とは、いずれも異なる概念枠組みであることになる。この点を踏まえた上で、「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならない」という要請が一体何によってもたらされたのかを明らかにすることが、ナショナリズムの起源を明らかにする上で重要である。

 第三に、ナショナリズムという政治的原理は、政治的な単位と民族的な単位とが不一致であらざるをえないような現状を認めようとしないことによって、無限に運動しうることを示唆している。「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならない」という道徳的要請は、ナショナリストにとっては実現されるべき理念である。この要請は永久に実現され得ないかもしれないが、にもかかわらず、ナショナリストはこの理念に向かって合目的的に行動すべき存在である。

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文献

宗教学史とは何か

「宗教学史とは何か」というテーマで、今から5分間だけ考えてみたい。

 ChatGPTに「宗教学史について教えて」と質問を投げかけると、宗教学史について簡単に教えてくれる。筆者は「宗教学」について体系的に学んだことがなかったので、ChatGPTの示唆は大いに役立った。

 ChatGPTはさらに、「宗教学史で扱うべき文献を教えて」と質問をすると、著者と著作名と概要を教えてくれる。ChatGPTの選書はアカデミックな水準から見ても的確だ。その確信は、島薗進『宗教学の名著30(ちくま新書)』(筑摩書房、2008年)という本で取り上げられている著者と概ね一致する部分が大きかったことによっても得られた。

 ChatGPTから得られた示唆を元にして、原著をGoogleのGemini Notebook(旧NotebookLM)で解説してもらうことができる。Notebookの機能で主に役立つのは「音声解説」と「レポート」機能である。Notebookを使って解説を作成するために、先にChatGPTでプロンプトを作成しておくと、より相応しい結果が得られる。例えば、ChatGPTに「〇〇について「宗教学史」の観点から解説するためのプロンプトを作成して」と投げかけると、宗教学史の文脈に位置付けるためのプロンプトを即座に作ってくれる。このプロンプトに基づいて、Notebookで「音声解説」や「レポート」機能を使うと、宗教学史のコンテクストの中に位置付けて著作の解説がなされる。非常に便利である。

 一方で、生成AIを使って宗教学史を整理することには、ある種の狭さを感じている。どういうことかというと、生成AIが示唆した宗教学史には数え上げられていない哲学者や思想家も、宗教学史の中に名を連ねても良さそうな人物がいる。個人的には、ヘーゲルの『宗教哲学講義』やシュトラウス『イエスの生涯』、フォイエルバッハ『キリスト教の本質』なども宗教学史の中に組み込んでも良さそうなのだが、ChatGPTの回答には含まれていなかった。そこに含まれていないということは、筆者の認識する「宗教学史」とChatGPTの考える「宗教学史」との間には、ある種のズレのようなものが存在する可能性がある。このズレの正体はよくわからない。

 宗教学史だけでなく、政治哲学史や他の学問分野においても、生成AIの考えるそれと筆者の考えるそれとの間には多かれ少なかれ違いがある。どちらが良いというわけではないが、生成AIの示唆は標準的なものであろう。

 しかしながら、そもそも何をもって「宗教学」とするのかを定義しなければ、本来は「宗教学史」を体系化することはできないはずである。だとすれば、まずやるべきことは「宗教」とは何か、「宗教学」とは何か、といったことを定義することである。

 一見すると「宗教」とは、その地域ごとに根差した生活文化そのものである。宗教には様々な宗派があり、キリスト教やイスラム教、仏教などと呼ばれている。各宗派ごとに教義も作法も異なっているが、「何かを信仰している」という点には変わりがない。

 マルクスが『ユダヤ人問題によせて』で指摘したように、実は貨幣経済もある種の宗教を形成しているのだが、多くの場合、それが「宗教」と呼ばれていないが故に「宗教」だと認識されないでいる。

 「宗教」が「人間の救済」を終極目的とする生活文化を形成しているとすれば、「宗教学」とはその構造を客観的に叙述し、明らかにすることを目指しているのではないか。

文体は思想である

 今回は「思想は文体に宿る」というテーマについて5分だけ考えてみたい。

 僕は自分の書いた文章をChatGPTに読み込ませて評価させるということをやっている。ChatGPTに評価させる文章は、僕の日記だったり、このブログのために書いた記事だったりする。

 それでChatGPTに評価してもらったあとに、「この文章を改善して全面的に書き直して」とお願いすると、僕の文章の飛躍や論理展開の甘い部分、一般的な読者にとって読みにくい箇所を噛み砕いて比較的読みやすい文章に変えてくれるのだ。

 ところが、である。

 ChatGPTが書き直した文体は、僕が書いた文体とは全く異なっている。もちろん主張している内容はおよそ同じものをなぞっているのだが、改行が多く、「AIが書き直した感じ」は否めない。もっというと、生成AIの書く文章は、下品なウェブサイトの書き方だ。はっきり言ってこんな文体、学校では習わない。生成AIは文章が得意なくせに、文章作成のルールを学ばなかったのか?

 したがって、今回のテーマである「思想は文体に宿る」とはどういうことかというと、いくら似たような内容だとしても、文体が違えばそこに込められた思想には大きな違いがあるということである。教養の違い、と言ってもいい。「文体は思想を表す」と言い換えてもいい。否、文体こそが思想なのである。

 この点を深く認識していたのがヘーゲルである。フォイエルバッハとマルクスがヘーゲルの文体に噛みついたのは、まさに文体こそが思想だったからである。何が主語で何が述語かというのは、思想を表現するための機微に関わる問題である。

 生成AIが危険なのは、この機微に無頓着だからである。生成AIは文法的におかしいところや論理の飛躍を修正してくれる「のではない」。文体を刷新してしまうことによって、我々の思想そのものを改変してしまうのである。

薫の手腕と中君のアンビバレントな感情(『源氏物語』宿木52)

目次

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はじめに

 今日はKUNILABOの「『源氏物語』を読む」(講師:西原志保、KUNILABO人文学講座@Onleine)に参加した。

 ここ数ヶ月、あまり『源氏物語』の中に没入できない日々が続いていたのだが、今日は非常に面白く読むことができた。

 次回は私がレジュメの担当なので、今回の授業に参加した範囲でわかったところをメモしておく。

薫の手腕に見られる二つの長所

 今回授業で読んだ範囲は、『源氏物語(八)』宿木52「中君の御子の五十日」(岩波文庫、254頁以下)である。

 この箇所は、前半における薫の手腕の描写と、後半における薫に対する中君のアンビバレントな感情の叙述におおまかに分けられる。描かれているのはいずれも薫の描写なのだが、薫の内奥の側からではなく、あくまで第三者から見た薫、もしくは中君から見た薫の印象と評価によって薫が描き出されている。

 まずは前半の薫の手腕の描写を見てみよう。

宮の若君の五十日になり給ふ日かぞへとりて、そのもちひのいそぎを心に入れて籠物、檜破籠などまで見入れ給ひつつ、世の常のなべてにはあらずとおぼし心ざして、沈、紫壇、銀、黄金など、道みちの細工どもいと多く召しさぶらはせ給へば、われおとらじとさまざまのことどもをし出づめり。

(『源氏物語(八)』宿木52、岩波文庫、254頁)

ここで薫の手腕には二つの面で長所が認められる。マネジメント能力とそのクオリティである。

 薫の手腕の第一の長所は、スケジュール管理あるいはマネジメント能力である。「宮の若君の五十日になり給ふ日かぞへとりて」とあるように、中君の御子の生後五十日*1をわざわざ逆算して、指示を出している。これは簡単そうに見えて、簡単ではない。普段から薫が実務上、スケジュール管理とマネジメント能力を発揮していることが窺えるのである。

 加えて第二に、薫がすごいところは——「そのもちひのいそぎを心に入れて籠物、檜破籠などまで見入れ給ひつつ」と——祝儀の品に何が相応しいかということを把握しておくだけにとどまらず、「世の常のなべてにはあらずとおぼし心ざして」と、世間一般のクオリティにはとどまらない、より高い水準を目指している点にある。「道々の細工ども」を多く集め、「われおとらじ」と競争原理を働かせて、成果物の質を通常規格よりも引き上げているところも見逃せない。

 このように薫がシゴデキ(仕事デキル人)として描かれた後に、ある意味でその文脈を前提として、後半では薫その人に対する相反する評価が描かれることになる。

中君のアンビバレントな感情

 薫は——「身ずからも、例の、宮のおはしまさぬひまにおはしたり」と——匂宮が居ない隙を巧くみて中君を訪ねる。これは、タイミングを見計らう薫の手腕が良くも悪くも遺憾無く発揮されているといえようが、もし匂宮がそこに居あわせたならば話さないであろう事柄を中の君に対して話そうと考えているとするならば、少々気味が悪い感じもする。

 それで中君は、若君の五十日の祝においてシゴデキを遺憾無く発揮した薫の印象で——「心のなしにやあらむ、いますこしおもおもしくやむごとなげなるけしきさへ添ひにけりと見ゆ」と——昇進して貫禄がついたと、良い印象を持ったようだ。思わず中君は——「いまは、さりともむつかしかりしすずろごとなどは、紛れ給ひにたらんと思ふに、心やすくて対面し給へり」と——薫に安心(油断)してしまう。

 だが、その良い印象はすぐに薫の言葉によって打ち砕かれることになる。

されど、ありしながらのけしきに、まづ涙ぐみて、

「心にもあらぬまじらひ、いと思ひのほかなるものにこそと、世を思ひ給へ乱るる事なんまさりにたる。」

と、あいだちなくぞ愁へ給ふ。

(『源氏物語(八)』宿木52、岩波文庫、254頁)

なんと薫は、『気乗りしない結婚をしてしまった』などと、中君にあけすけに——「あいだちなく」——漏らすのであった。困りながら中の君は薫に対して——「いとあさましき御ことかな。人もこそおのづからほのかにも漏り聞き侍べれ」と——フォローを入れる、否、入れざるを得ない。

 なんと薫は変わっていなかった、と中君は思う。前言撤回である。そして中君は、一方で——「かばかりめでたげなる事どもにも慰まず、忘れがたく思ひ給ふ覧心深さよと、あはれに思ひきこえ給ふに、おろかにもあらず思ひ知られ給ふ」と——薫の大君に対する愛情に同情しつつ、しかし同時に他方で——「おはせましかばと、くちをしく思ひ出できこえ給へど」と——大君の立場にも感情移入する。

 ここで中君は、もし薫が大君と結婚したとして、大君が幸せになっただろうかと考える。結婚で幸せになるためには、薫の並々ならぬ愛情だけでは十分ではなく、生まれ持った身分が作用するのだと、中君は考え直す。現に自分自身がそうなのだから、と。生まれ持っての境遇によって、幸せにはなれないのだと。はたしてそうなのか。

おわりに

 薫の手腕は実務上は見事であるが、中君の前での薫は少しみっともない感じがする。つまり、公的な姿はかっこいいが、私的な姿はダサい。もちろん厳密な意味で、薫という立場の人間に〈公〉と〈私〉の厳密な区別がどこまであるのかという議論はここでは措いておく。というかむしろ薫はある意味で中君に対しては〈公私混同〉しているような気さえする。この感覚はあながち間違いではないのではないか。つまり、薫は自身の〈公〉の立場を存分に活かしつつ、中君の〈私〉の領域に入り込んでいるのである。だが、先に述べた通り、この時代の結婚というものが限りなく〈公〉の領域で執り行なわれている「政治」の一環であるということも前提として踏まえておく必要があるだろう。

文献

*1:ただし正確には五十日ピッタリではなく、五十日付近の吉日が選ばれるそうである(『鑑賞と基礎知識』「『紫式部日記』の敦成親王五十日の祝」参照、168頁)。

ヘーゲル『精神現象学』覚書(23)

目次

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ヘーゲル『精神現象学』(承前)

二つの〈現在〉

かつて人々は広く豊かな思想と形象を備えた展開を認めていた。存在するすべてのものの意味は、自分を天国へと結びつけてくれる光の糸のうちに在った。この現在に止まるのを止め、現在を超えて神的なものに、いわば彼岸的現在の方に向けられていた。

(Hegel1807: x, 樫山訳(上)23頁)

ここで「この現在 dieser Gegenwart」と「この」がイタリックで強調されている点に着目してみよう。「この現在」とは何であろうか。「現世」だとか「この世」に該当するものだと思われるが、この現世的なものを超越した「神的なもの」は「彼岸的現在 jenseitigen Gegenwart」と言い換えられている。ということは、「現在 Gegenwart」という概念は、此岸にも彼岸にも使用可能な概念である、ということがわかる。

 だが、いったい「現在 Gegenwart」とは何であろうか。「彼岸的現在」とヘーゲルが表現する際に「いわば wenn man so sagen kann」と付け加えていることからも、本来の「現在 Gegenwart」はやはり現世の側を指していると思われる。

 ここでの文脈を踏まえると、地上に居ながら同時に見ている世界は、広大な宇宙とのつながりに向けられていると述べられている。こうした内容を、昔の思想家は、ミクロコスモスとマクロコスモスと呼んだ。

 ヘーゲルはここで天文学を指しているのだろうか。

(つづく)

文献

経済学史・西洋哲学史・政治哲学史・宗教学史

 昨年末から今年にかけて、生成AI(Gemini Notebook)で作成したYouTube動画のコンテンツが雑多かつ大量になっており、それらを整理するためにnoteで『目次』として「経済学史」「西洋哲学史」「政治哲学史」「宗教学史」というページを作成した。あるいは哲学者・思想家ごとのページを作成し、をこれまた生成AI(ChatGPT)で作成した簡単な紹介文を載せてみた。

note.com

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 しかしながら、これらいずれのページも作れば作るほど、いくつか問題が生じてきた。

 第一に、「西洋哲学史や経済学史といった各テーマで取り扱われて然るべき著作や人物が取り扱われていない」という問題である。この問題が発生する要因は、端的に、資料を元にコンテンツを生成する時間が不足しているという点にある。

 第二に「この人物はここで取り扱われて然るべき著作・人物なのか」という問題である。取り扱おうと思えば、どれほどマイナーな人物の著作であっても取り扱うことはできる。しかしながら、マイナーな人物が登場するのに、それに不釣り合いなほどに最も重要でメジャーな人物の著作が取り扱われていないというのでは困る。したがって、マイナーな人物の著作を取り扱うためには、前提条件としてメジャーな人物の著作を取り扱っておくべきである。

 第三に、「西洋哲学史」や「経済学史」「政治思想史」というのは、そのテーマの重要人物の単なる羅列であってはならない。それぞれの時代区分ごとに、重要視されてきたテーマがあり、それについてどのように人々が考えたかという流れを示さなければ、「〇〇学史」の名に値しない。

 ここまで来ると、生成AIにコンテンツを出力させるだけではダメで、改めて勉強が必要である。そのため、シラバスを作るぐらいの勢いで、改めて書籍や教科書を眺めたりしている。

 

 で、今日は何の本を読んでいるかというとこれである。

 本当は依田高典『ノーベル賞で語る現代経済学』(中公新書、2026年)が気になっていてジュンク堂書店に買いに行ったところ、ミルトン・フリードマンも「経済学史」で取り扱うべきかどうかの参考に面白そうだなと思ってこちらを買ってきた(ただし一冊五千円もするし高い)。

 熊野先生の本は、僕が『源氏物語』のレジュメを打ち込むのに集中力が切れてしまい、近くにあったくまざわ書店に立ち寄ってパラパラとめくって立ち読みしたら面白そうなエッセイが並んでいたのでつい買ってしまった。熊野先生の文章は、本人が思っている以上にエッセイ向きだと思う。