まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

フーコー『言葉と物』覚書(1)

目次

はじめに

 このシリーズではミシェル・フーコー『言葉と物』(渡辺一民・佐々木明訳、新潮社)を読んでいきたい。

 筆者はフーコーの著作に何度かチャレンジしてみたが、解説書を読むのとは異なり、すんなり理解することが困難であった。というのも、フーコーはものすごく広い視野を持ちながら、それらを深い水準で考察しているので、俄の知識では太刀打ちできないからであった。しかし、フーコーの著作を理解すれば、これまでとは違った視野が開けるのではないかという確信を筆者は抱いている。

 フーコーは本書の序の冒頭で、この本の出生地がボルヘスの著作にあることを告げている。そしてフーコーボルヘスのテクストから引用する箇所は、ボルヘスがそのテクストの中で『中国の百科事典』から引用した箇所である。この引用は二重に抜粋されているといえる。ボルヘスのそのテクストは『続審問』の中に収められている「ウィルキンズの分析言語」であるが、そこに登場する『中国の百科事典』について詳しいことはよくわからない。

この書物の出生地はボルヘスのあるテクストのなかにある。それを読みすすみながら催した笑い、思考におなじみなあらゆる事柄を揺さぶらずにはおかぬ、あの笑いのなかにだ。いま思考と言ったが、それは、われわれの時代と風土の刻印をおされたわれわれ自身の思考のことであって、その笑いは、秩序づけられたすべての表層と、諸存在の繁茂をわれわれのために手加減してくれるすべての見取図とをぐらつかせ、〈同一者〉と〈他者〉についての千年来の慣行をつきくずし、しばし困惑をもたらすものである。ところで、そのテクストは、「シナのある百科事典」を引用しており、そこにはこう書かれている。「動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳吞み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、(n)とおくから蠅のように見えるもの。」この分類法に驚嘆しながら、ただちに思いおこされるのは、つまり、この寓話により、まったく異った思考のエクゾチックな魅力としてわれわれに指ししめされるのは、われわれの思考の限界、《こうしたこと》を思考するにあたっての、まぎれもない不可能性にほかならない。

フーコー2020: 11)

ここでフーコーは「思考」を「われわれの時代と風土の刻印をおされたわれわれ自身の思考」と言い直している。この「われわれ」とは、中国(シナ)と対立する、きわめて西欧的な意味での「われわれ」である。『中国の百科事典』がどうして「思考」をぐらつかせるのかというと、『中国の百科事典』にみられる分類法が、西欧的な分類法とはかなり異なっていて、西欧人には理解し難いからである。近代の西欧人にとっては、いかにして合理的に分類するかが啓蒙思想の課題であった。そもそも『百科事典』のアルファベット式系列は、それによって手早く検索をかけるという近代合理主義的な発想に基づいている。しかしながら、上で引用された『中国の百科事典』には合理的なところが一つも見当たらない。だからこそフーコーはここで笑いを催さずにはいられないというのである*1

(つづく)

文献

*1:百科事典の思想については以下を参照されたい。拙稿2018「検索と参照──L'Encyclopédie・Cyclopædia・Wikipedia」。

いかにして過去のコンプライアンス違反と共存するか——『炎炎ノ消防隊』にみる組織論

目次

はじめに

 今回は「いかにしてコンプライアンス違反と共存するか——『炎炎ノ消防隊』にみる組織論」というタイトルで書きたいと思います。

 ご存知の方もいらっしゃると思うのですが、『炎炎ノ消防隊』(大久保篤週刊少年マガジン連載、2015年〜)という漫画があります。現在も連載が続いており、アニメの第二期(弐ノ章)が毎日放送・TBS系列で放映中です。

amzn.to

fireforce-anime.jp

 この作品には様々なモチーフ(元ネタ)が散りばめられており、それらを取り上げるだけでも一冊の本が書けてしまいそうな内容を含んでいます。

 しかし、それ以上にこの作品は幅広い年齢層に支持されるエンターテインメントであるだけでなく、子どもにも大人にも学びが深いと思われるメッセージを発信していると私は考えています。そのメッセージの一つが、「いかにしてコンプライアンス違反と共存するか」というテーマです。

コンプライアンス違反のモデルケースとしての『炎炎ノ消防隊

 このテーマが扱われているのは、アニメ『炎炎ノ消防隊』第一期(壱ノ章)の第七話『第一調査開始』、第八話『焰の蟲』、第九話『燃え広がる悪意』です。

 主人公である森羅日下部(シンラ・クサカベ)は、普段は第8特殊消防隊に所属する隊員ですが、ここで第1特殊消防隊への潜入調査を行います。

 第1特殊消防隊の中隊長である烈火星宮(レッカ・ホシミヤ)は、名前の通り松岡修造ばりの熱血キャラなのですが、子どもたちを集めて人体実験をしていました。その人体実験とは、蟲によっても「焰ビト」化しない「適合者」を見つけるというものでした。ほとんどの場合は「蟲」によって「焰ビト」化してしまうので、子どもたちはその人体実験の犠牲になっていました。この人体実験のために子どもたちを集めてくる役割を担っていたのが、第1消防隊の環古達(タマキ・コタツ)です。

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(子どもたちに声をかけるタマキ。アニメ『炎炎ノ消防隊』壱ノ章第八話『焰の蟲』より)

 「焰ビト」と化した人々を鎮魂すること、これが特殊消防隊の任務であり、この組織の目的です。しかしながら、「蟲」によって人工的に「焰ビト」を作り出していたというレッカの行為は、特殊消防隊という組織の目的に相反するものであり、言い換えるならばコンプライアンス違反だと言えるでしょう。「コンプライアンス」とは、日本語では「法令遵守」と訳されますが、ここでは社内規則や社会通念に照らした倫理観のようなものを意味するものとして用います。そして『炎炎ノ消防隊』のストーリーは、言ってみれば『特殊消防隊という組織が、その隊員がコンプライアンス違反を犯した時に、どのように対処したか』のモデルケースを示しているといえるのです。

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(人工的に「焰ビト」化する「蟲」を使って、子どもたちの中から「適合者」を見つける人体実験を行なっていたレッカ。アニメ『炎炎ノ消防隊』壱ノ章第九話『燃え拡がる悪意』より)

いかにして過去のコンプライアンス違反と共存するか

 レッカはこの事件の主犯であり、コンプライアンス違反としては重い処罰が下されてしかるべき人物です。その象徴としてか、レッカはストーリーの中では死ぬ運命にあります。

 一方、この事件に間接的に関与していたタマキにもまた組織として処分が下されています。タマキはこの事件の当事者でありながら、同時に犠牲者でもあります。なぜなら、タマキは自分の集めた子どもたちが「焰ビト」にされるとは知らなかったからです。しかし、タマキもまた組織として処分が下されたということは、「事件に関与した以上は、知らなかったで済まされない」というメッセージを、『炎炎ノ消防隊』は視聴者に発信していると受け取れるわけです。

 タマキに下された処分とは、第1特殊消防隊における活動自粛であり、その代わりに第8特殊消防隊に無期限で研修配属されることになりました。特殊消防隊は別の部署で生かす道をタマキに与えたことになります。

 タマキが、本来は第1特殊消防隊に所属する隊員であるにもかかわらず、第8特殊消防隊にいるということは、その背後には常に過去のコンプライアンス違反が象徴されているわけです。

 その後、タマキが第8特殊消防隊のメンバーとして生き生きと活動している様子は、この続くストーリーを通じて、我々がいかにして過去のコンプライアンス違反と共存していくかの良いモデルケースとなっているのです。

おわりに

 今回はレッカとタマキの事件をコンプライアンス違反のモデルケースとして取り扱いました。実はこの事件には他にも言及すべきテーマが含まれています。それはレッカによる洗脳という側面です。この事件でレッカから被害を受けたのはタマキだけでなく、人体実験のために集められた子どもたちもまたそうなのです。ただし、この洗脳の側面については、現在放映中のアニメ第二期(弐ノ章)で決着がついておりませんので、別の機会に書きたいと思います。

〔翻訳〕デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(4)

目次

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デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(承前)

第一部 本来的な意味でのイデオロジー(承前)

イントロダクション(承前)

だが、あなた方はこの仕組みが思うほどには複雑ではないことがすぐにわかるだろう。そのことがはっきりとわかるためには、つぶさに検討するだけで十分である。すでにあなた方は、みずからにとって真の諸観念をつくり、それらを的確に表現し、適切に組み合わせることを確信するにはその仕組みを知る必要があると感じている。これら三つの条件は、それ抜きではでたらめに推論するより仕方ないようなものである。かくして共に我々の知能を研究しようではないか。私はただあなた方の案内人にすぎないのであって、それはすでに私があなた方よりも考えていて、私にとっては何の役にも立たなかったといえるからではなく、私はひとがどうやって考えているかを大いに観察したのであり、そのことをあなた方にわからせることが重要であるからである。

(Tracy1804: 4)

トラシーは人間の思考様式を観察した。その結果、人間の思考様式を、観念の生成・表現・組み合わせの三つにまで集約したのだ。だからそれは「複雑ではない」とトラシーはいうのである。

(つづく)

文献

〔翻訳〕デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(3)

目次

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デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(承前)

第一部 本来的な意味でのイデオロジー(承前)

イントロダクション(承前)

 私がこの文章の中であなた方が考え、話し、推論する際にあなた方の中で起こっているそのすべてをあなた方に教えたくはないがしかし指摘しようと思うのは、あなた方をどちらからも守るためである。諸観念〔考え〕を持つこと、それを表現すること、それを組み合わせることは、三つの異なる事柄であるが、これらは密接に関連している。ごくわずかなフレーズのうちにこれらの三つの作用が見いだされる。これらの作用はとても混ざり合い、とてもすばやく実行され、一日、一時間、一瞬のうちに何度も繰り返し更新されるので、最初はそれが我々の中でどのように起こっているかを解明するのが非常に難しいように思われる。

(Tracy1804: 3-4)

トラシーは観念に関する「三つの作用 trois opérations 」を取り上げる。

  1. 諸観念を持つこと
  2. 諸観念を表現すること
  3. 諸観念を組み合わせること

これらの作用が混ざり合いながら頭の中で何度も高速に行われているとトラシーはいう。

 1.「諸観念を持つこと」は、何かに影響されて考えを持つにいたったとすれば、受動的な作用だといえるかもしれない。

 2.「諸観念を表現すること」は、外部に対する発信であるならば、能動的な作用だといえるかもしれない。

 3.「諸観念を組み合わせること」は、それによって複合的な新たな観念が生まれるならば、創造的な作用だといえるかもしれない。

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文献

〔翻訳〕デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(2)

目次

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デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(承前)

第一部 本来的な意味でのイデオロジー(承前)

イントロダクション(承前)

 ホッブズのこの観察はまさしくそのとおりである。我々はともにそのことの理由へとすぐさま到達するであろうが、その間、あなた方はそれをかなり確実なことだと思っていて差し支えなかろう。あなた方のわずかな個人的体験が、いかにその経験が広範であっても、そのことの証明をすでに示すものではなかったとするならば、私はとても驚くであろう。いずれにせよ、はじめにあなた方の仲間たちの一人が、他の全員には明らかに不条理に見えるような何らかの観念に頑なに執着するときには、細心の注意を払って彼を観察するのだ。そしてあなた方は、あなた方には最も明白だと思われる理由を彼が理解できないような精神状態にあることを見ることになろう。これすなわち、同じ観念が彼の頭の中ではあなた方のものとは全く異なる順序で前もって配置されているということ、そして先の観念が訂正される以前に邪魔されるに違いないような他の観念の無限にあることに起因するということ、これである。別の機会にあなた方は彼にお返ししてやることができるかもしれない。ああ、我が友よ、ひとが間違った哲学体系や子どもたちの遊びの中の間違った構成に執着するのは、同じ仕方であり、同じ原因によってなのである。

(Tracy1804: 2-3)

普段の日常の中で『あの人の考えていることはよく分からない、どう考えてもおかしい』ということはないだろうか。こういう時に何が起きているかをトラシーは俯瞰的に叙述している。つまり、その人と自分との間には、頭の中での観念の配列が異なっているのである。

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文献

〔翻訳〕デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(1)

目次

はじめに

 かつて私は大井赤亥さん(政治思想史・政治家)に次のようにTweetしたことがあった。

私はこのように「イデオロギー」の原義はデステュット・ド・トラシーの「観念学」であり、マルクス主義的な「イデオロギー」は転義だと述べた。だが、いわゆる「観念学派」の著作を読んだことはなかった。言ってしまった手前、どうしても気になってくる。

 マルクスはかつて「私はマルクス主義者ではない」と述べたという。それゆえ、マルクス主義的な「イデオロギー」とマルクスの「イデオロギー」でさえも、両者を峻別しなければならないであろう。ドイツ語の「イデオロギー」は転義であるが、ならば原義と転義との間でどのような違いが生じているのかについても、やはりはっきりさせなければならないであろう。そうこう考えているうちに、自分なりに原義としての「イデオロジー」から転義としての「イデオロギー」についての概念史*1を、原著に沿って整理したくなってみた。望月によれば、

《idéologie》は、デステュット・ド・トラシによる新造語である。トラシは、これを宣言することにより、新しい学知の理念を明確にした。《idéologie》は、換言すれば《science des idées》、すなわち「観念の科学」であるが、しかしそれは単に理論的に学知の革新を目指したものではなく、それを通して社会変革を志向する、実践的であるという、その意味において優れて思想的なものであった。

(望月2001: 1)

 このような、「イデオロギー」の原義としての「観念学(イデオロジー)」について探究すべく、以下ではデステュット・ド・トラシー(Antoine Destutt de Tracy, 1754-1836)の代表作である『観念学要論』(Élémens d’idéologie, Paris, 1801-1815)の翻訳を試みたい。本書について、阿部は次のように説明している。

 「フランス革命」の最中に, とは言うものの「テルミドールの反動」の後ではあるが, 前述の「イデオローグ」学派によって, 「イデオロジー」という概念が打ちたてられた。この概念は, 現在わたしたちが日常普段に用いている「イデオロギー」という言葉の語源である。しかし, 元来はこの概念は人間が, 「神」などの絶対的価値に囚われることなく, 自由に, 「人間」を基本にしてあれこれ宇宙を組み立てようとする考え方であり, 哲学であった。

 この哲学の提起はデステュット・ド・トラシーが1796年に行ない, 1801年には『イデオロジー論』として刊行された。このイデオロジーに関する著作は1801年に第1巻, 1803年に第2巻, 1805年に第3巻が刊行された。タイトルは次のようであった:

 第1巻:厳密な意味でのイデオロジー

 第2巻:文法学

 第3巻:論理学

 第1巻から第3巻までが, 「イデオロジー論」第一部として, 人間の知覚手段の形成に関する段階的発展に関する研究であった。これに対して, 第二部:知覚手段を人間の意志とその結果へ応用する問題として, 経済学及び道徳(未完)が1815年に発表された。これはそもそも未完であったこともあるが, この段階で, 「イデオロジー論」の体系はストップしてしまった。

(阿部1988: 9-10)

 デステュット・ド・トラシー『観念学要論』の原文はフランス語である。私見では、邦訳はおそらくまだ無いと思われる。訳者(私)はそれほどフランス語は得意では無い。というよりも、修士の頃に研究上の都合で使用したドイツ語と比べると、フランス語に取り組んだ時間は圧倒的に少ないのである。本来であれば、ルソーの著作でも何でも良いのでフランス語の著作に一度沈潜してから翻訳に取り組むべきかもしれない。だが、日中は仕事している為、もはやそんな余裕はない。

 今回の翻訳でもバーボンの翻訳と同様にGoogle翻訳とDeepL翻訳を活用させていただくことにする。実際試して分かったことだが、英語と比べるとフランス語の機械翻訳は訳文がこなれておらず、全然実用に堪えない。結局辞書を片手に最初から訳しなおすハメになっている。誤訳・誤植のオンパレードだと思われるので、どうか心優しい読者の監督を期待する。

デステュット・ド・トラシー『観念学要論』

第一部 本来的な意味でのイデオロジー

イントロダクション

 若者たちよ、私はあなた方に語りかけている。私はあなた方のためだけに書いている。私は、すでに多くの事柄を知り、よく知っている人たちに授業するなどと称するつもりはない。その代わりに、私は彼らに啓蒙〔の光〕を期待する。そして、へたに知識を持つ者たち、すなわち、非常に多くの知識を持っている者たちが、自分たちは確実だと思い込んでいるような誤った結果を引き出し、長きにわたる習慣によってつなぎ留められている者たちについては、私は、彼らに私の考えを提示することからはいっそうほど遠い。なぜなら、最も偉大な近代の哲学者の一人が述べているように(原注1)、『人々がひとたび誤った意見を受け入れて、その意見を真摯に彼らの精神〔知性〕に記憶してしまうと、すでに文字の〔ごちゃごちゃ〕入り混った紙に読みやすく書くのと同じように、彼らに明瞭に話すことはまったくもって不可能である』からだ。

(Tracy1804: 1-2)

イントロダクションの冒頭で、トラシーは「若者たち」に語りかけている。これは要するに、若者にはまだ知識が十分備わっていないがゆえに、トラシーの述べることが、かえってすんなり理解できるのだということであろう。このようにトラシーは、自身の語る「観念学」が、従来の慣習に相反するものであることを示唆するのである。

 原注1には、ドルバック(Paul Thiry, baron d’Holbach, 1723-1789)によって翻訳されたホッブズ『人間本性論』が指示されている(Hobbes, Traité de la Nature humaine, traduction du baron d’Holbach.)。ホッブズの著作に "Human Nature: or The fundamental Elements of Policie" (1650) というものがあるが、これを翻訳したものだろうか。

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文献

*1:イデオロギー」についての文献は山ほどある。「イデオロギー」についての最も有名な著作は、マルクスエンゲルスらの手による草稿、通称「ドイツ・イデオロギー」であろう。ちなみにマルクスの「パリ・ノート」(1844-45年頃)の「ノートⅤ」には、デステュット・ド・トラシー『観念学要論』からの抜粋ノートもみられる。そのほか、マンハイム『イデオロギーとユートピア』ハーバーマス『イデオロギーとしての技術と科学』アルチュセール『再生産について』、また近年ではジジェク『イデオロギーの崇高な対象』イーグルトン『イデオロギーとは何か』も無視できないであろう。

内閣総理大臣による「日本学術会議」新会員任命不履行事件について

はじめに

 今回は「内閣総理大臣による「日本学術会議」新会員任命不履行事件について」というタイトルで書きたい。

 最初に断っておくが、私は仕事をしている身であるから、この事件についてきっちり書く余裕がない(なので、まずはざっくりと概要を書き上げ公開した上で、後に適宜加筆修正を施す予定である)。またこの件に関しては、すでに大学や有識者から声明が出ているので、全ての論点に言及する必要はないだろう。私なりに書いておくべきと思われることだけを取り上げる。

問題の所在

 私の家にはテレビがないので、ワイドショーでどのように取り上げられているのかは知らない。が、一部の番組(『バイキング』という?)では、日本学術会議について不適切な解説が行われたという(日本学士院と混同しているとか、年金がたくさんもらえるとか…、まああれだけ優秀な人たちなんだから別に年金もらったって良いじゃんと個人的には思うのだが)。

 そしてTwitterを見ていて思うのは、論点がものすごく拡散しているということ。特に日本学術会議がどのような組織で、その活動に十分意義があるのかとか、どうでも良いことに注目が集まってしまっているように思われる。問題はそこではない。

 日本学術会議法というものがある。法律とは明文化された決まりごとである。これには当然、内閣総理大臣であろうと、いかなる政治家であろうと、基本的には従わなければならない。

 この日本学術会議法によれば、日本学術会議の新会員は、会員の推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する、というように書いてあるそうである。そしてこれは中曽根(当時:総理大臣)の発言記録にもあるように、形式的なものであって、実質的なものとしては捉えられていないという解釈がされてきた。

 内閣総理大臣には形式的な任命権しか許されておらず、実質的な任命権は許されていない。これはどういうことなのか。

 日本学術会議の新会員を推薦するにあたって、誰を推薦するかというのは、この会議に属する学者である。学者というのは極めて高度な研究を行なっているのだから、同じ学者でなければ新会員に推薦すべきか否かを判断することができないはずだ。つまり、任命権の「実質的」なものとは、新会員にふさわしいか否かを判断する能力を意味する。

 もし内閣総理大臣に実質的任命権まで認められているとしたら、内閣総理大臣自身が学者の研究を見極められるほど優秀であり、それによって新会員にふさわしいか否かを判断する能力を有していなければならない。だが、こういうケースは稀にしかあり得ないだろう。

 今回の事件では、6人の学者を名簿から外して、他の99人を新会員として任命した。従来の法解釈に従うなら、当初内閣官邸に提出されたリストに掲載されていた105人の推薦された者を全員そのまま内閣総理大臣が新会員として任命しなければならないはずだ。

 しかし今回は歴史学者や法学者、政治学者らの6人に関しては任命しなかった。このことは政府の何者かが実質的任命権を行使したことを意味する。しかし、日本学術会議法における内閣総理大臣による任命は形式的なものだと解釈されてきたのだから、実質的任命権を行使することは違法である。

 政府はこれに対して「適法」だと述べているのだから、非常にたちが悪い。政府が違法を適法と言いくるめている言い方は、任命権という法は「義務的なものではない」というものである。権利に対して義務を持ち出している。

 だが、今回の内閣総理大臣による「日本学術会議」の新会員の任命は、内閣総理大臣に対して新会員を推薦に基づいて任命する権利までは認められているものの、新会員を選択する権利までは認められていないと解されるべきである。むしろ任命する権利はそれを行う義務とセットである

 総理官邸に「日本学術会議」の新会員の人選を許容するということは、この法律の恣意的な運用を許容することを意味する。権力者による法の恣意的運用は、権力の濫用につながる。非常に危険である。

私の見解

 私の基本的な見解についてはすでにTwitterで次のように述べておいた通りである。

以下補足。

 

 今回の事件が「デモクラシーの問題に解消されてはならない」というTweetは、三浦瑠璃さんのTweetに反応したものである。

三浦瑠璃さんがこの事件を「民主主義の問題だとは思っておりません」と述べている点は非常に慧眼であると私は思う。三浦さんはおそらく、この件を民主主義の問題として捉えてしまうとポピュリズム日本学術会議の存在を許容しないだろうから、結果的に政府による任命拒否を支持することになるだろうという結末を見通しているように見える。だから、民主主義の問題に解消してしまうのは悪手なのである。

 私は三浦さんとは別の意味で、この件を民主主義の問題に解消してはならないと考えている。この事件はきわめて「立憲君主制」的な問題なのである。「立憲君主制とは何か」という点についてはヘーゲルの『権利の哲学の基本線』(G.W.F. Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts, 1820)、いわゆるヘーゲルの『法の哲学』を参照されたい。ヘーゲルの政治国家論では、君主権力からその恣意性がピンからキリまで剥奪されている。君主権力に恣意的な決定権を与えてしまうことがどれだけ恐ろしいことかをヘーゲルはよく認識していたと思うし、また同時に民衆に恣意的な決定権を与えることの恐ろしさもヘーゲルは認識していた。ヘーゲルにとってはどちらも理性的国家からは程遠く、現実的ではなかったのである。

 現下の日本は民主主義国家だと誰もが思い込んでいるが、実は構造的には立憲君主制である(堅田2015)。とはいえ、天皇制というローカルな習俗性と西欧的な民主主義とのハイブリッドな意味での立憲君主制であるから、立憲君主制の特殊的な形態でもある。天皇国璽行為が立憲君主制の一部をなしている。GHQのテコ入れにより、日本国憲法では天皇からはその恣意的な決定権が根こそぎ剥奪されている。つまり国家における「形式的なもの」の意味は、恣意的な決定権の剥奪にあると言っても過言ではない。

 今回の事件が天皇による内閣総理大臣の任命になぞらえて議論される向きもあった。今回のケースがまかり通れば、天皇内閣総理大臣の任命を拒否できることになってしまうのではないかというのである。両者のケースを直ちに混合すべきではないという見方が一部の法律家から出ているが、内閣総理大臣天皇に対する関係であれ、日本学術会議内閣総理大臣に対する関係であれ、いずれのケースにしても恣意的な決定権を任命者自身に許容するか剥奪するかという観点から整理すれば、全く無関係であるとも言い切れないであろう。

 

 また日本学術会議が国民にとって関係があるか云々というTweetは、西田亮介さんのTweetに反応したものである。

西田亮介さんのこのTweetは一時炎上気味であったが、今はだいぶ収束したようである。このTweetで、政権の問題を日本学術会議の組織の問題にすり替えていることに対して、西田さんは疑問を呈しているのだと思う。この文章を冷静に読めば、たしかにその通りなのであるが、煽り度が非常に高いクオリティになっている。

 ワイドショーで日本学術会議のあり方を疑問視したり、この組織そのものに関心を向けた議論は、今回の問題からズレていると思う。税金を使っているとか、中国に人を送っているとか、それは今回の事件とは別の問題であって、もちろん大いに議論してもらって構わない。だが、その場合には、今回の内閣総理大臣および総理官邸の問題が法の解釈および運用の問題であることが理解されていないか、筋の悪い連中が噛み付いているような印象を受ける。

 では、日本学術会議が国民一般にとって無関係だから、今回の事件も無関係だということには当然ならない。ルソーは『社会契約論』の冒頭で次のように述べている。

自由な国家の市民として生まれ、しかも主権者の一員として、私の発言が公けの政治に、いかにわずかの力しかもちえないにせよ、投票権をもつということだけで、わたしは政治研究の義務を十分課せられるのである。

ルソー『社会契約論』

菅義偉(現:内閣総理大臣自由民主党総裁)は、我々国民の投票によって選ばれた政治家である。我々国民はルソーのいう「主権者の一員として…投票券をもつということだけで」、今回の内閣総理大臣による「日本学術会議」新会員任命不履行事件についてについて研究し論ずる義務を十分課せられているといえるのである。

文献