目次
はじめに
先週、京都は東本願寺に行った。京都駅から近いので歩いて行った。

東本願寺では親鸞についての展示があった。
私は親鸞に詳しくない者だが、なんとなく興味を持った。
私はその展示をよく眺めた。そして親鸞の生涯にますます興味が湧いた。
親鸞『教行信証』
『教行信証』は親鸞の主著だ。「教行信証」という書名は通称であり、本来の書名はもっと長く、「顕浄土真実教行証文類」という。
- 浄土…浄土門と云う意なり。聖道門に對す。聖堂門とは肉慾を禁制し霊に活きんとする道。聖者のみこれをよくす。是に對して浄土門は肉を離れ得ざる人間(凡夫)の眞實に活き得べき道を指す。
- 眞實…浄土門中の眞實と云う意。浄土門中の方便に對す。全く聖道門的臭味を脱したる浄土門中の浄土門。眞實至純の人間道にして、同時にこれ佛教の眞精神たるものなり。(中略)而して浄土門中の方便とは、聖道門的臭味を存して、この眞實道に入るものの必らず経過すべき道程を示す数なり。
- 教行證…教行信證の意。今信を省略する所以は、一般佛教の用語の形式を取り、しかもしの中にこの眞實信たるや眞實行(南無阿弥陀仏)そのものの放つ智慧の光にして、行と信と別體あるにあらざる事を示し、以て世上所謂「信仰」都混同せしめざる深意を藏せり。
- 文類…肝要なる文を類別に集めたる書を云ふ。蓋し聖人の意、唯三國高僧の説を祖述するのみにして全く私なき態度を表明せられたるものなり。
(遠山諦觀(編)『教行信證精解』)
顕浄土真実教行証文類序
「顕浄土真実教行証文類序」は、『教行信証』全体の思想を凝縮した序文であり、親鸞の生涯の信仰告白ともいえる箇所である。ここを丁寧に読むと、その後の六巻全体が理解しやすくなる。

冒頭は次のように始まる。
竊以(ひそかにおもんみれば)
この一言からすでに特徴がある。
- 竊(ひそかに)…謙遜の表現である。「僭越ながら」「身に余ることですが」という意味合いがある。
- 以(おもんみれば)…「考えてみると」「つらつら思うに」。
つまり、親鸞は自分の学説を誇らしげに述べるのではなく、「恐れ多いことですが、考えてみますと…」という姿勢で書き始めている。
「竊以」とは、中国古典では、自分より偉大な存在について語るときによく使われる表現である。親鸞はここで、「私は新しい教えを作る人間ではありません」という姿勢を示しているのである。
これは『教行信証』全体の方法にもつながっている。親鸞は自分の意見を前面に出すのではなく、経典や祖師の言葉を通して真実を明らかにしようとしている。
そのあとに続く有名な一節、
難思弘誓は難度海を度する大船、無碍光明は無明闇を破する恵日なり。
は、『教行信証』全体を象徴する言葉である。
「難思」とは、〈思議できない〉〈人間の知恵では測れない〉という意味である*1。
「弘誓」は阿弥陀仏の四十八願、とりわけ第十八願を指す。つまり、〈人間の理解を超えた阿弥陀仏の本願〉ということだ*2。
親鸞にとって救いは、「私が理解したから救われる」のではなく、「理解を超えた本願が私に届く」ところにある。これは親鸞思想の核心の一つである。
「難度海」とは、人生を海にたとえている。しかも普通の海ではない。「難度海」つまり渡ることが極めて困難な海なのである。
仏教では生死を「生死海(しょうじかい)」とも呼ぶ。人間は自分の力だけでは、この海を渡れない。だから阿弥陀仏の本願が必要になる*3。
ここで突然、「船」という比喩が現れる。この船は、われわれが漕ぐ船ではない。阿弥陀仏が用意した船である*4。
だから親鸞は自力で泳ぐという発想ではなく、本願の船に乗せられるという表現を好む。ここに、親鸞が自力ではなく他力を重視する立場がよく表れている。
「光」は阿弥陀仏を象徴する重要なイメージである。「無碍」とは、何ものにも妨げられないという意味である。
人間には、罪もある。迷いもある。煩悩もある。それでも光は届く。だから「無碍」なのである*5。
「無明」は、単に「知識がない」という意味ではない。仏教では真実を知らない根本的な迷いを意味する。親鸞は、人間を「悪い人」というより、「真実が見えていない存在」として理解している*6。
「恵日」とは、「恵みの太陽」という比喩である。太陽は、努力した人だけを照らすわけではない。善人だけを照らすわけでもない。すべてを照らす。この比喩も、阿弥陀仏の慈悲が万人に及ぶことを示している*7。
- 難思弘誓…人間の思考を超えた阿弥陀仏の本願。
- 難度海…迷いと苦しみに満ちたこの世界。
- 大船…衆生を彼岸へ運ぶ乗り物。
- 無碍光明…あらゆる障りを超えて照らす阿弥陀仏の智慧。
- 無明闇…真実が見えない人間の無知・迷い。
- 恵日…すべてを照らす太陽。
実は、この一文は二つの比喩だけでできている。
- 船──迷いの海を渡らせるはたらき(救済)
- 光──迷いの闇を破るはたらき(智慧)
親鸞は、阿弥陀仏を「船」と「太陽」の二つの象徴によって描いている。船は「迷いの海を渡らせるはたらき」、太陽は「闇を照らして真実を見せるはたらき」を表している。
この冒頭は、「人間は自力だけで完成できる」という発想から始まらない。むしろ、「自分の力では渡れない」「自分では闇を照らせない」という人間理解から出発する。だからこそ、親鸞は救済を「努力の成果」ではなく、「すでにはたらいている本願との出会い」と捉える。この視点は、『教行信証』全体を貫く軸となる。
さらに、この総序で重要なのは、「真実」という言葉が繰り返し現れることである。
真実教・真実行・真実信・真実証
親鸞は、「教・行・信・証」の前に必ず「真実」を付けている。これは、世間一般の宗教や修行法と区別して、「阿弥陀仏の本願に根ざした真実」を明らかにしたいという意図を示している。そのため、『教行信証』は単なる仏教の教科書ではなく、「何が真実なのか」を問い続ける書物でもある。
今読んでいるのは、まさに親鸞の思想の入口である。ここは一気に読み進めるよりも、一文ごとに立ち止まりながら読む価値がある。総序には、この後に展開される『教巻』『行巻』『信巻』『証巻』、そして『真仏土巻』『化身土巻』のテーマが、すべて凝縮されているからである。
(つづく)
文献