まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ヘーゲル『大論理学』覚書(2)

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ヘーゲル『大論理学』(承前)

第一版への序文

哲学の変容と論理学

 ほぼ二十五年来, われわれのもとで哲学的にものを考える方法に完全な変更が加えられてきた. また, この時期に精神は自己について一層高い自覚を持つようになった. しかし, こうしたことはこれまでのところ論理学の形態に対してはまだわずかな影響しか与えていない.

(Hegel1812: ⅲ, 訳3頁)

山口祐弘の訳注によれば, ここで「二十五年来」が意味するところについてはカントの三大批判が観念されているようである. 山口は次のように述べている.

この序文の日付は一八一二年三月二十二日であるから, それからほぼ二十五年前とは, カントの『純粋理性批判』第二版(一七八七年), 『実践理性批判』(一七八八年)が刊行された時期に当たる. カントは一般的論理学に対して超越論的論理学を構想し, 伝統的形而上学に代わる実践的形而上学を提唱した.

(ヘーゲル2012:418, 訳注1)

アリストテレス以来の「伝統的論理学」がカントによって「一般的論理学」と呼ばれ, これに対してアプリオリな形式の認識に基付く企図が「超越論的論理学」と呼ばれる(山口2019: 5). ヘーゲルは二つ先のパラグラフでカント哲学に言及しているから, ここでヘーゲルがカントの三大批判が哲学史上に及ぼした影響を前提としていることは確かであろう.

 とはいえ「こうしたことはこれまでのところ論理学の形態に対してはまだわずかな影響しか与えていない」とヘーゲルが述べる時, 「論理学 Logik 」の分野におけるカント哲学の徹底が不十分であるとヘーゲルは指摘しているといえるのではないか.

(つづく)

文献

ヘーゲル『法の哲学』覚書(4)

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ヘーゲル『法の哲学』(承前)

序言(承前)

『要綱』における「方法」の問題

 この要綱が, さしあたっては, ここで指導的な役割を果たしている方法のゆえに, 普通の概論とは異なっていることはたしかである. しかし, ひとつの素材から他の素材へと進む哲学的な仕方や, 学問的証明の哲学的な仕方, 一般的にいって思弁的認識の仕方が本質的に他の認識の仕方とは異なるということは, ここに前提とされていることである. こうした相違の必然性を洞察することだけが, われわれの時代において, 哲学を, それが転落した不名誉な頽落から救いだすことができるのである.

(Hegel1820: ⅳ-ⅴ, 訳12頁)

ヘーゲルの「要綱 Grundriss 」と通常の「概論 Compendium 」が異なることは前回見た通りである. では両者の違いはどのような点にあるのだろうか. その違いは「方法 Methode 」の違いである.

 ヘーゲルは「ひとつの素材から他の素材へと進む哲学的な仕方や, 学問的証明の哲学的な仕方, 一般的にいって思弁的認識の仕方が本質的に他の認識の仕方とは異なる」と述べ, このことは本書では「前提とされている」という. この「前提とされている」仕方は, 一体どこで述べられているのだろうか. この同じパラグラフの後半でヘーゲルは自身の『論理の学』(Wissenschaft der Logik)を取り上げているから, そこにヘーゲルの「哲学的な仕方」が示されていると言えるだろう.

(つづく)

文献

ヘーゲル『大論理学』覚書(1)

目次

はじめに

 本稿ではヘーゲル『大論理学』(Wissenschaft der Logik, 1812-16, 1832)を読む.

 厳密にいうと『大論理学』というタイトルのヘーゲルの著作はない. 慣例として『エンツュクロペディー』の一部として収められている「論理の学」のことを「小論理学」と呼び, 独立した書籍として刊行された『論理の学』のことを『大論理学』と呼んで区別しているに過ぎない.

ヘーゲル『大論理学』

 ヘーゲルの『大論理学』第1版は1812年から1816年にかけて三冊に分かれて出版された(Hegel1812; Hegel1813; Hegel1816). その後本書の改訂版である第2版は, ヘーゲル1831年に亡くなった翌年の1832年に出版されている(Hegel1832).

 本書はこれまで武市健人(1901-1986)訳(『ヘーゲル全集』岩波書店)や, 寺沢恒信(1919-1998)訳(以文社)を通じて親しまれてきた. 比較的新しい邦訳は山口祐弘(1944-)訳(作品社)であるが, これは本書第2版を底本としている(ヘーゲル2012). 最新の邦訳は, 新全集版(GW)を底本に日本で再編集された現在刊行中の『ヘーゲル全集』(知泉書館)の中に含まれており, これこそが最も信頼できる翻訳だと思われる(ヘーゲル2020).

『大論理学』第1版と第2版における表題紙の違い

 まず『大論理学』第1版と第2版の表題紙について確認しておきたい.

(ヘーゲル『大論理学』第1版, 表題紙)

(ヘーゲル『大論理学』第2版, 表題紙)

 二つの表題紙を比べてみると, 本書第1版の出版地はニュルンベルク(Nürnberg)であり, 第2版の出版地はシュトゥットガルトおよびテュービンゲン(Stuttgart und Tübingen)であることがわかる.

 ちなみに山口祐弘訳(作品社)の「凡例」には次のように書いてある.

一 本書は, Georg Wilhelm Friedrich Hegel, Wissenschaft der Logik, Erster Band, Die objektive Logik, Erstes Buch, Die Lehre vom Sein, Nürnberg 1832 の翻訳である.

(ヘーゲル2012: ⅸ)

重箱の隅をつつくようで申し訳ないのだが, 気づいてしまったので以下の二点を指摘しておきたい.

  • もし山口訳が第2版(1832年)を底本としているなら, "Erster Band, Die objektive Logik, Erstes Buch, Die Lehre vom Sein"ではなく, "Erster Theil, Die objektive Logik, Erster Band, die Lehre vom Seyn(Sein)"としなければならないのではないか. 第1版と第2版の表記が混同されてはいないだろうか.
  • もし山口訳が第2版(1832年)を底本としているなら, 出版地は"Nürnberg"ではなく"Stuttgart und Tübingen"ではないだろうか.

(つづく)

文献

ヘーゲル『法の哲学』覚書(3)

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ヘーゲル『法の哲学』(承前)

序言(承前)

「注解 Anmerkungen 」の役割について

しかし, この要綱が出版され, それにともない広範な公衆の眼に触れることになるということを機縁に, 筆者と類似の考え方やちがった考え方, それらの考え方のさらなる帰結等について, 講義でならそれ相応の説明が加えられるという理由から, 当初は簡単な記述で示唆するにとどめるつもりであった注解が, 本書では, しばしばより大規模なものになってしまった. それというのも, 本文のかなり抽象的な内容をそのつどはっきりさせ, そして身近な, また誰でも思いつく当世風の考えにいっそう広範な顧慮を払うことが目ざされたからである. こうして, 概論の目的やスタイルが一般に具える以上に詳細な注解が数多く生まれることになった.

(Hegel1820: ⅲ-ⅳ, 訳11-12頁)

本文から字下げ(インデント)されている箇所が諸々の「注解 Anmerkungen 」である. 「要綱 Grundriss 」にはしばしば本文とは不釣り合いなぐらい長い「注解」が見いだされる. ヘーゲルは「注解」で思いのほか筆が滑ってしまったのかもしれない. そうして長く施された「注解」は, 従来の「概論 Compendium 」のスタイルを逸脱することとなったとヘーゲルはいう.

 本文は基本的に短く簡潔に述べられているが, 短く簡潔に叙述されているからといってその文意を理解することが容易なわけではない. むしろ文章の短さに反比例して理解することが困難になることもあるだろう. そして注解を読んだら本文がわかりやすくなるかといえばそうでもない. 『精神現象学』でも述べられていた通り, わかりにくいものはわかりにくいのである.

「要綱 Grundriss 」と「概論 Compendium 」

 ここで注意しなければならないのは, ヘーゲルが"Grundriss"(要綱)と"Compendium"(概論)とを明確に区別している点である. ヘーゲルは本書を"Grundriss"と呼ぶことはあっても, 決して"Compendium"とは呼んでいない. 両者の違いは一体どこにあるのだろうか. ヘーゲルは"Compendium"について次のように述べている.

だが, 本来, 概論というものは, すでにでき上がったものとみなされる学問領域を対象とするのであり, この概論に固有のことは, ところどころにみられる小さな補足を除けば, その形式がすでにでき上がった規則や手法をもつのと同様, すでに承認され, 熟知されている内容の本質的な諸契機を連関づけ, 秩序づけることにほかならない. しかし, 哲学的な要綱については, そもそもこうしたやり方は期待されてはいない. というのも, 哲学がもたらすものは, 毎日はじめからやり直されるペーネロペーの織物にも似て, 一晩の徹夜ですべてをなし遂げる仕事のように考えられているからである.

(Hegel1820: ⅳ, 訳12頁)

"Compendium"と"Grundriss"との大きな違いは, "Compendium"が既存の学問領域を対象とするのに対して,(とりわけ哲学的な)"Grundriss"は, すでに決まった学問領域とはみなされていないような, もっと生々しい思索の営みなのである.

 この点は, ヘーゲル哲学の体系性について誤解されてきたこともあって非常に重要だと思われる. というのも, ヘーゲルの"Grundriss"は, しばしば"Compendium"——「その形式がすでにでき上がった規則や手法をもつのと同様, すでに承認され, 熟知されている内容の本質的な諸契機を連関づけ, 秩序づける」もの——と取り違えられてしまっているように思われるからである.

 "Grundriss"が"Comendium"ではないということによって目を向けなければならないのは, ヘーゲルが"Grundriss"という言葉によって意図したことがらである. "Grundriss"には, 「概要, 概説」という意味のほかに, 建築図面における「平面図, 見取り図」という意味がある. 実はヘーゲルは"Grundriss"としての『エンツュクロペディー』や『法の哲学』において, その「見取り図」を示すことを主眼としていたのではないか, ということにハッと気付かされるのである*1.

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文献

*1:三浦和男が表題の"Grundriss"を「基本スケッチ」(ヘーゲル1991)と訳しているのは, まさにその「見取り図」としての意義を汲み取ったものであろう.

ヘーゲル『法の哲学』覚書(2)

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ヘーゲル『法の哲学』(承前)

序言

「講義への手引き」としての『法の哲学』

この要綱を出版する直接のきっかけは, 私が職務上おこなう法の哲学の講義への手引きを私の聴講者の手もとにあたえておく必要が痛感されたことである. 哲学のこの部門についての根本諸概念は, 私が以前に私の講義のために用意した『哲学的諸学のエンチュクロペディー』(ハイデルベルク, 1817年)のなかにすでに含まれているのであるが, 本教科書は, 同じ根本諸概念をより大規模に, とりわけより体系的に詳論するものである.

(Hegel1820: ⅲ, 訳11頁)

『エンツュクロペディー』*1が出版されたのと同年の1817年からヘーゲルハイデルベルク大学で「自然法と国家学」に関する法哲学講義を開始している. 『エンツュクロペディー』がもともと「要綱」なのに, その一部を大部に独立させた『法の哲学』でさえも「要綱」だというのは, なんだかヘーゲルらしくて笑ってしまう.

 実際の法哲学講義ではより具体的な事例に言及されることが多々あり, 後にその講義を受講した学生が記録したノート*2から編纂されたものが「補遺 Zusatz 」としてガンス版ヘーゲル全集に収められている(Hegel1833).

 学生の記録したノートも複数伝承されており, その邦訳は以下の通りである(出版年順に示した).

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文献

*1:『エンツュクロペディー』(Hegel1817)は最近その邦訳が出版されたばかりである(ヘーゲル2019).

*2:ヘーゲルの講義録についてはぺゲラー2015または寄川2016を参照されたい. また講義録の編纂問題については拙稿「ヘーゲル『世界史の哲学』講義録における文献学的・解釈学的問題」を参照されたい.

ヘーゲル『法の哲学』覚書(1)

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はじめに

 本稿ではヘーゲル『法の哲学 自然法と国家学の要綱』(上妻精・佐藤康邦・山田忠彰訳, 岩波書店, 2021年)を読む*1.

 ここで訳者の一人である故・佐藤康邦(1944-2018)の言葉を紹介しておこう.

当たり前のことながら, 翻訳するということになれば, 『法の哲学』から自分に興味のある箇所を引き出して論文を書けば良いというのとは違い, ヘーゲルの書いたテキスト全部に付き合わなければならないということになる. それが, すでに, 『法の哲学』に対する接近法として独特のことともなる. たとえば, 普段敬遠して余り省みなかった「抽象法」の部分の翻訳にも付き合わされるということになる(特にローマ法の部分など並大抵の苦労ではない). しかしその結果, 改めて, 『法の哲学』全体を通じてのヘーゲルの一貫した姿勢というものを思い知らされたということもある. それが, 『法の哲学』が, 顕在的に法によって規制されている関係としても, 暗黙の諒解のうちに形成された関係としても, 「人倫的」秩序というものがすべて人間の意志によって支えられているということを基本前提としているということである. このことは極く当たり前のことであるにもかかわらず, 「抽象法」を翻訳するなかで新鮮なものとして再確認されたということなのである.

(佐藤2004: 70-71)

ヘーゲル法哲学研究で取り扱われるのが最も多いのはおそらく第三部「倫理性」であり, 次が第二部「道徳性」である. 第一部「抽象法」は最も人気のない研究対象と言っても過言ではあるまい. だが第三部や第二部の論理を支えるものは, これらの部門に先行する第一部やさらには緒論であり, その意味では先行する部門の重要性はいささかも揺らぐことがない.

 佐藤は第一部「抽象法」の箇所の翻訳を担当した経験を通じて「特にローマ法の部分など並大抵の苦労ではない」と本音を漏らしているが, この点には心底同意する. というのも, ヘーゲルがローマ法を抽象法のバックボーンとしていることは明らかなのに, 大型書店に駆け込んでもローマ法の専門書は多くて3, 4冊並んでいるだけであり, しかもその肝心のローマ法がよく分からないので, 抽象法を隔靴掻痒の気分で読み進めることになるからである.

 佐藤の翻訳上の苦労には共感するところがある. この覚書シリーズでは, パラグラフを飛ばさずに読み進めることにしているが, このような読解作業は実は大変な苦労が伴っている. 最初から読み進めていけばどこかで理解できないパラグラフにぶつかるのは必然であるからだ. 途中の理解できたところだけを取り上げて繋ぎ合わせて論文にするのとは別の難しさがある. それでもここはブログなので『まあ間違えてもいいや』という軽い気持ちで無料公開している. そうでもしないと読み進めることができないからだ. 私の稚拙で浅薄な読解作業が読者のより深みのある読解作業への一寄与になることを願う.

ヘーゲル『法の哲学』

 本書の最初に二つの表題が確認できる. 「自然法と国家学の要綱」と「法の哲学の基本線」である.

(Hegel1820: 表題紙)

自然法と国家学の要綱

 「序言」の冒頭で見るように, 本書は大学の講義の教科書として出版されたという経緯があり, 「自然法と国家学」というのはその講義名を指している. ただし「自然法」といっても「自然 Naturgesetz 」ではないので, より厳密には「自然 Naturrecht 」と訳すべきかもしれない*2.

 表題紙をよく見ると, 「自然法」よりも「国家学」の方がフォントが大きくなっていることに気づく. このことは, 本書において「自然法」よりも「国家学」こそが重要な地位を占めていることを表現していると言えるかもしれない. じっさい本書は長らく国家哲学の書として読まれ続けてきたのである.

 ヘーゲル自身は「序言」の中で本書のことを「要綱 Grundriss 」と呼んでいる. もしかすると, 実はメインタイトルは「法の哲学(の基本線)」ではなく, 「自然法と国家学の要綱」の方なのかもしれない.

法の哲学の基本線

 加藤尚武(1937-)が注意を促したように, 本書はいわゆる法哲学(Philosophy of Law, 法律の哲学)の書ではない(加藤2012). ドイツ語の"Recht"は多義語なので, しばしば「法・権利・正義」などと並べて訳されることがあるが, 本書の中では"Recht"(権利)と"Gesetz"(法律)と"Gerechtigkeit"(正義)*3とは明確に区別されており, "Recht"がこれらのすべての意味を包括している. さらに困ったことに日本語の「権利」の「利」には「利益」という意味が含まれるが, ドイツ語の"Recht"には「利益」に該当する意味が含まれていない*4. その限りで本当は"Recht"はカタカナで「レヒト」と表記するしかなくなってしまうようなものである.

 表題の「基本線 Grundlinien 」は殆どの場合省略されて, ただ単に「法の哲学」と呼ばれることが多い. 複数形の"Grundlinien"は「大綱, 大すじ」という意味であるから, 先の"Grundrisse"(要綱)と大して意味が変わらない*5. あくまで「大綱, 大すじ」なのだと断っておかないと, ヘーゲルが本書で全てのことがらを語り尽くしたと誤解されてしまうおそれがあるので, そういう表題にしたのではないだろうか.

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文献

*1:ヘーゲル法哲学の関連図書については拙稿「ヘーゲル『法の哲学』の関連図書」(2020)を参照されたい.

*2:「権利」と「法 lex」とを明確に区別することに関しては, トマス・ホッブズ(1588-1679)以来の伝統がある. 「この主題についてかたる人びとは, 権利と法 Jus and Lex, Right and Law を混同するのが常であるが, しかし, 両者は区別されなければならない」(Hobbes1651: 64, 訳216-217頁). ホッブズ自然権については拙稿「ホッブズの権利論——自然権と自由」(2018)を参照されたい.

*3:この点については拙稿「ヘーゲルの「正義」論」(2018)および拙稿「ヘーゲル『法の哲学』における「正義」の用例集」(2018)を参照されたい.

*4:この点については拙稿「「権利」という翻訳語」(2018)を参照されたい.

*5:両者に共通する"grund‥"には「土台, 基礎的な, 根本的な」という意味がある.

スピノザ『エチカ』覚書(14)

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スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

〈実体〉=〈神〉を自然物や人間の本性と類比的に捉えてはならない

備考二

 事物について混乱した判断をくだし・事物をその第一原因から認識する習慣のないすべての人々にとって, 定理七の証明を理解することは疑いもなく困難であろう. なぜなら彼らは実体の様態的変状と実体自身とを区別せず, また事物がいかにして生ずるかを知らないからである.

(Spinoza1677: 5, 訳43頁)

どうして一般の人々にとって【定理八】を理解するのが難しいのか. それは, 定理八の命題が推論によって理解されうるような論理的帰結として示されているからである. 換言すれば, その論理を追うことができるものだけが理解できるような命題だからである.

この結果として彼らは, 自然の事物に始原があるのを見て, 実体にも始原があると思うようになっているのである. いったいに, 事物の真の原因を知らない者は, すべてのものを混同し, またなんら知性の反撥を受けることなしに平気で樹木が人間のように話すことを想像し, また人間が石や種子からできていたり, 任意の形相が他の任意の形相に変化したりすることを表象するものである.

(Spinoza1677: 5, 訳43頁)

ここで退けられているのは, 〈実体〉を〈自然の事物〉に擬えて理解しようとする類比的なアナロジカル捉え方である. 〈自然の事物〉は種子から発生し成長していく. その際に『卵か先か鶏が先か』という問題は生じるが, このような〈自然の事物〉と同様の流れを通じて〈実体〉は生成するのではない.

同様にまた, 神的本性を人間的本性と混同する者は, 人間的感情を容易に〈神〉に附与する. 特に感情がいかにして精神の中に生ずるかを知らない間はそうである.

(Spinoza1677: 5-6, 訳43頁)

「人間的感情」について詳しくは本書「第三部 感情の起源および本性について」に譲らざるを得ないが, 要するに『人間との類比によって〈神〉を捉えてはならない』というのがスピノザの首尾一貫した主張である.

(つづく)

文献