まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

仕事とは旅である

目次

はじめに

 仕事とは旅である。

 これは持論ではない。ただの仮説だ。

 〈仕事とは旅である〉という表現において、この場合の「旅」は比喩である。したがって、〈そもそも「旅」とは何であるか〉が明らかにされない限り、「仕事」とは何かということもなんら説明されていないことになる。

旅とは何か

 旅とは、〈居住空間以外の場所に行くこと〉と観念される。

 だが、この理解は表面的だ。

 旅とは、〈これまでの自分自身の殻を破るための道程〉と定義したい。つまり、自分自身を刷新し、変化させるという点に、旅の醍醐味がある。

 旅の出発点と終点は、どちらも同じく自宅であるが、少なくとも旅の道程を通じて、自分自身が変化している。旅行先の土地そのものは基本的に変化しないが、旅行者は、その土地を触媒として、自分自身を更新するのである。

仕事とは何か

 ここでもう一度最初の仮説に戻る。

 〈仕事とは旅である〉とはどういう意味か。

 仕事とは、その業務を遂行する人間が、その過程を通じて、自分自身を更新し、変化させるのである。

仕事と労働の違い

 ここでいう仕事とは、労働と区別されるものである。英語でいうと、仕事はワーク(work)であり、労働はレイバー(labour)という。

 労働とは、熟練可能なものであり、最終成果物が予測可能なものである。そのためある程度定型化されている。

 これに対して、仕事とは、その仕事に着手する最初の段階で、最終成果物が予測不可能なものである。だからこそ、その業務を遂行する人間自身の更新が必要なのだ。

 だが仕事は、習慣化するうちに、気づいたら労働になっていることがある。

 旅も同じである。初めて行く土地は、どこに到着するかわからないが、繰り返し行くことが増えれば、そこが自身の居住空間の領域に入ってくる。それはある意味で、自分自身を更新し、活動範囲を広げた結果なのだ。

 旅は反復できない。その瞬間、一回限りのはじめての経験だからこそ、旅の醍醐味がある。

おわりに

 アーレントを引き合いに出すまでもなく、仕事がつくるのは、自分自身であって、労働成果物ではない。その意味で、仕事は旅であるといえよう。

 だが、〈旅は仕事である〉とは言えないのは一体なぜだろうか。もし〈旅は仕事である〉と言ってしまったら、なんだか旅がとたんにつまらなく感じてしまう。そこには比喩として用いられる「仕事」に対する固定観念があるからだ。

仕事で圧倒的な成果をあげるにはどうしたらいいか

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はじめに

 仕事で圧倒的な成果をあげるにはどうしたらいいか。

 このブログでは通常、こういう問いは取り上げてこなかった。仕事と研究の一線を画すためである。

定義

 〈仕事で圧倒的な成果をあげるにはどうしたらいいか〉という問いに答えるには、何が〈仕事〉であり、何が〈成果〉であるのかが〈定義〉されなければならない。当然だが、これらに絶対的な答えは無い。また〈定義〉といえども、それは常に時代と共に移り変わり、更新され、刷新されるべきである。

 一般的に数値化され得る成果は、販売数と売上などが考えられる。

 施策設計それ自体から見込まれる利益というのも、成果に該当するだろう。

評価

 仕事の成果は評価されなければならない。評価されない成果は無である。

 では、仕事の成果はどのように評価されるのか。これには主観的な評価と客観的な評価がある。

 客観的な評価は、評価軸(「KPI(重要業績評価指標)」などと呼ばれる)によって、その達成率によって評価される。

 主観的な評価は、上長評価または同僚からの360°評価によってなされる。上司が部下の成果を評価するが、上司もまた部下の成果によって評価される。社長といえども、会社の成果は株主によって評価される。仕事の成果は、企業内のさまざまなレイヤーごとに粒度が異なった表れ方をし、互いに評価される。

 したがって、〈圧倒的な成果〉という評価には、客観的評価だけではなく、評価者の主観が入り込む余地が必ずある。

個人の能力

 個人の能力には再現性がある。できる人はできるし、できない人はできない。

 〈仕事で圧倒的な成果をあげる〉というのは、結局のところ、できる人間が出す成果にすぎない。できない人間が頑張ったところで、圧倒的な成果にはならない。それぞれが得意なポジションを取る方が戦略的には合理的だ。経済学ではこのことをパレート最適と呼ぶ。

 できる人とできない人には、それぞれ二つのパターンがある。

  1. 経験と知識がなくて、潜在的にはできる可能性があるが、まだ初心者なのでできない人(現状では「できない人」)
  2. 経験も知識もないが、初心者なのにいきなりできる人(本来的に「できる人」)
  3. 経験と知識もあるが、経験者なのにできない人(本来的に「できない人」)
  4. 経験と知識もあり、安定してできる人(絶対的に「できる人」)

 上記2. の最初から「いきなりできる人」というのは、その仕事に基本的に向いている。

 これに対して、上記3. の「経験者なのにできない人」というのは、圧倒的にその仕事に向いていないのだが、そのひと個人から見れば、話は別である。仕事というのは食うために必要なものであり、成果を出していないからといって辞めなければいけないというものでもない。

 したがって、全従業員のポートフォリオには上記の1. 〜 4. までのすべてがそれぞれの割合で一定数存在すると考える方が現実的である。なぜなら、2. と4. の「できる人」の割合を増やせば企業全体としての成果が上がるように思うかもしれないが、人手不足や人材不足の都合で、そういうわけにもいかないからである。

おわりに

 〈仕事で圧倒的な成果をあげる〉ための要因分析としては、実は、仕事で圧倒的な成果をあげることができない理由を考えるのが手っ取り早い。

 要するに、人手不足だからできない人を雇っているという、ただそれだけの話なのではないか。

親鸞『教行信証』覚書(1)

目次

はじめに

 先週、京都は東本願寺に行った。京都駅から近いので歩いて行った。

 東本願寺では親鸞についての展示があった。

 私は親鸞に詳しくない者だが、なんとなく興味を持った。

 私はその展示をよく眺めた。そして親鸞の生涯にますます興味が湧いた。

親鸞『教行信証』

 『教行信証』は親鸞の主著だ。「教行信証」という書名は通称であり、本来の書名はもっと長く、「顕浄土真実教行証文類」という。

  • 浄土…浄土門と云う意なり。聖道門に對す。聖堂門とは肉慾を禁制し霊に活きんとする道。聖者のみこれをよくす。是に對して浄土門は肉を離れ得ざる人間(凡夫)の眞實に活き得べき道を指す。
  • 眞實…浄土門中の眞實と云う意。浄土門中の方便に對す。全く聖道門的臭味を脱したる浄土門中の浄土門。眞實至純の人間道にして、同時にこれ佛教の眞精神たるものなり。(中略)而して浄土門中の方便とは、聖道門的臭味を存して、この眞實道に入るものの必らず経過すべき道程を示す数なり。
  • 教行證…教行信證の意。今信を省略する所以は、一般佛教の用語の形式を取り、しかもしの中にこの眞實信たるや眞實行(南無阿弥陀仏)そのものの放つ智慧の光にして、行と信と別體あるにあらざる事を示し、以て世上所謂「信仰」都混同せしめざる深意を藏せり。
  • 文類…肝要なる文を類別に集めたる書を云ふ。蓋し聖人の意、唯三國高僧の説を祖述するのみにして全く私なき態度を表明せられたるものなり。

(遠山諦觀(編)『教行信證精解』)

顕浄土真実教行証文類序

 「顕浄土真実教行証文類序」は、『教行信証』全体の思想を凝縮した序文であり、親鸞の生涯の信仰告白ともいえる箇所である。ここを丁寧に読むと、その後の六巻全体が理解しやすくなる。

 冒頭は次のように始まる。

竊以(ひそかにおもんみれば)

 この一言からすでに特徴がある。

  • 竊(ひそかに)…謙遜の表現である。「僭越ながら」「身に余ることですが」という意味合いがある。
  • 以(おもんみれば)…「考えてみると」「つらつら思うに」。

 つまり、親鸞は自分の学説を誇らしげに述べるのではなく、「恐れ多いことですが、考えてみますと…」という姿勢で書き始めている。

 「竊以」とは、中国古典では、自分より偉大な存在について語るときによく使われる表現である。親鸞はここで、「私は新しい教えを作る人間ではありません」という姿勢を示しているのである。

 これは『教行信証』全体の方法にもつながっている。親鸞は自分の意見を前面に出すのではなく、経典や祖師の言葉を通して真実を明らかにしようとしている。

 

 そのあとに続く有名な一節、

難思弘誓は難度海を度する大船、無碍光明は無明闇を破する恵日なり。

は、『教行信証』全体を象徴する言葉である。

 

 「難思」とは、〈思議できない〉〈人間の知恵では測れない〉という意味である*1

 「弘誓」は阿弥陀仏の四十八願、とりわけ第十八願を指す。つまり、〈人間の理解を超えた阿弥陀仏の本願〉ということだ*2

 親鸞にとって救いは、「私が理解したから救われる」のではなく、「理解を超えた本願が私に届く」ところにある。これは親鸞思想の核心の一つである。

 「難度海」とは、人生を海にたとえている。しかも普通の海ではない。「難度海」つまり渡ることが極めて困難な海なのである。

 仏教では生死を「生死海(しょうじかい)」とも呼ぶ。人間は自分の力だけでは、この海を渡れない。だから阿弥陀仏の本願が必要になる*3

 ここで突然、「船」という比喩が現れる。この船は、われわれが漕ぐ船ではない。阿弥陀仏が用意した船である*4

 だから親鸞は自力で泳ぐという発想ではなく、本願の船に乗せられるという表現を好む。ここに、親鸞が自力ではなく他力を重視する立場がよく表れている。

 「光」は阿弥陀仏を象徴する重要なイメージである。「無碍」とは、何ものにも妨げられないという意味である。

 人間には、罪もある。迷いもある。煩悩もある。それでも光は届く。だから「無碍」なのである*5

 「無明」は、単に「知識がない」という意味ではない。仏教では真実を知らない根本的な迷いを意味する。親鸞は、人間を「悪い人」というより、「真実が見えていない存在」として理解している*6

 「恵日」とは、「恵みの太陽」という比喩である。太陽は、努力した人だけを照らすわけではない。善人だけを照らすわけでもない。すべてを照らす。この比喩も、阿弥陀仏の慈悲が万人に及ぶことを示している*7

  • 難思弘誓…人間の思考を超えた阿弥陀仏の本願。
  • 難度海…迷いと苦しみに満ちたこの世界。
  • 大船…衆生を彼岸へ運ぶ乗り物。
  • 無碍光明…あらゆる障りを超えて照らす阿弥陀仏の智慧。
  • 無明闇…真実が見えない人間の無知・迷い。
  • 恵日…すべてを照らす太陽。

 実は、この一文は二つの比喩だけでできている。

  • 船──迷いの海を渡らせるはたらき(救済)
  • 光──迷いの闇を破るはたらき(智慧)

 親鸞は、阿弥陀仏を「船」と「太陽」の二つの象徴によって描いている。船は「迷いの海を渡らせるはたらき」、太陽は「闇を照らして真実を見せるはたらき」を表している。

 この冒頭は、「人間は自力だけで完成できる」という発想から始まらない。むしろ、「自分の力では渡れない」「自分では闇を照らせない」という人間理解から出発する。だからこそ、親鸞は救済を「努力の成果」ではなく、「すでにはたらいている本願との出会い」と捉える。この視点は、『教行信証』全体を貫く軸となる。

 さらに、この総序で重要なのは、「真実」という言葉が繰り返し現れることである。

真実教・真実行・真実信・真実証

 親鸞は、「教・行・信・証」の前に必ず「真実」を付けている。これは、世間一般の宗教や修行法と区別して、「阿弥陀仏の本願に根ざした真実」を明らかにしたいという意図を示している。そのため、『教行信証』は単なる仏教の教科書ではなく、「何が真実なのか」を問い続ける書物でもある。

 今読んでいるのは、まさに親鸞の思想の入口である。ここは一気に読み進めるよりも、一文ごとに立ち止まりながら読む価値がある。総序には、この後に展開される『教巻』『行巻』『信巻』『証巻』、そして『真仏土巻』『化身土巻』のテーマが、すべて凝縮されているからである。

(つづく)

文献

*1:「難思とは吾等が分析的理智を以ては到底補足し得べからざるを云ふ」(『教行信證精解』)。

*2:「弘誓とは弘き誓ひなり、聖人のたまはく「よろづの衆生(生類)をきらはず、さはりなく、へだてず導きたまふ」と。宇宙に瀰満し、あらゆる生類の心のうちに充ち充ちたる普遍眞實の総合的、統一的、超個人的意志を云ふ。この大意志は一切の生類を内的に救済する事を以て自己の生命としたまふが故に「誓(ちかひ)」と云ふなり。この弘誓を即ち阿弥陀仏と呼び奉る。阿弥陀仏はわれ等が心の中に充ちて、而も高くわれ等が心を超えて在(ましま)す。われ等はわれ等の分析的理智によらず一種の藝術的直観によりて、阿弥陀仏そのものの仰せを聞きてのみ、これを感知し得るなり」(『教行信證精解』)。

*3:「生物界(衆生)の廣くして邊(ほとり)なきを海に喰ふ。難度とは二義あり。一には衆生深く無邊の生死海に沈みて「度(わた)り難き」を云ふ。二には阿弥陀仏以外のものの、これを「度し難き」を云ふなり」(『教行信證精解』)。

*4:「衆上をして無邊の生死海に慮して自由ならしむるが故に、彌陀の吾願を大船に喰ふ。」(『教行信證精解』)

*5:「礙(さ)へらるる事なき光り。衆上の煩悩悪行に礙へられざるを云ふ。即ち罪をけし失はずして、その統一的大活動の中に接種して浄化する智慧力を云ふ。光明は智慧の相なり」(『教行信證精解』。)

*6:「無明…梵語 阿毘陀耶 Avidya の訳。事理に闇きを云ふ。一切煩悩の根本なり。もと無明には愚痴と疑惑との二意あるうち、今は佛智を疑惑するを云ふ。吾等の迷ひの根本は彌陀の本願(無条件の救済)を信ぜざるにあり」(『教行信證精解』)。

*7:「智慧を日光に喰ふ。光明は智慧なり。彌陀の慧光よく衆上の根本無明を破すること諸佛の光明の遠く及ばざる所なるが故に、諸光の王たる日を以て之れを喰ふ。光りは闇によりてそれ自身を顕はす。われ等の無明なければ又彌陀の光明は在さざるなり」(『教行信證精解』)。

プラトン『ソクラテスの弁明』覚書(1)

目次

はじめに

 以下ではプラトン『ソクラテスの弁明』(Πλάτων, ΑΠΟΛΟΓΙΑ ΣΩΚΡΑΤΟΥΣ)を読む。

 筆者は今年の四月からKUNILABOで砂田先生の古典ギリシア語初級講座を受講してきた。授業を受講したからといって、簡単に古典ギリシア語が読めるようになるわけではない。語学を上達させるには、隔週の授業以外にも独学に時間をかける必要がある。

 授業を取ってわかったことが一つある。砂田先生が発音を教えてくれたことで、古典ギリシア語をどのように発音すれば良いのかが、ほんの少しだけわかったような気がする。独学で古典ギリシア語のテクストを読もうとすると、どうしても発音の機会が減ってしまう。一つ一つの単語を調べ、格変化を捉えることは、それはそれで必要なことだが、〈テクストを声に出して読む〉というこれまた重要な契機を逃してしまう恐れがある。昔の人々にとっては、そもそも〈テクストを声に出して読む〉ということは、読むという行為において自明なことであった。その意味では、古典であるからこそ、〈テクストを声に出して読む〉ことの重要性はこれまでもこれまでも決して無くなることはないであろう。

 ところで、砂田先生の古典ギリシア語初級講座の中で、プラトン『ソクラテスの弁明』の冒頭部分が出てきた。『ソクラテスの弁明』は筆者が大学生の頃に講談社学術文庫版で読んだことはあったが、正直プラトンのテクストにのめり込むことはなかった。

 だが、プラトンのテクストでは、ソクラテスが「私は…」という一人称を繰り返し用いていることにようやく気がついた。哲学書だけではなく科学において「私は…」という一人称は、近代においては後退の一途を辿っている。主語は形式主語か、対象の概念自体が主語として措定されている。その限りで、ソクラテスが「私は…」と語りながら真実に近づこうとする弁証法的叙述方式は、初期にして最も特異なテクストなのかもしれない、ということに思い至った。

 筆者はかつて、「スピノザ『エチカ』覚書(3)」の中で、上野修氏の「私の不在」というエチカ解釈を批判し、エチカが「私は〜と解する」という一人称から出発していることを指摘した。その後、國分功一郎氏がエチカ入門書などでこの「私」は形式主語のようなもので、一人称であることにあまり重要性はないという旨を述べておられるが、はたしてそうか。人文学というものは、〈それが書かれてある通りに文字通りに理解すること〉が重要ではないのか。それが、スピノザのエチカのように「幾何学的秩序」として考え抜かれた哲学書であれば、なおさらのことではないのか。

 かのカール・マルクスでさえ、二十代の頃から文体と思想は一体である、という点については頭を悩ませてきた。それがヘーゲル批判やドイツ・イデオロギーに結晶化したのである。「文体」とは「スタイル Style」のことである。実際に、マルクスがその「スタイル Style」という言葉を用いて批判したテクストがある*1。特に初期のマルクスは力強く「文体」による批判をおこなっており、それが世界を逆転させるような本質的な問題であると考えていた。

 筆者は、「私は…」という一人称を主語にして始まる哲学が、その思想的枠組みを支える重要な前提として、基体となる主語として、それがどういう意味を持つのかについて考えながら、プラトンのテクストを読むことは、何か新たな発見をもたらすのではないだろうか、と考えている。このような問題意識を持ちながら、以下にテクストを紐解いていきたいと思う。

プラトン『ソクラテスの弁明』

アテナイの皆さん。私の告発者たちの弁論を聞いて、あなたがたがどのような印象を受けられたのか、私には分かりません。しかし私は、彼らがあまりにも巧みに語るものですから、危うく自分自身を忘れてしまうところでした。もっとも、真実という点では、彼らは、いわば、何一つ語ってはいないのですが。というのも、私が少しも弁舌に巧みな人間ではないことが実際に明らかになれば、その事実そのものによって彼らの言葉がたちどころに虚偽であると暴かれるにもかかわらず、そのようなことを少しも恥じなかったという点が、私には彼らの最も厚かましいところに思われたからです。ただし、もし彼らが『弁舌に巧みな者』という言葉で、真実を語る者を意味しているのであれば、その限りでは、私は自分が弁論家であることを認めましょう。ただし、それは彼らのいう意味での弁論家ではありません。

 『ソクラテスの弁明』の冒頭部分である。

 ここでソクラテスは、自他共に認める「弁論家 ῥήτωρ」として登場する。だが、ソクラテスにとって「弁論家」として主要な問題な点は、「真実を語る者 τὸν τἀληθῆ λέγοντα」としてのそれであって、表現の巧さによって虚偽をまことしやかに伝える者としてのそれではない。

 ソクラテスを告発する人々は、すぐにバレるような嘘をついている、とソクラテスはいう。「私は、彼らがあまりにも巧みに語るものですから、危うく自分自身を忘れてしまうところでした」というのはソクラテスなりの皮肉である。そしてレトリックには決して騙されないぞ、というソクラテスの気概も感じる。

 ここでソクラテスは、すでに一つの回答を出している。すなわち、真実を語るのに、弁論の巧みさは決して必要ではないということである。なぜなら、ソクラテスは、弁論の巧みさに長けていないが、真実を語るという点に関しては長けている点を自認しているからである。

 だが「弁論家」をソクラテスの意味で、つまり「真実を語る者」として理解するのは、本来的には無理がある。

(つづく)

文献

*1:カール・マルクス『「プロイセン国王と社会改革」—一プロイセン人—にたいする批判的論評』1844年。

〈哲学者〉とは何か

目次

はじめに

最近、私は自分を「哲学者である」と自己規定している。

私の自己規定は、私自身がどう生きたいか、というあり方の問題である。

だが、「私は哲学者である」と言った場合に、そもそも〈哲学者〉とは一体何者なのかが明らかでなければ、何も言っていないに等しい。

〈哲学者〉とは何かを明らかにするには、二つのアプローチがある。帰納と演繹だ。

帰納的アプローチを採るならば、これまで哲学者とみなされてきた人々を列挙し、彼らに共通する特徴を示せばよい。

これに対して、演繹的アプローチを採るならば、私自身が〈哲学者〉の理念を示す必要があろう。

ここでは、後者、演繹的アプローチを採用する。

〈哲学者〉とは何か

哲学者の有名な定義の一つに、「これまでの哲学者はただ世界を解釈してきただけだ」というカール・マルクスの有名な定義がある。マルクスの言わんとすることは、哲学者が単にダメというわけではなく、世界を解釈するだけでは世界に対して変革を起こすことができないので、むしろ哲学(理論)プラス実践の両軸が必要だ、ということである。

これに対して、私の考える〈哲学者〉とは、既存の概念を破壊し、刷新し、創造する人である。どういうことか。

実は哲学者が世界を解釈するという行為は、解釈行為が実践を伴わないにせよ、革命的である。なぜなら、物事の見方を変えるということの内には、単なる実践では実現できないような創造性を兼ね備えているからである。

〈家〉とは居住空間か

例えば、〈家〉とは何か、を考えるとする。

常識的にいえば、家とはプライベートな居住空間であり、端的に言えば、自分の寝る場所、住む場所である。

これに対して、哲学者はそのような常識的な前提を疑い、「家」という概念を刷新することができる。

「家」とは、プライベートな居住空間であることは間違いないが、けっして自分の寝る場所でなくとも良いし、住む場所でなくとも良い。「家」は家として確保しつつ、毎週ホテル暮らしをしたって良いのだ。だとすれば、家が例えば東京や京都にあったとしても、実際の居住空間は北海道や九州であっても良いのだ。

だが、「家」の常識的な概念が、居住空間と一致していることには、一定の理由もある。通常、日常的に仕事をする場所と家の場所とは空間的に近接する関係にあるからだ。しかしながらそれは、経済合理性に絡め取られた結果にすぎず、時間が許せば、「家」にずっと居なければならない理由はない。

おわりに

このように〈哲学者〉とは既存の概念を疑い、刷新し、創造的に破壊する、ディスラプティブな存在であることができる。その意味で、哲学することは革命的な実践を行うために欠かせない前提でありうるのである。

生成変化

sakiya1989.hatenablog.com

 前回「自己規定」について書いた。

 「自己規定」とは、私が私自身に対して「私とは何であるか」という規定を与えることである。これは、「私」という抽象的存在に具体性を持たせることだと言い換えてもいい。

 この「自己規定」は、一方では、私の役割を明確にし、私の意思決定に従って自己実現するために必要なプロセスであるが、他方では、「自己規定の罠」に陥るおそれがある。どういうことか。

 「自己規定」とは、本来、多面的であり、流動的なものである。裏を返せば、私の「自己規定」は、一面的ではないし、固定的でもない。

 ヘーゲルが流動性という観点から弁証法という方法に着目したように、私の「自己規定」は、いわば弁証法的に生成変化していくものである。

 この生成変化はいかにして生じるのか。

 それは、私が「自己規定」に従ってこの世界というあらゆる他者と関わりを持ち、私の自己規定に従って自己実現する過程において、むしろ他者からのフィードバックを通じて、他者の規定を飲み込んだり受け入れることによって、私の「自己規定」が破壊され、再生され、新たに創り変えられるということである。

 この生成変化は、私の「自己規定」の生成変化でもあり、あらゆる他者の生成変化でもある。

自己規定

sakiya1989.hatenablog.com

 前回は、意思決定する主体である「私」について述べた。

 その際に、あらゆる他者から影響を受けることによって、純粋な「私」という存在はあり得ないことにも言及した。

 実は、この「私」という存在は、「私」自身が規定することのできる対象である。すなわち、私がどのような存在であるか、ということを、私自身が決めるということである。

 「私」の定義を私自身が決めること、このことは、私という主体が自身の持つ肉体を通じて世界に対してどのように働きかけるかという、自分自身の人生を設計をするためのビジョンを作るための強固な土台となり得る。