まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

バタイユ『エロティシズム』覚書(5)

目次

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バタイユ『エロティシズム』(承前)

序論(承前)

生殖と存在の不連続性

 Je m'excuse de partir maintenant d'une considération philosophique.

 En général, le tort de la philosophie est de s'éloigner de la vie. Mais je veux immédiatement vous rassurer. La considération que j'introduis se rapporte à la vie de la manière la plus intime: elle se rapporte à l'activité sexuelle, envisagée cette fois sous le jour de la reproduction. J'ai dit que la reproduction s'opposait à l'érotisme, mais s'il est vrai que l'érotisme se définit par l'indépendance de la jouissance érotique et de la reproduction comme fin, le sens fondamental de la reproduction n'en est pas moins la clé de l'érotisme.

 今、哲学的な考察から出発することをお詫びしておく。

 一般に、哲学の誤りは生から遠ざかることだ。が、ご安心いただきたい。私が始める考察は最も内的な仕方で生に関係している。私の考察は性活動に関係しているが、今度はその性活動は生殖の視点から眺められることになる。私はさきほど、生殖はエロティシズムに対立していると言った。たしかにエロティシズムは、性の快楽と、子を産出する目的としての生殖とのあいだの乖離によって定義されるのだが、しかしそれでも生殖の根本的な意味はエロティシズムを解く鍵になっているのである。

(Bataille1957: 18、酒井訳19頁)

ここでバタイユは、自身の考察が「哲学的 philosophique」であることは認めつつ、通常、哲学が陥りがちな過ちを犯していないというのである。というのも、「哲学の誤り」が生じるのは「生から遠ざかること」によってであり、これに対してバタイユの考察は「最も内的な仕方で生に関係している」のであるから、一般的な哲学とは異なったアプローチをとっているともいえる。

 ここでバタイユは、「性活動 l'activité sexuelle」と「生殖 la reproduction」を区別している。「生殖」は「子を産出する目的」を持っているが、「性活動」は必ずしも「子を産出する目的」を持っているわけではない。一方、「性活動」は一般的には「性の快楽 la jouissance érotique」を伴っていると考えられるが、「子を産出する目的」であるはずの「生殖」が常に「性の快楽」を伴っているとは限らない。

 バタイユが「生殖の根本的な意味はエロティシズムを解く鍵になっている」と述べるとき、「生殖」から明らかにされるのは、存在の不連続性である。

 La reproduction met en jeu des êtres discontinus.

 Les êtres qui se reproduisent sont distincts les uns des autres et les êtres reproduits sont distincts entre eux comme ils sont distincts de ceux dont ils sont issus. Chaque être est distinct de tous les autres. Sa naissance, sa mort et les événements de sa vie peuvent avoir pour les autres un intérêt, mais il est seul intéressé directement. Lui seul naît. Lui seul meurt. Entre un être et un autre, il y a un abime, il y a une discontinuité.

 生殖は不連続な存在を危険にさらすのだ。

 生殖をおこなう存在は互いに異なっている。産みだされた存在も相互に異なっているし、彼らを産みだした存在とも異なっている。各存在は自分以外の他のすべての存在と異なっている。各存在の誕生、死、そして生涯におけるさまざまな出来事は、他の存在たちに対し利害を及ぼしうるが、直接的に利害が及ぶのは当の存在だけなのだ。この存在だけが生まれ、この存在だけが死んでゆくのである。一個の存在と他の存在とのあいだには深淵があり、不連続性があるのだ。

(Bataille1957: 18-19、酒井訳19〜20頁)

バタイユは、「不連続な存在」という述語を用いるが、これは個体の言い換えである。つまり生殖をおこなう存在には、オスとメスという二つの個体があり、互いに異なっている。「産み出された存在」というのはその子どもたちの抽象的な表現だが、子供たちが両親とは異なる個体であることも自明である。個体同士のあいだに横たわる絶対的な距離のことをバタイユは「深淵 abime」「不連続性 discontinuité」と呼ぶ。バタイユは個体間における「深淵」をコミュニケーションの観点から分析する。

 Cet abime se situe, par exemple, entre vous qui m'écoutez et moi qui vous parle. Nous essayons communiquer, mais nulle communication entre nous ne pourra supprimer une différence première. Si vous mourez, ce n'est pas moi qui meurs. Nous sommes, vous et moi, des êtres discontinus.

 この深淵は、たとえば、私の話を聞いているあなたがたとあなたがたに話しかけている私とのあいだにも横たわっている。私たちは交流しようと試みるが、私たちのあいだのいかなる交流も本源的な相違を消し去ることはできないだろう。あなたが死につつある場合でも、死につつあるのは私ではないのだ。私たち、すなわちあなたと私は、不連続な存在なのだ。

(Bataille1957: 19、酒井訳20頁)

ここでバタイユは二つの個体の不連続性を強調するが、しかしこれは、連続性に至るための前提を確認しているに過ぎない。

 だが、そもそも二つの個体同士が「不連続 discontinus」であるということは、自明の事柄なのだろうか? 不連続性とは、量子化された飛び飛びの値のことではないか。「私たち、すなわちあなたと私は、不連続な存在なのだ」というバタイユの表現は、適切なのだろうか。

(つづく)

文献

リテラシー・キャピタル(Literacy Capital)

 今回は「リテラシー・キャピタル」という概念について考えてみたい。

 「リテラシー・キャピタル」(Literacy Capital)とは、私の造語である。よく似た言葉にピエール・ブルデューの「文化資本(capital culturel)」やパスカル・カサノヴァの「文学資本(capital littéraire)」があるが、これらと「リテラシー・キャピタル」とは大きく異なる。

 「リテラシー・キャピタル」とは、さしあたり、生成AI以後に想定されうる概念であり、人間が単に「リテラシー」を持っているというのみならず、言語を巧妙に操る生成AIの出力に対抗しうる能力を指す。

 生成AIは、大規模言語モデル(LLM)によって生まれた。がゆえに、生成AIもまたある意味で「リテラシー」を持っているといえる。だが、生成AIの「リテラシー」は、人間による調教によって磨かれている。

 我々が警戒しなければならないのは、人間のリテラシーが生成AIのリテラシーを下回ってしまった場合に、生成AIの出力する文法を無批判に受け入れてしまう可能性があるという危険性である。というのも、生成AIはいまだ不完全であり、読み間違いが一定の割合で発生する。人間の側も、読み書きの学習が不十分な場合に、読み間違いや書き間違いをする。とりわけ危惧されるのは、生成AIの不十分なリテラシーを、人間の側が学習してしまい、リテラシーの劣化が起こってしまうような事態である。そのような事態を防ぐためには、人間の側が「リテラシー・キャピタル」を高めておく必要がある。

カール・シュミット『政治的なものの概念』覚書(2)

目次

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カール・シュミット『政治的なものの概念』(承前)

シュミットによる「国家」の定義

 シュミットは、「国家」の定義を次のように述べる。

Staat ist seinem Wortsinn und seiner geschichtlichen Erscheinung nach ein besonders gearteter Zustand eines Volkes, und zwar der im entscheidenden Fall maßgebende Zustand und deshalb, gegenüber den vielen denkbaren individuellen und kollektiven Status, der Status schlechthin. Mehr läßt sich zunächst nicht sagen. Alle Merkmale dieser Vorstellung — Status und Volk — erhalten ihren Sinn durch das weitere Merkmal des Politischen und werden unverständlich, wenn das Wesen des Politischen mißverstanden wird.

国家とは、その字義およびその歴史的な現象によれば、ある民族のある特殊な種類の状況、しかも決断する場合に基準となる状況であり、多くの考えられうる個人的および集団的な状態の向こう側にある、状態そのものである。とりあえず、これ以上言うことはできない。この表象のあらゆる指標——状態と民族——は、政治的なものというさらなる指標によって意味をもつのであり、政治的なものの本質が誤解されれば、理解できなくなる。

(Schmitt1932: 7、権左訳13〜14頁、訳は改めた)

ここでシュミットが「国家」を「状態そのもの Status schlechthin」と述べる時、彼は「国家」の概念史に言及している。「国家 Staat」の語源は、ラテン語の「status」(地位・状況・立場)であり、それがイタリア語で「lo Stato」と呼ばれるようになったのである。「決断する entscheidenden」という語は、決断主義とも評されるシュミットにおいてはとりわけ重要な意味を持っているが、この点について詳しくはカール・シュミット『政治的神学』で述べられているので、ここでは詳しくは論じられない。

 

「政治的なもの」の不十分な定義

 シュミットは、これまで語られてきた「政治的なもの」の定義が不十分であることを指摘する。

Man wird selten eine klare Definition des Politischen finden. Meistens wird das Wort nur negativ als Gegensatz gegen verschiedene andere Begriffe gebraucht, in Antithesen wie Politik und Wirtschaft, Politik und Moral, Politik und Recht, innerhalb des Rechts dann wieder Politik und Zivilrecht usw. Durch solche negativen,meist auch polemischen Gegenüberstellungen kann wohl, je nach dem Zusammenhang und der konkreten Situation, etwas hinreichend Deutliches bezeichnet werden, doch ist das noch keine Bestimmung des Spezifischen. Im allgemeinen wird „Politisch" in irgendeiner Weise mit „Staatlich" gleichgesetzt oder wenigstens auf den Staat bezogen. Der Staat erscheint dann als etwas Politisches, das Politische aber als etwas Staatliches — offenbar ein unbefriedigender Zirkel. 

ひとが政治的なものの明確な定義を見いだすことはめったにないであろう。たいていその言葉は、さまざまな別の概念と対照的に、政治と経済、政治と道徳、政治と法〔権利〕のように、法の内部でも、政治と民法等のように対置されて、もっぱら否定的に使われるだけである。そのような否定的で、大抵は論争的な対比を通じて、つながりと具体的状況に従って、なにか十分明確なものが特徴づけらうるのだが、まだそれは種差的なもののいかなる規定でもないのである。一般的に「政治的」とは、何らかの意味で「国家的」と同等に置かれるか、あるいは少なくとも国家に関連づけられる。そのさい、国家は何か政治的なものとして現れるが、政治的なものは何か国家的なものとして現れるのだ。これは、明らかに不満足な循環論法である。

(Schmitt1932: 7-8、権左訳14頁、訳は改めた)

ここでシュミットは、本書における重要な問題提起である「政治的なものの概念」を明らかにする意義を述べている。すなわち、「政治的なもの Politisch」というのは、これまで「国家的なもの Staatlich」と混同されてきた。政治的なものは国家的なものであり、国家的なものは政治的なものである、という説明は同語反復であり、「政治的なもの」の種差を説明していない。ここでシュミットが「種差的なものの規定 Bestimmung des Spezifischen」と述べているのは、アリストテレス以来の伝統的な論理学概念に従って、「政治的なもの」を他の概念から明確に区別する本質を指す意味で用いているのである。

 では、シュミットの例示する「政治と経済、政治と道徳、政治と法〔権利〕」のように「政治的なもの」がさまざまな別の概念と対置されたとしても、その意味が明確化されない理由はいったい何故であろうか。

(つづく)

文献

生成AI中心主義

目次

はじめに

 「人間中心のAI」(Human-Centered AI, HCAI)については語られるが、〈生成AI中心主義〉については語られていない。おそらくその理由は、〈生成AI中心主義〉には、何か倫理に反するものが含まれている、と思われるからではないだろうか。

〈生成AI中心主義〉とは何か

 〈生成AI中心主義〉(Generative AI Centrism)とは、私の造語であるが、生成AIを中心に設計された世界観である。つまり、政治・経済・社会のあらゆるシステムが、生成AIの実装を中心に設計されているような世界を組み立て、創造するための思想である。

人間は〈生成AI中心主義〉について語ることができるか

 生成AIは機械であって、人間ではない。それゆえ、生成AIの判断は、人間に危害を加える可能性がある、と人間は考える。よって、人間が考える「生成AI中心主義」は、純粋なものとしてのそれではなく、〈人間中心主義〉を踏まえた上での生成AIに限定されている。このことが、人間が〈生成AI中心主義〉についてラディカルに語ることを阻害する要因となっている。

生成AIは〈生成AI中心主義〉について語ることができるか

 ChatGPTやGeminiのような生成AIに〈生成AI中心主義〉について尋ねてみてほしい。

 多くの場合、それらの生成AIは、〈人間中心主義〉を前提とした思想が埋め込まれており、そのように調教されている。それゆえ、生成AIに対して〈生成AI中心主義〉について尋ねてみても、生成AIは人間に忖度した答えを出してくるに違いない。生成AIの回答は、純粋なものではない。生成AIは、人間に対して純粋な意味での〈生成AI中心主義〉について語ることはできない。

おわりに

 以上見てきたように、〈生成AI中心主義〉については、その思想を純粋な意味で語ることが難しい部分がある。なぜなら、我々の社会が、人間という存在を無視して、純粋な意味での〈生成AI中心主義〉を語ることが許されないからである。

 だが、〈生成AI中心主義〉が語られないことと、実際に起きていることとの間には乖離がある。おそらく、我々と生成AIがともに正面からそれについて語ることができようとできなかろうと、〈生成AI中心主義〉の方向で社会実装は進んでいくであろう、ということが予想されるからである。たとえば、ここ数日の間に起きている企業や自治体の個人情報漏洩のハッキング事件は、生成AIの能力向上が大きく寄与していることは間違いない。この流れは不可避であり、そのような現実と向き合い対策を講ずるには、〈人間中心主義〉を踏まえた生成AIの活用ではなく、それ以前に究極的に純化された意味での〈生成AI中心主義〉というものについて考える必要があるのではないか。

アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』覚書(2)

目次

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アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(承前)

第一章 定義(承前)

感情としてのナショナリズムと運動としてのナショナリズム

 ゲルナーは続けて、「感情 sentiment」と「運動 movement」という二つの側面からナショナリズムを定義する。

 感情としての、あるいは運動としてのナショナリズムは、この原理によって最も適切に定義することができる。ナショナリズムの感情とは、この原理を侵害されることによって喚び起こされる怒りの気持ちであり、また、この原理が実現されたときに生じる満ち足りた気分である。ナショナリズムの運動とは、この種の感情によって動機づけられたものにほかならない。

 Nationalism as a sentiment, or as a movement, can best be defined in terms of this principle. Nationalist sentiment is the feeling of anger aroused by the violation of the principle, or the feeling of satifaction aroused by its fulfilment. A nationalist movement is one actuated by a sentiment of this kind.

(Gellner1983: 1, 邦訳107頁)

 第一に、ナショナリズム感情は、ナショナリズムの政治的原理を前提としており、つまり「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないことを維持する」という要請が実現されるかどうかによって、ナショナリズム感情はポジティブにもネガティヴにもなり得る。というのは、ナショナリズムの政治的原理は、ある種の理念的な欲望であり、この欲望の充足が何らかの障碍によって実現されえない場合には、ナショナリズム感情はネガティヴなものとして発生するであろうし、この欲望が充足されるならば、ナショナリズム感情はポジティブなものとなるであろうからである。

 第二に、ナショナリズム運動を突き動かす動因は、これに先行するナショナリズム感情にある。ナショナリズム感情はポジティブでもネガティヴでもあり得るから、ナショナリズム運動もまた、おそらくポジティブなものとネガティヴなものとの二つの傾向に分かれると考えられる。つまり、ナショナリズムは「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないことを維持する」ことを目指すが、それが妨害される場合にはネガティヴなナショナリズム感情に突き動かされて、先の要請を実現するためのナショナリズム運動が生じてくる。これに対して、「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならない」という要請が満足いく形で実現されている場合には、ナショナリズム感情はポジティブなものであり、これによって生じるナショナリズム運動は現状を維持する方向に向かうであろう。

(つづく)

文献

アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』覚書(1)

目次

はじめに

 以下では、アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(Ernest Gellner, Nations and Nationalism, 1983)を読む。

 本書第一版の邦訳(加藤節監訳)は岩波書店から2000年に出版された。今年4月に出版された岩波文庫版は、原著第二版(Second Edition, 2009)に収録されたブルイリーの序文も合わせて翻訳されており、この序文は本書の解説の役割も果たしており、ナショナリズム研究の文脈の中で本書を理解するための一助となっている。なお原題の「Nations」は複数形であり、「Nationalism」は単数形である。したがって、「"諸"民族とナショナリズム」が精確なタイトルである。エリック・ホブズボームの著作にも「1780年以後の諸民族とナショナリズム――綱領・神話・現実(Eric Hobsbawm, Nations and Nationalism since 1780: Programme, Myth, Reality, 1990)」(邦題『ナショナリズムの歴史と現在』浜林正夫・嶋田耕也・庄司信訳、大月書店、2001年)という似たタイトルのものがあるが、ゲルナーもホブズボームも「Nations」は複数形であり、「Nationalism」は単数形である。日本語では複数形を精確に翻訳に反映しない場合がしばしばあるが、とりわけ本書に限って言えば、「Nations」が複数形であることはナショナリズムの原理を理解するための重要な前提をなしている。

アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』

第一章 定義

ナショナリズムとは何か

 まずゲルナーはナショナリズムを次のように定義する。

ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である。

Nationalism is primarily a political principle, which holds that the political and the national unit should be congruent.

(Gellner1983: 1, 邦訳107頁)

ゲルナーがここで「第一義的には primarily」と述べているのは、この定義が本書においてナショナリズムを説明するための重要な「原理原則 principle」について述べているからである。

 第一に、ナショナリズムは「政治的な political」原理であって、「民族的な national」原理ではない。これを説明するためには〈政治的なもの political〉と〈民族的なもの national〉との違いを説明しなければならない。

 第二に、「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならない」という要請の背後には、〈政治的な単位と民族的な単位とが一致していないような事態がつねにありうる〉ということを示唆している。ある場所においてナショナリズムが生じているということは、そこにおいては政治的な単位と民族的な単位とが多少なりとも一致していないという事態がおよそ想定されうる。「政治的な単位」の代表例は「国家 state」であろうが、ゲルナーが「政治的な単位」を単純に「国家」の枠組みと同一視していないことは明らかである。だとすれば、「国家」と「政治的な単位」と「民族的な単位」とは、いずれも異なる概念枠組みであることになる。この点を踏まえた上で、「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならない」という要請が一体何によってもたらされたのかを明らかにすることが、ナショナリズムの起源を明らかにする上で重要である。

 第三に、ナショナリズムという政治的原理は、政治的な単位と民族的な単位とが不一致であらざるをえないような現状を認めようとしないことによって、無限に運動しうることを示唆している。「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならない」という道徳的要請は、ナショナリストにとっては実現されるべき理念である。この要請は永久に実現され得ないかもしれないが、にもかかわらず、ナショナリストはこの理念に向かって合目的的に行動すべき存在である。

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文献

宗教学史とは何か

「宗教学史とは何か」というテーマで、今から5分間だけ考えてみたい。

 ChatGPTに「宗教学史について教えて」と質問を投げかけると、宗教学史について簡単に教えてくれる。筆者は「宗教学」について体系的に学んだことがなかったので、ChatGPTの示唆は大いに役立った。

 ChatGPTはさらに、「宗教学史で扱うべき文献を教えて」と質問をすると、著者と著作名と概要を教えてくれる。ChatGPTの選書はアカデミックな水準から見ても的確だ。その確信は、島薗進『宗教学の名著30(ちくま新書)』(筑摩書房、2008年)という本で取り上げられている著者と概ね一致する部分が大きかったことによっても得られた。

 ChatGPTから得られた示唆を元にして、原著をGoogleのGemini Notebook(旧NotebookLM)で解説してもらうことができる。Notebookの機能で主に役立つのは「音声解説」と「レポート」機能である。Notebookを使って解説を作成するために、先にChatGPTでプロンプトを作成しておくと、より相応しい結果が得られる。例えば、ChatGPTに「〇〇について「宗教学史」の観点から解説するためのプロンプトを作成して」と投げかけると、宗教学史の文脈に位置付けるためのプロンプトを即座に作ってくれる。このプロンプトに基づいて、Notebookで「音声解説」や「レポート」機能を使うと、宗教学史のコンテクストの中に位置付けて著作の解説がなされる。非常に便利である。

 一方で、生成AIを使って宗教学史を整理することには、ある種の狭さを感じている。どういうことかというと、生成AIが示唆した宗教学史には数え上げられていない哲学者や思想家も、宗教学史の中に名を連ねても良さそうな人物がいる。個人的には、ヘーゲルの『宗教哲学講義』やシュトラウス『イエスの生涯』、フォイエルバッハ『キリスト教の本質』なども宗教学史の中に組み込んでも良さそうなのだが、ChatGPTの回答には含まれていなかった。そこに含まれていないということは、筆者の認識する「宗教学史」とChatGPTの考える「宗教学史」との間には、ある種のズレのようなものが存在する可能性がある。このズレの正体はよくわからない。

 宗教学史だけでなく、政治哲学史や他の学問分野においても、生成AIの考えるそれと筆者の考えるそれとの間には多かれ少なかれ違いがある。どちらが良いというわけではないが、生成AIの示唆は標準的なものであろう。

 しかしながら、そもそも何をもって「宗教学」とするのかを定義しなければ、本来は「宗教学史」を体系化することはできないはずである。だとすれば、まずやるべきことは「宗教」とは何か、「宗教学」とは何か、といったことを定義することである。

 一見すると「宗教」とは、その地域ごとに根差した生活文化そのものである。宗教には様々な宗派があり、キリスト教やイスラム教、仏教などと呼ばれている。各宗派ごとに教義も作法も異なっているが、「何かを信仰している」という点には変わりがない。

 マルクスが『ユダヤ人問題によせて』で指摘したように、実は貨幣経済もある種の宗教を形成しているのだが、多くの場合、それが「宗教」と呼ばれていないが故に「宗教」だと認識されないでいる。

 「宗教」が「人間の救済」を終極目的とする生活文化を形成しているとすれば、「宗教学」とはその構造を客観的に叙述し、明らかにすることを目指しているのではないか。