まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

マルクス『資本論』覚書(19)

目次

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マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

〈労働生産力〉の様々な複合的諸要因

(1)ドイツ語初版

 そのため,ある商品の価値の大きさは,その生産に要する労働時間が一定であれば,一定である.しかし,後者〔労働時間〕は,労働生産力に変動があれば,そのつど変動する.労働生産力は多種多様な事情によって規定されており,なかでも特に労働者の技能の平均度,科学とその技術的応用可能性との発展段階,生産過程の社会的結合,生産手段の規模と作用能力,そして自然環境によって,規定されている.同量の労働でも,例えば,豊作のときには八ブッシェルの小麦に表現され,凶作のときには四ブッシェルの小麦にしか表現されない.同量の労働でも,豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を産出する,等々.

(Marx1867: 6)

(2)ドイツ語第二版

 そのため,ある商品の価値の大きさは,その生産に要する労働時間が一定であれば,一定である.しかし,後者〔労働時間〕は,労働生産力に変動があれば,そのつど変動する.労働生産力は多種多様な事情によって規定されており,なかでも特に労働者の技能の平均度,科学とその技術的応用可能性との発展段階,生産過程の社会的結合,生産手段の規模と作用能力,そして自然環境によって,規定されている.同量の労働でも,例えば,豊作のときには八ブッシェルの小麦に表現され,凶作のときには四ブッシェルの小麦にしか表現されない.同量の労働でも,豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を産出する,等々.

(Marx1872a: 14)

(3)フランス語版

 ある商品の価値量は,その生産に要する時間が一定であれば,当然ながら一定である.だがこの労働時間は,労働生産力に変動があれば,そのつど変動する.労働生産力は多種多様な事情によって規定されており,なかでも特に労働者の技能の平均度,科学の発展とその技術的応用の度合い,生産の社会的結合,生産手段の範囲と効率,そして純粋に自然条件によって,規定されている.同量の労働でも,例えば,豊作のときには八ブッシェルの小麦に表現され,凶作のときには四ブッシェルの小麦にしか表現されない.同量の労働でも,豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を供給する,等々.

(Marx1872b: 15)

(4)ドイツ語第三版

 そのため,ある商品の価値の大きさは,その生産に要する労働時間が一定であれば,一定である.しかし,後者〔労働時間〕は,労働生産力に変動があれば,そのつど変動する.労働生産力は多種多様な事情によって規定されており,なかでも特に労働者の技能の平均度,科学とその技術的応用可能性との発展段階,生産過程の社会的結合,生産手段の規模と作用能力,そして自然環境によって,規定されている.同量の労働でも,例えば,豊作のときには八ブッシェルの小麦に表現され,凶作のときには四ブッシェルの小麦にしか表現されない.同量の労働でも,豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を産出する,等々.

(Marx1883: 7,岡崎訳(1)80頁)

ここでマルクスは「労働時間」というに影響を与える〈労働生産力〉というの諸要因について言及している.「ある商品の生産に要する労働時間」は,例えば8時間や9時間のような一定の量として計測される.だが,同じ8時間や9時間の労働であっても,労働の質によって生産性は変化する.この労働の質のことを〈労働生産力 Produktivkraft der Arbeit〉とマルクスは呼ぶ.〈労働生産力〉は「労働者の技能の平均度,科学とその技術的応用可能性との発展段階,生産過程の社会的結合,生産手段の規模と作用能力,そして自然環境」といった様々な複合的な諸要因によって変動する.〈労働生産力〉の良し悪しは,その内的要因としてはその国のいわば文明化の度合いに依存しているが,同時に,その外的要因としては.小麦や鉱山の例に見られるように気候や土壌などの〈自然環境 Naturverhältnisses〉に影響を受ける.

(つづく)

文献

自民党「日本国憲法改正草案」批判(3)

目次

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自民党日本国憲法改正草案」(承前)

前文(承前)

 日本国民は,国と郷土を誇りと気概を持って自らを守り,基本的人権を尊重するとともに,和を尊び,家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する.

自民党2012: 1)

ここで第三パラグラフになってようやく本来の主権者である「日本国民 Japanese people」が登場する.

 ここで特徴的なのは,日本国民が「和を尊び,家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」と述べられている点である.字面だけ追うと道徳的に良いことを述べているように一見思われるのだが,そもそも憲法にこんなことをイチイチ明文化されてはたまったものではない.改憲草案には,この箇所がそっくりそのまま条文として書き込まれているのである.

第二十四条 家族は,社会の自然かつ基礎的な単位として,尊重される.家族は,互いに助け合わなければならない.

自民党2012: 8)

この箇所は改憲草案で新たに盛り込まれた箇所であるが,これでは山上徹也容疑者の母親がいくら統一協会献金しようとも,それによって家族が崩壊しようとも,親族は「家族なんだから助けてあげなさい」と憲法に命令されてしまうことになろう.

 そもそも「家族」とは「社会の自然かつ基礎的な単位」ではない.「家族」とは「社会」と区別される圏域であって,「社会」の中に包摂される要素ではない.

 しかし,これに対して,改憲草案では,家族とは「社会の自然かつ基礎的な単位」だとされる.したがって,家族とは,社会から独立した共同体ではなく,社会の構成要素に過ぎない.これによって家族は社会の要請に従わざるを得なくなる.家族には,社会から切り離された自由は存在しない.

(つづく)

文献

ヘーゲル『法の哲学』覚書:「家族」篇(3)

目次

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ヘーゲル『法の哲学』(承前)

第三部「人倫」第一章「家族」(承前)

「家族」章の構成

第160節

 家族は以下の三つの面を通じて完結する.

(a)家族の直接的概念である婚姻という形態を通じて,

(b)外面的定在,つまり家族の所有物と,これらに対する配慮を通じて,

(c)子どもの教育と家族の解体を通じて.

(Hegel1820: 167,上妻ほか訳(下)36頁)

この箇所では「家族」章の構成が端的に述べられている.つまり,上の「三つの面」が,「家族」章のA「婚姻」,B「家族の資産」C「子どもの教育と家族の解体」の節にそれぞれ対応している.

 以上の三節の順番は,むやみやたらに入れ替え可能なものではなく,時系列に沿って,というよりもむしろ,家族の概念的な発展段階に即していると言える.

 A「婚姻」は,家族形成の端緒として,最初に来なければならない.その意味で「婚姻」は家族の「直接的概念」と述べられているのである.

 B「家族の資産」の議論は,実は後の「市民社会」章の「普遍的資産」(第199節・第200節ほか)の議論をするための布石となっている.さらに「配慮 Sorge」について述べておくと,これが同じく「市民社会」章のC「行政と職業団体」における「普遍的配慮」(第236節)の議論するための布石となっている.ヘーゲルは本書の構成として「家族」章の議論を先在させることによってはじめて「市民社会」を「普遍的家族」(第239節)と呼ぶことができたのである.

 C「子どもの教育と家族の解体」に関して述べておくと,上で「子どもの教育 Erziehung」の語は強調されているが,「家族の解体 Auflösung」の語は強調されていない.その点に注意を向けると.この節の中心が「子どもの教育」にあることがわかる.つまり「子どもの教育」による自立した人格の形成によって,結果的にそれが「家族の解体」に繋がるのであり,次の「市民社会」への移行という役割をも果たすのである.

(つづく)

文献

ヘーゲル『法の哲学』覚書:「家族」篇(2)

目次

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ヘーゲル『法の哲学』(承前)

第三部「人倫」第一章「家族」(承前)

家族の解体と市民社会への移行の見通し

 第159節

 家族の統一を基盤として,個人に属している法,そしてさしあたりこの統一それ自身における個人の生命となっているが,規定された個別性という抽象的な契機としての法の形式に入ってゆくのは,家族が解体に移行し,家族の成員として存在するはずの者たちが,その志操においても現実性においても自立した人格として成長し,彼らが家族のなかで一定の契機としてかたちづくったものを,いまや分割されたあり方で,それゆえもっぱら外的な側面(資産,養育費,教育費など)に応じて受け取るかぎりにおいてである.

(Hegel1820: 166-167,上妻ほか訳(下)34〜35頁)

この箇所では,家族から市民社会への移行が念頭に置かれている.つまり,前節(第158節)が「家族」章の導入であり「家族」の概要であったとすれば,本節(第159節)は,「家族」から「市民社会」への移行の道筋を先取りして示しているのである.このように先の議論への道筋を示すという叙述を,ヘーゲルは『精神現象学』でもしばしば行っている.

 家族の「分肢 Glieder」というあり方は,市民社会における「自立した人格 selbständige Personen」とは異なっている.「家族の統一 Familien⹀Einheit」は,家族成員(子どもたち)の成長によって「解体 Auflösung」へと至る.

 世俗の結婚披露宴では神父による「永遠の愛を誓いますか」という問いかけがあるが,ヘーゲルは「婚姻」において永遠の愛を喧伝することはない.ヘーゲルのいう「家族 Familie」とは,子育てを目的とし,その目的を達成してしまえば即解散してしまうようなプロジェクトチームであり,そして父親(家長)はいわばそのプロジェクトマネージャー(PM)である.「婚姻」という子育てというプロジェクトのうちには,永遠の愛どころかむしろ家族の「解体」つまり離婚の契機が含まれているのである.

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文献

ヘーゲル『法の哲学』覚書:「家族」篇(1)

目次

はじめに

 本稿ではヘーゲル『法の哲学』第三部「人倫」第一章「家族」の読解を試みる.

 家族という共同体では様々な諸問題が生じている.それは,例えば,機能不全家族,DV(ドメスティック・バイオレンス),ネグレクト,性虐待*1アダルトチルドレンモンスターペアレント,不倫*2愛着障害共依存インセスト・タブー,ヤングケアラー*3カサンドラ症候群*4,親ガチャ,毒親*5など,多種多様な言葉で語られている.

 以下で我々はヘーゲルの「家族」論を検討することによって,家族の様々な問題への処方箋の可能性を探究してみたい.

ヘーゲル『法の哲学』

第三部「人倫」第一章「家族」

「家族」の規定としての「愛」

 第158節

 家族は精神の直接的実体性として,精神の感じられている統一,すなわちをその規定としている.したがって,その志操は,精神の個体性の自己意識を即自的かつ対自的に存在する本質性としてのこの統一のうちにもつことであり,それによって,この自己意識は,この統一において単独の人格としてではなく,成員として存在するようになる.

(Hegel1820: 166,上妻ほか訳(下)33頁)

ヘーゲルによれば,家族が国家や市民社会の圏域から区別される,家族独特の規定とは「愛 Liebe」である.愛とは精神的な一体感のことである.みずからのうちに精神的な一体感を持つ家族の「成員 Mitglied」というあり方は,市民社会で活動する自立した一箇の「人格 Person」*6とは異なっている.

 しかしながら,「愛」と一口に言っても様々である.例えば,伊藤明は「愛」について次のように整理している.

 古くから数々の作家,哲学者,心理学者たちは,愛をいくつかのタイプに分類することによって,その非常に厳しい疑問に答えようとしてきた.一例を挙げると,フランスの作家スタンダールは,①情熱恋愛(一目惚れをはじめとする激しい恋愛),②趣味恋愛(遊び半分の恋愛),生理的恋愛(生理的欲求による強い恋愛),④虚栄的恋愛(見栄や虚栄心による恋愛)の四つに恋愛を分類している.

 ルービンという心理学者は「恋愛(愛している)」と「好意(好き)」という観点からの区別を行った.行為は相手に対する尊敬の念や高い評価といった感情が中心となっているのに対し,恋愛では「いつでも一緒にいたい」といった親和的感情や「独り占めしたい」といった排他性・独占欲求が中心になっているという.

 ハトフィールドとウォルスターという心理学者は,喜びと苦しみが入り交じった強烈な感情を伴う「情熱的な愛」と,友情と思いやり,理解といったどちらかといえば穏やかな感情を伴う「友情的な愛」に分類した.

 さらに,心理学者リーは,四〇〇〇以上にもなる恋愛に関する幾多の記述を集め,それらを六つのタイプに分類した.①ルダス(遊びの愛),②マニア(狂気的な愛),③プラグマ(実理的な愛),④エロス(美への愛),⑤ストルジュ(友情的な愛),⑥アガペ(愛他的な愛)である.

(伊藤2015: 195)

他にも「同時に複数のパートナーと「誠実」に愛の関係を築く」というポリアモリー(polyamory,複数愛)と呼ばれる愛も存在する(深海2020).

 ヘーゲルは「愛」についてどのように考えていたのだろうか.

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文献

*1:「性虐待」について詳しくは信田2019を見よ.

*2:「不倫」については中野2018を参照されたい.

*3:「家族のケア(家事,介護,年下のきょうだいの世話,感情的サポートなど)を担う子ども・若者たちを「ヤングケアラー」と呼ぶ.「ヤング」を何歳で区切るかは国によっても異なるが,20代の若者になると若者ケアラー,ヤング・アダルト・ケアラーと呼ぶことがある.」(濱島2021: 3).

*4:「夫の共感性に問題があるために,妻がうつやストレス性の心身の障害を呈するに至ったものを「カサンドラ症候群」と呼ぶ.典型的なのは,自閉スペクトラム症アスペルガー症候群)のために,共感性や情緒的な反応が乏しいパートナーと暮らしている人に起きるものである.配偶者,パートナーだけでなく,子どもや同僚等,その人と深いかかわりを持たざるを得ない人にも同じようなことが起こりうる./カサンドラ症候群は,医学的診断カテゴリーではないが,医学的診断よりも本質をとらえ,改善にも役立つ有用な概念だと言える.」(岡田2018: 27〜28).

*5:毒親」という概念を初めて示したのはスーザン・フォワード(Susan Forward, 1938-)である(フォワード2021).

*6:市民社会の「原理 Prinzip」としての「人格」について詳しくは「市民社会」章冒頭第182節を参照されたい.「具体的な人格,すなわち特殊的なものとしての自分にとっての目的である人格は,もろもろの欲求の全体として,また自然必然性と恣意との混合として,市民社会一方の原理である.——しかし,特殊的人格は,本質的には他の同様な特殊性との関係のうちにある.したがって,各々の人格は他の人格によって,そして同時にただ,他方の原理である普遍性の形式によって媒介されたものとしてのみ,みずからを通用させ,満足をえるのである.」(Hegel1820: 187,上妻ほか訳(下)75頁).

自民党「日本国憲法改正草案」批判(2)

目次

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自民党日本国憲法改正草案」(承前)

前文(承前)

次の第二段落に示されているのは,国際社会において果たすべき「日本国」の役割——自民党がそのように考える限りでの——である.

 我が国は,先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し,今や国際社会において重要な地位を占めており,平和主義の下,諸外国との友好関係を増進し,世界の平和と繁栄に貢献する.

自民党2012: 1)

「先の対戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し,今や国際社会において重要な地位を占めており」という箇所は,自民党による「日本国」の歴史認識に他ならない.憲法の条文はその制定後には固定化されるが,歴史認識は時代と共に変化するので,憲法歴史認識との間の軋轢は時代と共にますます大きくなる.よって,憲法の耐用年数を長くする為には,憲法の中に歴史認識を組み込まない方が望ましい.

 この第二段落は,改憲草案「第二章 安全保障」と関係がある.「平和主義の下,諸外国との友好関係を増進し,世界の平和と繁栄に貢献する」という箇所からは,集団的自衛権の行使により,国防軍の海外派遣を行えるようにしようとする自民党の思惑が垣間見える.

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文献

自民党「日本国憲法改正草案」批判(1)

目次

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はじめに

 以下では,自民党日本国憲法改正草案」(2012年,以下「改憲草案」と略記する)を批判的検討に付す.

自民党日本国憲法改正草案」

前文

「日本国民」の代わりに主体化された「日本国」

 憲法前文に関しては,全面的に書き改められている.現行憲法が主に恒久平和の理念を掲げているのに対して,改憲草案からはどことなく儒教イデオロギーの腐臭がする.

 日本国は,長い歴史と固有の文化を持ち,国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって,国民主権の下,立法,行政及び司法の三権分立に基づいて統治される.

自民党2012: 1)

冒頭一行目に関してまず目につくのは,現行憲法では「日本国民 We, the Japanese people」を主語 subject としているのに対して,改憲草案では「日本国 Japan」を主語としている点である.若きマルクスフォイエルバッハ主義の観点からすれば,「日本国」から出発するのか,それとも「日本国民」から出発するのか,という両者の間には天と地ほどの差が存在する.

 現行憲法が「日本国民」から出発するのは,いわゆる〈国家,エタ État またはステイト State 〉としての「日本国」が主体 subject なのではなく,〈人民,プープル people 〉としての「日本国民 Janese people」が真に主体であることを,文体上でも表現しているからである(主権在民,あるいはプープル主権論).

 これに対して,改憲草案では,「国民主権 sovereignty of the people」を明記しつつも,「日本国民 Japanese people」ではなく「日本国 Japan」こそが真に主体であることを,その文体によって示している.改憲草案では,〈人民〉としての「日本国民」が「長い歴史と固有の文化」を持つのではなく,〈国家〉としての「日本国」が「長い歴史と固有の文化」を持つとされるのである.

反近代的概念としての「日本国」

 ところで〈国家〉とは近代的概念であり,それ自体は決して「長い歴史」を持たない.それはせいぜいマキアヴェッリのstato論に遡ることができる程度である.そうすると,改憲草案の中で「長い歴史と固有の文化」を持つとされる「日本国 Japan」は〈国家〉ではないのではないか,という疑問が頭に浮かんでくる.

 もし「日本国」が〈国家〉という近代的政治的概念ではないとすれば,改憲草案の示す「日本国」とは一体いかなる政治的概念なのだろうか.

 これを読み解く鍵は,差し当たり「国民統合の象徴である天皇を戴く国家」という箇所にある.ここには,「日本国民 Japanese people」——そこにアイヌや沖縄の人々が含まれるならば,いわゆる〈民族,ナシオン nation〉としては単一民族国家ではあり得ない——を「日本国 Japan」の名の下に統合して国民国家たらしめているのは,その象徴たる「天皇 Emperor」であるという認識が示されている.そしてここに示されているのは,単なる象徴天皇制ではなく,「天皇を戴く国家」すなわち「日本国」の「元首」として天皇が君臨するという立憲君主制の図式なのである*1

 天皇の由来はイザナミイザナギの神話(『古事記』および『日本書紀』)に遡ることができ,その神話をも含めて「日本国は,長い歴史と固有の文化を持」つと述べられていると考えられる.その限りで,改憲草案の「日本国」は近代的概念どころかむしろ反近代的概念でさえある.

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文献

*1:天皇は,日本国の元首であり,日本国及び日本国民統合の象徴であって,その地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく.」(改憲草案,第一章「天皇」,第一条).