まだ先行研究で消耗してるの?

全然ロジカルじゃない(!)書きたいことをひたすら書くブログです。ノンロジカルエッセイ。

ヘーゲル『精神現象学』覚書(4)

目次

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「哲学」と「解剖学」の違い

さらにヘーゲルは「哲学」が他の分野とは異なる性質をもつ点について、「解剖学」を例にあげて説明する。

これに対して言われなければならないことがある。たとえば解剖学とは、生命を欠いて現にある存在という側面から考察された、身体のさまざまな部分にかんする知識といったものである。そうした解剖学をめぐっては、それが「なんであるか」という一般的な観念フォアシュテルングを手にしたところで、ことがらそのもの、つまり解剖学という学の内容をそれだけでは我がものとしているわけではなく、それにくわえてさらに特殊なものを手にいれるべく努力しなければならないというはこびを、ひとが疑うこともない。——ちなみに解剖学などは知識の寄せあつめであって、学の名を与えられる権利をもたないけれども、そのようなものについては、〔「序文」にあって〕目的とか、それに類する一般的なことがらにかんしておしゃべりがなされるのが通例である。しかもそのおしゃべりは、羅列的ヒストーリッシュで概念を欠いたしかたでなされるが、内容そのものであ、この神経やこの筋肉などについて語られるのもまた、そのおなじ方式においてなのである。哲学の場合は、これに対して、そのようなやりかたが用いられれば不整合が生じるのであって、そのけっか、このような様式では真理が把握されえないことが、やはり哲学そのものによって指ししめされるはこびとなるはずである。

(Hegel 1807:Ⅱ-Ⅲ、訳(上)11頁)

ここで「解剖学 Anatomie 」は「学の名を与えられる権利をもたない」と述べられている。これはつまり、「解剖学」はヘーゲルのいうの意味での「学 Wissenschaft 」の名に値しないということである。

では、ヘーゲルにとって「学」とは一体なんであろうか。「解剖学などは知識の寄せあつめ」であるとされている。それが「寄せあつめ」であるということは、裏を返せばそれは「体系的」ではないということである。

だが、本書のメインタイトルはもともと「学の体系」であった。それゆえ、哲学的な著作である本書は、解剖学のように「羅列的で概念を欠いた」方法を採用しないし、そこで叙述されているものは単なる「知識の寄せあつめ」ではあり得ない、ということになる。

しかも、ここで「解剖学」*1が例として取り上げられているのは、全く理由がないわけではない。「解剖学とは、生命を欠いて現にある存在という側面から考察された、身体のさまざまな部分にかんする知識といったものである」とヘーゲルはいう。ヘーゲルの「哲学」がめざすところの「学の体系」は生命ある身体を有機的に把握するものだと考えられる。それゆえ、身体から生命を欠いた状態で、しかも身体の全体を通してではなく、身体の局所的な部分からのみ得られた知識の羅列に過ぎない「解剖学」のあり方は、ヘーゲルのめざす「哲学」のあり方とはまさに対極に位置しているとも言えるのである*2

(つづく)

文献

*1:「なお、「解剖学」については、「理性章A節a自然の観察」における第二七六段落(209 ff.)で言及されているように、ヘーゲルにとっては、「感受性」、「反応性」、「再生産」の三つのモメントへの関心がある。これについては、シェリング、キリアンが関わっている。また、同「c自己意識をみずからの直接的な現実態への関係で観察すること」の「頭蓋論」第三三〇段落(266 ff.)でも言及されており、これについては、ガルが関わっている。ヘーゲルは、ブルーメンバッハの『比較解剖学ハンドブック』やヒルデブラントの『人間の解剖学教科書』を所持しており、これらも参考にしたと思われる。ヘーゲルの「解剖学」への言及は、医学の根源となる基礎的な学問という位置づけも意識していたのではないか。ちなみに、シェリングは、バイエルンのランツフート大学で一八〇二年「医学名誉博士」の称号を得ている。」(神山 2015:24)。

*2:ヘーゲルの理解によると、死せるものを扱う「解剖学」との対比で、哲学は、「生命」のある「自然」を取り扱うものなのである。したがって、「生命」は、哲学にとって議論の土俵として「実体的」であり、「直接態」なのである。」(神山 2015:27)。

ヘーゲル『精神現象学』覚書(3)

目次

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仮象」としての「哲学」

続けてヘーゲルは『なぜ「哲学的な著作」においては「序文」が不適切に見えるのか』その理由について述べている。

というのも、なにをどのように、哲学をめぐって「序文」なるもののなかで語るのが適当であるとされようと——たとえば、傾向や立場、一般的な内容や帰結にかんする羅列的ヒストーリッシュ論述であれ、あるいは真なるものをめぐってあれこれと述べたてられる主張や断言を繋ぎあわせることであったとしても——、そのようなものは、哲学的な真理が叙述されるべき様式や方式として、ふさわしいものではありえないからである。その理由はまた以下の点にある。哲学は本質的に普遍性という境位のうちで展開されるものであり、しかもその普遍性は特殊なものをうちにふくんでいる。そのかぎりで哲学にあっては、他のさまざまな学にもまして、目的や最終的な帰結のうちにこそ、ことがら自身が、しかもその完全な本質において表現されているものだ、という仮象が生まれやすい。この本質にくらべれば、実現の過程はほんらい非本質的なものである、とされるわけである。

(Hegel 1807:Ⅰ-Ⅱ、訳(上)10〜11頁)

ここでまず「哲学 Philosophie 」はどのようなものとして認識されているだろうか。それは端的に言えば、「普遍性」こそが大事、実現に至る過程を軽視し「帰結」のみを重要視する「哲学」である。

しかしながら、われわれが注意しなければならないのは、ここで述べられている「哲学」がヘーゲル的な意味での「哲学」ではないであろう、ということである。

ここで述べられている「哲学」は、「仮象 Shein 」としての「哲学」に過ぎない。『「哲学的な著作」に「序文」は不適切ではないか』という懸案は、この「仮象」としての「哲学」がまさに「帰結」だけを重要視して、真理の実現に至るその過程を軽視するがゆえに発生した問題なのである。

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文献

ヘーゲル『精神現象学』覚書(2)

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「序文」

よく言われることだが、『精神現象学』には「序文 Vorrede 」と「序論 Einleitung 」がある。「序文」も「序論」もほとんど似たような言葉だが、「序文 Vorrede 」とは「前もって(Vor-)語る言葉(Rede)」の謂である。それゆえ、「序文」が本書の最初に位置しているのは、字義通りには理にかなっている。

しかし、「序文」や「序論」といったものはふつう手短に済まされるものだが、本書の「序文」は非常に長い。しかも最初の「序文 Vorrede 」の方が次の「序論 Einleitung 」よりもはるかに長いのである。内容的にも考え抜かれていて、ヘーゲルは明らかに気合を入れて最初の「序文」を書いている。この「序文」をしっかりと読みこなせるか否かが『精神現象学』を読解するための試金石でもある。

「哲学的な著作」における「序文」の意義

「序文」の冒頭は次の通りである。

著作といったものには、なんらかの説明が「序文」において習慣にしたがい先だって与えられているものである。それは、著者がその著作でくわだてた目的についてのものであるし、また著作の機縁や、対象をひとしくし、先行するほかの論考や、同時代のそれに対して、じぶんの著作が立っているものと念っている関係にかんしての説明であることもある。そうした説明は、哲学的な著作の場合にはよけいなものとなるばかりか、ことがらの本性からして不適切でさえあって、さらに目的に反するものであるかにも見える。

(Hegel 1807:Ⅰ、訳(上)10頁)

ここでヘーゲルは、まず著作一般における「序文」のあり方を述べた上で、「哲学的な著作」における「序文」の意義について問い質している。つまり、通常の著作における「序文」と、「哲学的な著作」における「序文」とでは、「序文」の果たす役割や意義が異なっているものとして考察されているわけである。

ヘーゲルによれば「序文」とは「著者がその著作でくわだてた目的についてのものであるし、また著作の機縁や、対象をひとしくし、先行するほかの論考や、同時代のそれに対して、じぶんの著作が立っているものと念っている関係にかんしての説明であることもある」。つまり「序文」とは、著者がどいういう目的で書いたのかをあらかじめ読者に伝えておく箇所であり、同類の著作と比べて本書がどいういう位置付けなのか、その背景や文脈を説明する箇所である。この点については特に異論はなかろう。

問題は、「序文」が「哲学的な著作」においてはどうして不適切なものと見えてしまうのかということである。この点について考察するには、上の引用の続きを読む必要がある。

続きを読む前に、ひとつ注意喚起しておかなければならないことがある。ヘーゲルの叙述においては、どこまでがヘーゲル自身の主張であり、どこまでが通俗的な観念をヘーゲルが描写したものであるかを見極める必要がある。例えば、「そうした説明は、哲学的な著作の場合にはよけいなものとなるばかりか、ことがらの本性からして不適切でさえあって、さらに目的に反するものであるかにも見える scheint 」と述べた箇所は、ヘーゲル自身の主張というよりはむしろ通俗的な観念をヘーゲルが描写したものと考えられる。「見える」ものはいわば仮象*1に過ぎないのであって、それは真理ではない。もしここでヘーゲルが『哲学的な著作に「序文」は不適切だ』と主張しているというのであれば、それをわざわざ「序文」で述べている本書そのものが自己矛盾に陥ってしまうことになる。だからヘーゲルは『哲学的な著作に「序文」は不適切だ』と主張したいわけではないであろう、という推理がはたらく。

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文献

*1:「ここで注目すべきは、以上の内容すべてが、「思われる」(scheinen)という動詞からもわかるように仮象(Schein)だということである。つまり、当該の発端は、仮象の論なのである。」(山口 2008:7)。

ヘーゲル『精神現象学』覚書(1)

目次

はじめに

このシリーズではヘーゲル『精神現象学』(熊野純彦訳、筑摩書房、2018年)を読む。

私が『精神現象学』を読み始めたのは、およそ十年前に遡ることができる。もともとヘーゲルその人に関心があったことも事実であるが、当初はマルクスの思想のより深い認識に至るための手段として本書を手に取ったに過ぎない。

その後はヘーゲル精神現象学』読書会に参加しつつ、本書の読解には多少なりとも時間をかけてはいる。だが、私はいまだに本書の概要すら把握できずにいるのが実情である。

したがって、ここに自身の読解を書きつけるのはあくまで自分自身のためであって、私自身が理解の途上にいることをあらかじめ断っておく。

 

「学の体系」構想、サブタイトルとしての「精神現象学

哲学者ヘーゲル(1770-1831)*1その人についての説明は省略する。というのも、彼について語るならば、一体どういう切り口で話し始めたら良いだろうかと困惑してしまうからである。

ともかく、まずは本書初版の表紙をご覧いただきたい。

ヘーゲル精神現象学』初版の表紙)

本書初版の表紙を見ると、そのタイトルは『学の体系』(System der Wissenschaft)とある。ここから『精神現象学』(die Phänomenologie des Geistes)というタイトルは当初はメインではなくサブとして、つまり「学の体系」の第一部門として下位に位置付けられていたことがわかる。したがって、ヘーゲルは、本書の執筆の過程においては「学の体系」を叙述することを目的としつつも、その第一部門として構想したはずの「精神現象学」を、それ自体で独立した書籍として公刊したわけである。

そこで問題となるのは、「学の体系」の第二部門以降の部門が刊行されていない点である。ヘーゲルは「学の体系」構想を放棄してしまったのだろうか*2。第二部門以降が刊行されていない以上、『精神現象学』(1807年)に固有な意味での「学の体系」構想は途中で放棄されてしまったと見做されても仕方あるまい。

しかし、ヘーゲルはこの構想そのものを捨てたわけではなかったと考えられる。というのも、この構想は、「学の体系」のあり方そのものを変容させた上で、後の梗概『哲学的諸学のエンツュクロペディー』へと結実することとなるからである*3。この梗概では「精神現象学」という同じタイトルを持つ章が「主観的精神」のもとに収められている(ただし『精神現象学』(1807年)と比べると、大幅に簡略化されている)。

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文献

*1:ヘーゲル哲学についての現代思想的な入門書としては、仲正昌樹『ヘーゲルを超えるヘーゲル』(講談社、2018年)を個人的にオススメしたい。

*2:精神現象学』の体系的位置付けの変更について詳しくは飯泉 2019をみよ。飯泉によれば『精神現象学』が学の成立において果たす役割は一回限りであるという。「『現象学』は、精神の歴史としてのその目的論的運動を叙述することで、精神の自己知としての学が〈今ここ〉という歴史的現在に成立することを示すと同時に、当の時間的 = 歴史的過程そのものを廃棄するのだが、まさにそのことによって体系第一部としては不要になり、しかも二度と体系の中に位置付けられなくなる、と解釈するのである。このように学の成立の歴史的一回性に着目する本稿の解釈は、ヘーゲル哲学に内在する、ある逆説を顕わにするだろう。すなわち、『現象学』という企ては、伝統的に切り離されて考えられてきた永遠的な形而上学と有限な歴史的時間を体系的に連関させることに一瞬成功するものの、次の瞬間には、その成功ゆえに体系からそれ自身が排除されてしまうのである。」(飯泉 2019:146)。

*3:ニュルンベルクでのギムナジウム講義「哲学への導入としての精神論」(一八〇八/〇九年)は、『現象学』の前半部、つまり、意識章、自己意識章、理性章の枠組みをほぼ踏襲しているし(GW10.1, 8-29)、同様の議論は、理性章の大幅な改変を度外視すれば、『エンツィクロペディ』の主観的精神章の一部——第二版以降では「精神現象学」節——にも見出すことができる。また、『現象学』の後半部である精神章、宗教章、絶対知章に対応した内容は、同著の客観的精神章と絶対精神章で論じられているものに近い。」(飯泉 2019:148)。

グレーバー『ブルシット・ジョブ』覚書(1)

目次

はじめに

今回は、ようやく日本で邦訳が発売されたばかりのデヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』(岩波書店、2020年)を取り上げたい。

岩波書店にしては珍しくハードカバーではなく、ビジネス書によく見られるような軽い装丁になっている。

 7月29日の時点で書店に並んでいた。その時は一旦スルーしたものの、翌日には気になってつい買ってしまった。本書が気になった理由は「自分の仕事がブルシット・ジョブなのか否か」を確かめたかったからである。

私は自分の仕事が「ブルシット・ジョブ」だと考えている。その理由は、満足な賃金が支払われているにもかかわらず、その職務には誇りを持てず、全くといっていいほど自分の仕事に「やりがい」を感じていないからである。『できることならさっさとクビにしてくれ』と何度も願ったものだが、そう思っている時ほどクビにならない。『もっと早く辞めるべきだった』と何度も反芻してきたが、それでもいまだに仕事を辞めていないのは、収入が断たれる恐怖に屈服しているからである。自身のキャリアを真面目に考えれば考えるほど、苦悩に陥ってしまう。ここには「やりがい」とは何によってもたらされるのかという問題も含まれている。

もちろん私が仕事をしている理由は「やりがい」とは別のところにある。それは端的にいえば「お金のため」である。人文系の研究者は大学に安定した職を得ることが難しい。特に私の興味関心の対象である社会思想分野の大学の職は、優秀な大学院生と博士号取得者の増加と反比例して、年々縮小傾向にある。こうした環境下で人並みの生活水準を送りながら研究生活を続けるには、アカデミックな環境の外部に収入を得る方が手取り早い。

ところで私のこのような仕事はグレーバー的な意味での「ブルシット・ジョブ」と呼ぶにふさわしいのだろうか。

この問いに直ちに答えることはできない。というのも、本書を読み始めるや否や、何でもかんでも「ブルシット・ジョブ」と呼ぶことができないことが判明するからである。グレーバーは「ブルシット・ジョブ」と「シット・ジョブ」を区別している。そのため「ブルシット・ジョブ」と「シット・ジョブ」を混同しないことが重要である。

ブルシット・ジョブはたいてい、とても実入りがよく、きわめて優良な労働条件のもとにある。ただ、その仕事に意味がないだけである。シット・ジョブはふつう、ブルシットなものではまったくない。つまり、シット・ジョブは一般的には、だれかがなすべき仕事とか、はっきりと社会を益する仕事にかかわっている。ただ、その仕事をする労働者への報酬や処遇がぞんざいなだけである。

(グレーバー 2020:33)

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ブルシット・ジョブとシット・ジョブの違い

グレーバーはこのように「ブルシット・ジョブ」と「シット・ジョブ」とを理論的に区別しているが、「ありうるなかで最悪の仕事の形態を想像しようとするならば、それは両者を合成したものだとするのが妥当なようにおもわれる」(同:34)と述べている。「ありうるなかで最悪の仕事の形態」とはおそらく「ブルシット・ジョブ」と「シット・ジョブ」の悪いとこ取りをしたような組み合わせ、つまりその待遇がぞんざいでありながら、その仕事が無意味であるような仕事であろう。

 

以下では、グレーバーの彫琢したその定義にしたがって「ブルシット・ジョブ」とは一体何であるのかを確認したい。

本書の構成

まず本書は以下のように構成されている。

目次

序章 ブルシット・ジョブ現象について

第一章 ブルシット・ジョブとは何か?

第二章 どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか?

第三章 なぜ、ブルシット・ジョブをしている人間は、きまって自分が不幸だと述べるのか?(精神的暴力について、第一部)

第四章 ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか?(精神的暴力について、第二部)

第五章 なぜブルシットジョブが増殖しているのか?

第六章 なぜ、ひとつの社会としてのわたしたちは、無意味な雇用の増大に反対しないのか?

第七章 ブルシット・ジョブの政治的影響とはどのようなものか、そしてこの状況に対してなにをなしうるのか?

(グレーバー 2020:ⅶ)

もともとグレーバーの「ブルシット・ジョブ」に関する小論がウェブマガジン『ストライキ!』に掲載されたことを機に、大きな反響を呼び起こした。この小論が本書「序章」に収められている。

本書はあまり結論を急がずに読まれるのが望ましいと思う。というのも、結論よりも「ブルシット・ジョブ」という概念の提起とその概念が彫琢される過程こそ本書の魅力であるからだ。

とはいえ、本書の最終章(第七章)でグレーバーは「仕事と報酬を切り離し本書で論じてきたジレンマを集結させる構想の一案としての普遍的ベーシックインカム」にも言及している。ベーシックインカムとはいわば政治的な仕方で社会的な問題を解決しようとするものである*1。しかし、グレーバー自身はアナキストを自認しており、こうした政治的な仕方で社会問題を解決することを望まない。

わたしは、自分のことをアナキストであると考えている。いまでは、たとえばスペインの異端審問や遊牧民の侵略は歴史的好奇心の対象だろうが、それと同じように、政府や企業などが歴史的好奇心の対象となるような未来がいつか到来することを待望するのがアナキストであることの意味である。だがそれだけではない。差し迫った問題に対して、政府や企業により多くの権力を与えてしまう解決策よりは、自分たちの問題を自分たちの手で対処できるような手段を人びとに与えるような解決策のほうを好むのが、またアナキストであることの意味である。

(グレーバー 2020:346)

私自身は最近ベーシックインカムはアリだと考えるようになった。租税というのは基本的に国や地方自治体による一方的な収奪であり、その見返りとして公共財・サービスが市民に提供されるというのが経済学的な理屈である。いわゆる新自由主義路線に従えば、財源は効率的かつ無駄を無くすのが良いとされる。しかし、そこには生物学的な恒常性の発想がみられない。租税にはおそらく「貨幣の呼吸」のようなものが必要であり、すなわち租税として市民から収奪した貨幣をベーシックインカムとして支給するのは、貨幣の再配分という意義において、減税とは別の仕方で理にかなっている。

もちろんベーシックインカムが支給されれば、その上で仕事をしたとして、従来の手取り額と同等になるように給与は減るだろう(なぜなら結局のところ、労働力の再生産に必要な額面だけが支給されるからだ)。しかし、ベーシックインカムのように労働あるいは仕事とは別に貨幣が支給されるようになれば、決して完全雇用が達成されない社会においては、一時的にせよ雇用されていない人びと(これは誰でも陥る可能性がある)が一定の希望を持って生活ができるようになると思うのである。

(つづく)

文献

*1:この点については、カール・マルクス「『プロイセン国王と社会改革 一プロイセン人』にたいする批判的論評」(1844年)をみよ。マルクスは政治的な仕方で社会的な問題を解決しようとすることは、根本的な(ラディカルな)解決には至らないと主張している。

ついに「空中ディスプレイ」が開発されたらしい

ついにあの「空中ディスプレイ」が開発されたようです。

www.itmedia.co.jp

多くの方は映画『マイノリティ・リポート』のディスプレイを思い出したようですが、私が思い出したのはアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』でした。

実は今からおよそ三年前にこのブログでもこのような「空中ディスプレイ」が出てこないものかと書いたことがあったのです。

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上の記事(「アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』に出てくるあのガジェットはどうやって作るのか?」)は、三年たった今でもこのブログの中でも常に上位のアクセス数を維持しておりまして、まあ内容はたいしたこと無いのですが、一体誰が読んでいるのだろうかと不思議に思っておりました。

あれから三年、フィクションの世界で描かれていたものがついに実現されてしまったようです。これだからフィクションの世界はあなどれないのです。

レトリックはいかにして伝わるのか

目次

はじめに

今回は「レトリックはいかにして伝わるのか」というテーマで書きたいと思います。

このテーマで考えるきっかけとなったのは、京都大学教授・大河内泰樹先生の次のツイートでした。

 ここで「話題のバンドの人」とされているのは、いまTwitterで物議を醸しているRADWIMPSのボーカルである野田洋次郎さんのことでしょう。今回反響が大きかったのは彼の次のツイートです。

このツイートのリプ欄を確認していただくとわかるのですが、この「個人の見解」に対して「これはナチスドイツの優生思想だ」という意見が目立ちます。

野田さんの先のツイートがこうした指摘を受けることになったのは、「遺伝子」と「国家プロジェクト」という二つを結びつけたことによると思います。

 

語用論的には何を意味しているか

野田さんは一つ前のツイートで将棋界の藤井聡太さんを褒めています。

このツイートを読む限りで、語用論的には野田さんの先のツイートは藤井聡太さんのすごさを伝えようとしたものと考えられるはずです。

今「語用論的」と言いましたが、語用論とは次のようなものです。

発話の文字通りの意味と、そこに込められた発話の意図(含意)との関係をより正確にとらえようとするのが語用論です。

木原善彦 2020)

野田さんの先のツイートに寄せられた「ナチスドイツの優生思想だ」という批判は、ツイートの文字通りの意味から分析されたものです。

これに対して、一つ前のツイートからツイートの意図(含意)を汲み取ろうとすれば、そういう国家プロジェクトを本気でやろうとするはずもなく、「大谷翔平選手や藤井聡太棋士芦田愛菜さん」を持ち上げるだけの意図にすぎないと思われます。

 

意味と意図の受容のされ方

最初の大河内先生の問いに触発されて、私は発話者と聞き手との間での意味と意図の受容のされ方について、次のような区分を考えてみました。

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意味と意図の受容のされ方

上の四象限によると、発話者と聞き手との間では、文字通りの意味とレトリックを意図したものとは、疎通できているか齟齬が発生しているかという二つの仕方で受け取られることが分かります。(もちろん実際には発話者がレトリックも意図した上でなおかつ文字通りの意味でも書いているということも考えられますので、ちょうど四象限を分かつ境界線上に位置することも考えられます。)

 

レトリックはいかに不/適切に用いられるか

前節でみたレトリックの意図が適切に伝わっているかどうか(疎通できているのか)という問題に加えて、もう一つ、レトリックが社会通念(習俗的な規範 Sittlichkeit )に照らして適切なのかという問題があります。後者は単なる語用論的な問題にとどまらず、むしろ倫理に関わる問題だと言えます。

例を一つ出します。明石家さんまさんが女性をいじる発言をした時、従来はそれほど問題だと思われていなかったことが、昨今のジェンダー認識の高まりとともに不愉快なものとして受け取られるようになってきた。これは、明石家さんまさんの文法(彼の概念のコード、あるいは彼の常識)が、聞き手の文法(聞き手の側の概念のコード、聞き手の側の常識)と齟齬をきたすようになってきたからだと考えられます。この場合、時代とともに変容してきたのは、聞き手の側の概念のコード(常識)であって、明石家さんまさんの持つ概念のコード(常識)が変化したわけではないという点に注意が必要です。発話者の意図はどうであれ、発話された文字通りの意味が、時代とともに変化する習俗的な規範 Sittlichkeit (普遍性)と齟齬をきたすようになったとき、その発話は不適切なものとして取り扱われるのではないでしょうか。

 

文献