まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

読書前ノート(36)伊藤 邦武/山内 志朗/中島 隆博/納富 信留(責任編集)『世界哲学史』

伊藤 邦武/山内 志朗/中島 隆博/納富 信留(責任編集)『世界哲学史』(筑摩書房、2020年)

「世界哲学史」という新たな試み

 「世界哲学史」とは聞きなれない言葉である。「哲学史」に「世界」がかかっているが、この「世界」は形容詞であろうか。形容詞だとすれば、「哲学史」を「世界的なもの」として制限することを狙いとしているのだろうか。否、むしろこの「世界」は従来のいわゆる「西洋哲学史」という制限を乗り越えることが意図されている。 

 そもそも「哲学史」とは何であろうか。「哲学史」とはアタマの使い方の見本市・展示会のようなもので、さすがに「阿呆の画廊」(ヘーゲル)とは思わないけれども、素人には絵画の美学的な見方が分からないのと同じで、実際の阿呆は哲学史を見ても何がなんだか内容をサッパリ理解できない、ということは起こり得る。

 別の言い方をすると、「哲学史」とは「思考のモデルを集めたもの」である。思考のモデル化は統計分析のモデルみたいなイメージであり、ある種のグラフを分析するときに有用だと認識された思考パターンのようなものを想定している。「哲学史」における思考モデルの例としては、マルクスに見られるような「資本主義の分析の場合はこの思考モデル」、カントに見られるような「人権の分析の場合はこの思考モデル」、アリストテレスに見られるような「論理の分析の場合はこの思考モデル」のように、対象の概念に即して有益な思考のモデルの先例を哲学史の中にいくつも見いだすことができる。個々の哲学者を研究することは、その思考モデルを精緻化することに寄与する。精緻化された思考モデルの歴史的変遷を比較するのが思想史である。

 さて、「世界哲学史」の「世界」には、「哲学とは根本的に〈西洋〉のものである」という裏返しの〈オリエンタリズム〉=西洋中心主義に対抗すべく、〈東洋〉の哲学をも本シリーズの射程に入れるという意図が込められていると思うが、哲学が本来考えようとしていたことは根源的な原理・原則だとすると、哲学が本来的には地理的に、局所的なものを目指していなかったことは自明であり、グローバルな、世界的に、地理的なバランスを取ることが哲学的にはかえって不釣り合いになるおそれもあるように思われる。

 とはいえ、イギリス経験論、ドイツ観念論、フランス現代思想、イタリア哲学、インド哲学、東洋哲学といったように、その「哲学」が地域に根ざした特徴を持っていることも事実である。〈哲学の地域性〉という事象が、私には何だか不思議に思われてならない。その地域の持つ歴史、文化、風土といった〈土台〉がその人の思考モデルをを規定しているのだろうか。そのように説くのは〈唯物論〉と呼ばれる思想であるが、これもまた一つの思考モデルの一つであることに変わりはない。これを考察するには思考モデルを思考するメタな哲学が必要である。同様に「世界哲学史」はそれ自体さらなる考察の対象であり、本シリーズの「別巻」がこの点を補完する役割を果たしている。