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『独仏年誌』「1843年の交換書簡」覚書(1)

目次

はじめに

 以下ではマルクス&ルーゲ編『独仏年誌』所収の「1843年の交換書簡」(以下「交換書簡」と略記)を読む。「交換書簡」の邦訳は、マルクス城塚登訳)『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説』(岩波文庫、1974年)に収められている。

 『独仏年誌』には、マルクスが書いたものとしてこの「交換書簡」のほかに「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」が掲載されている。「交換書簡」は手紙という形式を取っているがゆえに、マルクス自身の個人的な意見が述べられているが、同時にマルクスその個人的な見解を「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」の中で論考の形式へと昇華させているのである。したがって、「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」を読み解く鍵は「交換書簡」の中にあるといっても過言ではない。

「1843年の交換書簡」

オランダから見たドイツ人

 マルクスからルーゲへ

           D行の引船上にて 1843年3月

 私は今、オランダを旅行しています。当地とフランスとの新聞から見た限りでは、ドイツは深く泥のなかにはまりこんでおり、今後もますますひどくなっていくことでしょう。国民的自負など一向に感じないひとでも、オランダにいてさえ、国民的羞恥を感ぜずにはいられないのは請けあいです。もっとも卑小なオランダ人ですら、もっとも偉大なドイツ人とくらべてみても、なお一個の公民なのです。しかもプロイセン政府にたいする外国人たちの判断はどうか!そこには驚くべき一致があり、もはや誰一人としてこの体制とその単純な性質について目をくらまされるものはありません。ですから新学派は少しは役に立ったのです。自由主義の虚飾ははげ落ちて、この上なく憎々しい専制主義が赤裸々な姿で万人の目の前に立っているのです。

(Marx et al 1844: 17,城塚訳99頁)

ここでマルクスがオランダという外国から見た場合のドイツ市民への眼差しについて述べている。マルクスは「オランダにいてさえ、国民的羞恥を感ぜずにはいられない」と述べているが、ここからマルクスドイツ国民としてのアイデンティティを強く持っているように思われる。

省略された固有名の問題

 翻訳だけ読んでいては気づかなかった点として、「誰から誰へ」という手紙の宛名が原文では「M.」や「R.」といったように省略されていることがわかる。城塚登訳(岩波文庫)ではご丁寧に「マルクスからルーゲへ(M. an R.)」「ルーゲからマルクスへ(R. an M.)」「バクーニンからルーゲへ(B. an R.)」「ルーゲからバクーニンへ(R. an B.)」「フォイエルバッハからルーゲへ(F. an R.)」といったように、「誰から誰へ」宛てられた手紙なのかが、その固有名によって明らかにされている。だが、原文のニュアンスを尊重するならば、本来こうした固有名は、それとなくほのめかされる程度に省略され、文字通りには隠されるべきものではなかったのだろうか。換言すれば、宛名として書かれた固有名(マルクス/ルーゲ/バクーニンフォイエルバッハ)は、そこに掲載された手紙の内容ほどは重要ではなかったと言えるのではないか。

その手紙はどこで書かれたか

 それぞれの手紙には書かれた場所が記載されているが、この情報はけっして無視されるべきではない。というのも、例えばマルクスは自身からルーゲに宛てた手紙を三つ、この「交換書簡」に掲載しているが、そのいずれも同じ場所で書かれた手紙は存在しないからである。マルクスからルーゲ宛の最初の手紙は「1843年3月にD行の引船上にて」書かれており、二つ目の手紙は「1843年5月にケルン」で、三つ目の手紙は「1843年9月にクロイツナハ」で書かれている。ここからマルクスが半年の間に場所を転々と移動していることがわかるのだが、手紙が書かれた時期も違えば場所も違うのであるから、その間にマルクスの思想が変容を遂げて深化していると考えることも可能である。それゆえ我々は、マルクスの思想的発展を裏付けるに値するような、それぞれの手紙にみられるマルクス独自の見解を捉える必要があるであろう。

(つづく)

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