まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

マルクス『資本論』におけるダンテ『神曲』(1)

はじめに

 「マルクスとダンテ」というテーマが主題として書かれることはほとんどない。だが、もし仮に「マルクスとダンテ」というテーマを立てるとすれば、一体どのようなことが明らかになるだろうか。おそらくこのテーマに取り組んでみることは、我々が『資本論』を理解するための視野を広げるのに役に立つであろう。というのも、『資本論』研究は多くの場合それが研究であるがゆえに、つまり『資本論』の核心を合理的に把握しようとするがゆえに、『資本論』が本来持っていたはずの文学的要素を捨象してしまっているからである。無論マルクスの死後エンゲルスによって公刊された『資本論』第二巻・第三巻にはあまり文学的要素がみられないが、少なくともマルクスの生前に刊行されている『資本論』第一巻は文学的要素を加味した上で読まれるべき書物であるし、そうでなければ読み手の都合で文学的要素を捨象してしまいがちな傾向を自覚した上で読まなければならない。

詩人としてのマルクス

 そもそもマルクスは若い頃は詩人になりたかった。マルクスが詩作に熱中したのはベルリン大学時代のことである。

 十月、マルクスは法学の勉強を継続するためにベルリン大学に転学した。ベルリン大学では、F・K・サヴィニーによるパンデクテン法に関する講義、エドゥアルト・ガンス(改宗ユダヤ人、後にヘーゲル派になる)による刑法講義や人類学を受講した。このころから彼は詩や韻文を書き始め、三冊の創作ノート〔『愛の本』第一部、第二部、そして『歌の本』〕を叙情詩で満たして婚約者に捧げている。これらのロマンティックな創作の数々は失われているが、一八三七年以降の多くの詩やバラード、さらに、断片的なかたちで残っている喜劇『スコルピオンとフェリクス』、悲劇『オウラネム』とが、今日までも残されている。

(リュベルほか2021:34)

残念ながらマルクスにはハインリヒ・ハイネのように人に読まれるような詩を作る才能はなかった。それを見抜いていたマルクスの父親は、詩に熱中する息子を手紙を通じて諫めている。しかし、詩に熱中したことが後のマルクスの著作に彩り(figura)を与えているように思われる。

マルクス資本論』におけるダンテ『神曲

 マルクスがダンテをいつ読んだのかは定かではないが、マルクスが『資本論』の中でダンテ『神曲』から何度か引用していることから看取されるように、マルクスにはダンテの精神が少なからず息づいている。もしかするとマルクスはダンテを読むことでイタリア語を習得したのかもしれない。『資本論』の中で最初にダンテに言及しているのはドイツ語初版「序文」の最後の箇所である。

 およそ学問的批判による判断ならば、すべて私は歓迎する。私がかつて譲歩したことのない世論と称するものの先入見にたいしては、あの偉大なフィレンツェ人の標語が、つねに変わることなく私のそれでもある。

  汝の道をゆけ、そして人にはその言うにまかせよ!

(Marx1867: Ⅶ,岡崎訳27頁)

ここで「偉大なフィレンツェ人の標語」として引用されているのは、ダンテ『神曲』「煉獄篇」第五歌の次の箇所である。

「なぜおまえの心は乱れて

——師は言った——歩みを鈍らせてしまうのか。

ここで囁かれていることがおまえにとって何だというのか。

我が後に続け。人々には言わせておけ。

堅固な塔のごとくあれ、それはいかなる風が吹きつけようと

決して項を揺らすことはない。

 

というのも、ある思考から別の思考が芽吹き、

自ずと目標から逸れていくのが人の常であるからだ。

新たな思考が元の思考の力を挫くがゆえに」。

(Dante1865, Il purgatorio: 22. 原訳74〜75頁、強調引用者)

マルクスの引用は正確なものではなかったが、少なくとも内容は掴んでいる。マルクスは記憶にたよって「汝の道をゆけ Segui il tuo corso 」と書いたように思われる。もしそうでなければ、マルクスが参照した書籍に「汝の道をゆけ Segui il tuo corso 」と書かれていた可能性もある。原基晶(1967-)によれば、「そもそもダンテの自筆原稿とされるものは一切この世には残されておらず、それゆえ、自筆原稿のない『神曲』のテクストにはさまざまなヴァリエーションが存在する」(原2021:85)という。マルクスが読んだ『神曲』のテクストはどのヴァージョンであろうか。これについてはマルクスの蔵書を調べるのが手っ取り早いだろう。

 マルクスは「学問的批判による判断」と「世論と称するものの先入見」とを区別し、前者を尊重しているが、これはマルクス流のヘーゲル主義である。「世論と称するものの先入見」に関しては、ヘーゲル『法の哲学』第316節以下にその考察がある。若きマルクス自身が草稿「ヘーゲル法哲学批判のために」(「ヘーゲル国法論批判」)の中で『法の哲学』の該当箇所にコメントを残しているが、そのとき「真の民主政」を志向していた若きマルクスの思想を考慮すると、「世論と称するものの先入見にたいして、私がかつて譲歩したことのない」というマルクスの一文は額面通りに受け取ることができない。『資本論』のマルクスは若き日の思想をすっかり忘れてしまっているのではなかろうか。

 さらに『資本論』の中でダンテ『神曲』に言及している箇所を挙げよう。

たとえば、鉄の所持者がある享楽商品の所持者に対面して、彼に鉄価格を指し示して、これが貨幣形式だと言うならば、享楽商品の所持者は、天国で聖ペテロが自分の前で信仰箇条を暗礁したダンテに答えたように、こう答えるであろう。

 『この貨幣の混合物とその重さとは

  汝すでによくしらべたり

  されど言え、汝はこれを己が財布のなかにもつや』

(Marx1867: 62-63,岡崎訳186〜187頁)

ここで言及されているのは、ダンテ『神曲』「天国篇」第二十四歌である。

 もう一箇所『資本論』でダンテが言及されている箇所がある。しかし、岡崎次郎訳(大月書店)では、『資本論』第一巻でダンテが言及されているもう一つの該当箇所がなんと翻訳されていない。この翻訳がエンゲルス版を底本にしているからなのかは知らないが、第八章労働日の注66の次が注88に飛んでおり、その間の翻訳が明らかに欠けている。その欠けた部分に『資本論』第一巻でダンテに言及された箇所が含まれている。

(つづくかもしれないし、つづかないかもしれない)

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