はじめに
マルクス『資本論』第一巻「初版への序文」
マルクスの病気:潰瘍・肝臓病・フルンケル
(1)ドイツ語初版
序文
私がその第一巻を刊行するこの著作は,1859年に出版された私の著書『政治経済学批判』の続きをなしている.初めと続きとの間の長い中断は,私の仕事を何度も中断させた長年にわたる病気のためである.
(Marx1867: Ⅶ)
(2)ドイツ語第二版
初版への序文
私がその第一巻を刊行するこの著作は,1859年に出版された私の著書『政治経済学批判』の続きをなしている.初めと続きとの間の長い中断は,私の仕事を何度も中断させた長年にわたる病気のためである.
(Marx1872a: 3)
(3)フランス語版
初版序文
私が第一巻を刊行することになったこの著作は,1859年に『政治経済学批判』というタイトルで出版された著書の続きをなしている.この二つの出版物のあいだの長い間隔は,幾年にわたるある病気によって私に強いられたものである.
(Marx1872b: 9)
(4)ドイツ語第三版
初版への序文
私がその第一巻を刊行するこの著作は,1859年に出版された私の著書『政治経済学批判』の続きをなしている.初めと続きとの間の長い中断は,私の仕事を何度も中断させた長年にわたる病気のためである.
(Marx1883: Ⅴ)
マルクスの病気については伝記に次のような記述がある.その一つが「顔面の潰瘍」である.
マルクス家の財政状況は,相変わらず窮状が続いていた.彼らは頻繁に病気になったが,薬代や医者代にも事欠いた.五月には子どもたちがはしかで倒れ,マルクス自身は彼の仕事の妨げになるような顔面の潰瘍に苦しんでいた.六月,イェニー・マルクスは妊娠していたが,彼女がひどい病気になった時にも,マルクスは,合計二六ポンドも支払わなければならないような医者を呼ぶことはできなかった.エンゲルスに助力を求めて,手紙で,「家庭を持たぬ者に幸あれ」と述べた(六月二十一日付).
(リュベルほか2021:181)
病気はマルクス家全体の問題であった.マルクスの妻も子供も病気になっている.その上金がないのでまともに医者にかかることもできなかった.
マルクスがもう一つ悩まされたのが「肝臓病」である.
約束された原稿がどうなっているのかというラッサールからの問いかけに対して,マルクスは「経済学」という形での著述については,自分の病気とジャーナリストとしての仕事がその速やかな完成を妨げている,と返答している.「私は,自分の書いたもの全体にわたって文体から肝臓病の臭いをかぎ出した」とマルクスはラッサールに書いている.さらに続けて,十五年間にわたる研究の成果として,この企画は「社会的諸関係に関する一つの重要な見解を科学的に」初めて展開するもので,それゆえ,肝臓病によって損なわれることを自分は望まない,と(十一月十二日付).
(リュベルほか2021:229)
マルクスのもう一つの病気が「フルンケル」である.
マルクスは癤(フルンケル)と癰(カルブンケル)のため,二月十九日までザルトボメルに留めおかれた.その間,彼は歩くことも立つことも座ることもできず,「横になっていることも忌々しいほど難しくなりつつある」と,彼はエンゲルス宛てに書いた.
(リュベルほか2021:297)
「フルンケル」とは,日本語では「癤(せつ)」と呼ばれる皮膚の毛玉の感染症である.これが悪化したものが,皮膚の複数の毛玉を巻き込んだ「カルブンケル」=「癰(よう)」と呼ばれる感染症である.これは抵抗力が低下している糖尿病患者に多く見られる症状だという.その際に「温度と保温」が重要なのだという.マルクス家は財政的困難を迎えており,コートも質屋に出す勢いであった*1ので,マルクスは寒さゆえにこのような症状に悩まされることになったのではないだろうか.
夜を徹した仕事が続き,それは二月までにマルクスの健康を蝕んだ.持病のフルンケルが再発し,ベッドに横たわることを強いられた.その後,快方に向かいつつある間,理論的な資料に取り組むには心身共に弱くなり過ぎていた.すでに執筆済の労働日に関する部分に歴史的な一節を付け加えた,と彼はエンゲルスに報告している.この追加部分は当初の構想には入っていなかったものである(エンゲルス宛ての手紙,二月十日付を見よ).マルクスの再発する病気を非常に心配したエンゲルスは,自分の専属の医者に相談し,毎日微量の砒素剤を服用するようにアドバイスした.そして,忠告している.「容体は確かに重体になっているのだ.そして君の頭脳が,君自身が言っているように理論的な仕事のために具合が良くないならば,とにかく少し高級な理論から離れて頭脳を休ませたまえ.しばらく夜間の仕事を中止して,もう少し規則正しい生活様式を取りたまえ」(二月十日付).エンゲルスはまたマルクスに,草稿の最初の部分,たとえば第一部,第一巻にあたる部分を,すぐに出版者に送るように忠告している.そうすれば,読者も出版者も満足し,しかも時間も無駄にならないだろう,と.
(リュベルほか2021:325〜326)
病気で資本論の執筆が中断しがちなマルクスを支えるメンターの役割を果たしたのが盟友エンゲルスであった.エンゲルスはまるで『バクマン。』(大場つぐみ・小畑健)に出てくる集英社の担当のようにマルクスにアドバイスしている.
(つづく)
文献
- Marx, Karl, 1867, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Erster Band, Buch 1: Der Produktionsprocess des Kapitals, Hamburg. (Bayerische Staatsbibliothek, 2014)
- Marx, Karl, 1872a, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Erster Band, Buch 1: Der Produktionsprocess des Kapitals, Zweite verbesserte Auflage, Hamburg. (British Library, 2016)
- Marx, Karl, 1872b, Le capital, traduction de M. J. Roy, entièrement revisée par l'auteur, Paris. (University of Oxford, 2006)
- Marx, Karl, 1883, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Erster Band, Buch 1: Der Produktionsprocess des Kapitals, Dritte vermehrte Auflage, Hamburg. (University of Michigan, 2006)
- マルクス 1972『資本論』岡崎次郎訳,大月書店.
- リュベルほか 2021『神話なきマルクス——その生涯と著作に関する編年史研究』角田史幸訳,現代思潮新社.
*1:「マルクスは二五ポンドを大いに必要としていた.彼は再び極度な財政的困窮に直面していた.ヘルマン・エーヴェルベックがレッシングに勝るとも劣らない重要な天才として特徴付けた,この男(中略)は,今や計画どおりの著述に集中することは困難であった.二月には,一家の家計状況は,オーバーコートも質に入れ,その結果,家を出ることもままならず,肉屋の信用も失ってしまうような非常な危機にあった.友人たちからの少額の援助と最初の『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』の論説収入にもかかわらず,彼らの悲劇は・末っ子のフランツィスカを気管支炎で四月十四日に亡くすまでに至った.」(リュベルほか2021:160〜161).