まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

読書前ノート(38)ニッコロ・マキァヴェッリ『ディスコルシ 「ローマ史」論』

ニッコロ・マキァヴェッリ『ディスコルシ 「ローマ史」論』(永井三明訳、筑摩書房、2011年)

歴史に学ぶことの実践

 これほどまでに外交官としての彼の経験が生かされている書籍があるだろうか。リウィウスの『ローマ史』を参照しているとはいえ、その筆致はマキァヴェッリ自身による実際の人間観察なくしては書けない力強さに満ちている。

 本書でマキァヴェッリは「ヴィルトゥ virtù」と「フォルトゥーナ fortuna」という二つの概念を用いてリウィウスの『ローマ史』を分析している。だが、マキァヴェッリが「ヴィルトゥ」と「フォルトゥーナ」という概念を用いて描き出す人物像は、哲学者によって理想化された抽象的な人間像ではなく、なまなましく活き活きとしていて、しかも決して立派なものばかりではない。

 さて、ダヴィデは疑いもなく、軍人として、また学者として、さらに裁判官として、きわめて優れた才幹(ヴィルトゥ)を備えた人物だった。彼は軍事的能力に秀で、近隣諸国を破って服従させたのち、息子のソロモンに平和な王国を残した。後を受けたソロモンは戦争によらずに、もっぱら平和的な手段で国家を維持して、父王の遺徳と遺業を、楽々と享受することができた。ところがソロモンは、その子レハブアムに同じような遺産を残すことができなかった。またレハブアムも、祖父が持っていたような手腕もなければ、父が得たような幸運(フォルトゥーナ)にも恵まれなかったので、わずかに国王の六分の一を遺産として残すのがやっとだった。

(117〜118頁)

「ヴィルトゥ」が、個人の優れた能力によって国家の統治を成し遂げられる力のことを指し、その力能それ自体は、血縁によっては容易に遺産相続され得ないものであるのに対して、「フォルトゥーナ」とは、個人の力ではどうあがいてもその流れには抗えない運、巡り合わせのことである。

…いったい人間の常として、その欲望には際限がない。そして、やろうと思えばどんなことをやってみてもかまわないのだし、また、望みをどこまで広げようと、これは当人の勝手しだいである。しかし、当然の成り行き(フォルトゥーナ)として、思い通りには実現できないのが普通だ。そのために、どこまでいっても人間の欲望は飽くことを知らない、という宿命を背負わされることになっている。この結果、人間は心の中に不満が絶えず、現状にはうんざりするようになってくる。こうして、人びとは現実を悪しざまにに罵って、これという筋道の通った理由もないのに、過去を称えて未来にあこがれるようになる。

(272〜273頁)

 ちなみに「フォルトゥーナ」という概念は、人間の恣意的な行為にとって外的なものとして現れるが、いわゆる必然性とは区別される。自由と必然性とは二項対立の概念であるが、「フォルトゥーナ」は、自由と必然性のいずれに対しても外部から働きかける。マキァヴェッリは、必然性、すなわち必要に迫られたもののことを「ネチェシタ necessità」と呼んでいる。

 いったいに人間の行動には必要(ネチェシタ)に迫られてやる場合と、自由な選択の結果による場合がある。そして、その行動が威力を発揮するのは、選択の威力が発揮できない、〔むしろせっぱつまった〕時と考えられる。ゆえに、都市を建設するのにも、不毛の地を選ぶのが良策と考えられる。

(27頁)

 マキァヴェッリがリウィウス『ローマ史』を参照するのは、過去に起きた出来事を具に検討すれば、これから起こり得る事態にも容易に対処できる方策を打ち立てることができるからである。と同時に、本書が今でも読み継がれる古典たり得るのは、マキァヴェッリの観察する人間描写が非常に優れているからでもある。

 現在や過去の出来事を考えあわせる人にとって、すべての都市や人民の間で見られるように、人びとの欲望や性分は、いつの時代でも同じものだということが、たやすく理解できる。したがって、過去の事情を丹念に検討しようとする人びとにとっては、どんな国家でもその将来に起こりそうなことを予見して、古代の人びとに用いられた打開策を適用するのはたやすいことである。また、ぴったりの先例がなくても、その事件に似たような先例から新手の方策を打ち出すこともできないことではない。

(182〜183頁)

このように述べるマキァヴェッリであるが、他ならぬ彼自身の人生においては、「ヴィルトゥ」と「フォルトゥーナ」はどのような役割を果たしたのであろうか。