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アリストテレス『政治学』覚書(5)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

アリストテレス政治学』(承前)

男性と女性、主人と奴隷における自然と必然

まず、互いに相手を必要とし、相手なしでは生きられない者同士が一対の組になるのは必然である。例えば、生殖のために男性と女性は組になる(これもやはり、人間に特有の意図的な行為ではなく、他の動物や植物の場合と同様、自分自身と似たような他の個体を残したいという欲求を持つことは自然的なのである)。また、自然的な性質に基づいて支配者になる者と被支配者になる者とが、互いを活かして生存するために組になる場合もそうである。つまり、知性によって先を見通せる者こそが自然的な支配者であり、主人になる性質の者である。他方、その見通された事柄を、身体によって仕事として行える者が被支配者、すなわち、自然的に奴隷になる性質の者である。それゆえ、同一の事柄が、主人のためにもなれば、奴隷のためにもなるわけである。

(Aristoteles1540: 2-3; 三浦訳(上)26〜27頁)

ここでアリストテレスは男性と女性の関係*1、また主人と奴隷の関係を、「自然」と「必然」の観点から考察している。「自然」と「必然」と対照をなすのが、「人間に特有の意図的な行為」である。この点で、人間は他の生命体である動物や植物と同様の自然性を持っている。

 アリストテレスにとって主人と奴隷という関係は、その者たちの得意分野に基づく役割分担だとも言える*2アリストテレスによれば、頭脳を使うのが得意な人間には指示者としての主人の役割が相応しく、また肉体を使うのが得意な人間には主人の適切な命令を受ける奴隷の役割が相応しい。したがって、アリストテレスがここでいう「自然」とは、生まれの階層に基づく世襲制による奴隷制度の再生産を正当化したものではなく、個々の個体ごとの特性に合わせた分業の結果と考えられる*3

(つづく)

文献

*1:ここで男性と女性とは生物学的な性差のことを指していると考えられる。一方で今日ではジェンダーまたはセクシャル・マイノリティの観点から、男性と女性という性別二元論は「バイナリー」と呼ばれ、これに対して「ノンバイナリー」と呼ばれる立場も存在する(ヤング2022)。

*2:もちろん奴隷制度や人身売買といったものは、現代では当然批判されるべき事態として捉えられている。現代のこうした観点から見ると、アリストテレスの言説は単純に誤りとして一掃されてしまう可能性がある。ここではあくまでアリストテレスの言説に内在した論理を追うことにする。

*3:ヘーゲル哲学には主奴弁証法と呼ばれる有名な命題があるが、ヘーゲルの命題は古典古代の主人と奴隷の歴史的な関係を踏まえて考察されることが望ましい。スーザン・バック=モース(Susan Buck-Morss)によれば、ヘーゲルが主人と奴隷の弁証法を記述した際に彼の念頭にあったのは、ハイチ革命というアフリカ人奴隷によって成し遂げられた革命であったという(バック=モース2017)。ヘーゲルによれば、主人は奴隷を支配するが、奴隷は主人を支える過程で具体的な力を身につける。その結果として、主人は奴隷を抜きにしては生きていくことができなくなる。ここまでくると、主人は形式的に奴隷を支配しているに過ぎず、実質的には奴隷に支配されている、と見なすことができる。こうした主人(支配者)と奴隷(被支配者)の関係の転倒を弁証法的運動として捉えたものが、主奴弁証法と呼ばれる命題である。マルクスヘーゲルの主奴弁証法という命題を『共産党宣言』(1848年)や『資本論』(1867年)の思想的背景として保持している。