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ヘーゲル『法の哲学』覚書:「対外主権性」篇(6)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ヘーゲル『法の哲学』(承前)

対外主権性(承前)

偶然性と必然性,自然態と人倫態,そして自由

——いま述べられた点に,戦争の人倫的契機が存している.戦争は絶対的悪とみなされてはならず,また権力者たちないし諸国民の情念,不正等々,いかなるものにであれ,一般にあってはならないものに,したがってそれ自身偶然的なその根拠をもつような,単なる外的偶然性とみなされてはならない.偶然的な性質をもつものには,偶然的なものが生じるのであって,この〔戦争の〕運命はそれゆえ必然性なのである.——まさしく一般に概念と哲学が単なる偶然性の視点を消滅させて,仮象としての偶然性のうちに偶然性の本質,必然性を認識するようにである.

(Hegel1820: 332,上妻ほか訳338頁)

ここで論じられているのは明らかに戦争の必然性であるが,だがどうしてヘーゲルは,戦争が必然的であると考えるのであろうか.

 「戦争は絶対的悪とみなされてはならず,また権力者たちないし諸国民の情念,不正等々,いかなるものにであれ,一般にあってはならないものに,したがってそれ自身偶然的なその根拠をもつような,単なる外的偶然性とみなされてはならない」と述べられている.通俗的な見解に従えば,たしかに戦争は「絶対的悪」とみなされるであろうし,戦争の根拠は「権力者たちないし諸国民の情念,不公正等々」に委ねられていると考えられるであろう.だがこれに対してヘーゲルは,戦争はこうした「偶然性」に依拠するのではないという.

 「まさしく一般に概念と哲学が単なる偶然性の視点を消滅させて,仮象としての偶然性のうちに偶然性の本質,必然性を認識するようにである」という,「仮象 Schein」から「本質 Wesen」への移行について詳しくは『論理の学(大論理学)』本質論を参照されたい.戦争の契機は偶然に見えるが,そのような偶然性は外観すなわち仮象に過ぎず,本質的には必然であるとヘーゲルはいう.

有限的なものである占有や生命が偶然的なものとして定立されることは必然的である.なぜならば,偶然的なものとは有限的なものの概念であるからである.この必然性は,一面において,自然の強制力〔暴力〕という形態を具えており,すべての有限的なものは死すべきものであり,過ぎ去りやすいものである.だがしかし,国家という人倫的存在においては,自然からこのような強制力〔暴力〕は奪われ,必然性は自由の作品,人倫的なものへと高められる.——先の過ぎ去りやすさは意欲された消滅となり,そしてその根柢にある否定性が人倫的存在の固有の実体的個体性となる.

(Hegel1820: 332,上妻ほか訳338頁,訳は改めた)

ここで注意しなければならないのは,ヘーゲルが「偶然的なもの」と「必然的なもの」を対立概念としては捉えていないということである.というのは,「有限的なものである占有や生命が偶然的なものとして定立されることは必然的である」という場合,そこには偶然的なものの必然性が示されているからである.

 ここでヘーゲルは,戦争の契機が必然的であることを示すために「自然の強制力〔暴力〕 Naturgewalt」という概念を導入する.「国家という人倫的存在においては,自然からこのような強制力〔暴力〕は奪われ,必然性は自由の作品,人倫的なものへと高められる」.ヘーゲル自身は,自然状態から市民状態へ移行するというようないわゆる「社会契約」論者ではないが,少なくとも〈自然の在り方としての必然性〉と〈人倫的な在り方としての必然性〉を明確に区別している.〈自然の在り方としての必然性〉には「強制力〔暴力〕 Gewalt」が伴い,人間は有限な生命を持つものとして食欲や生殖に突き動かされた存在である.これに対して,〈人倫的な在り方としての必然性〉には「自由」が伴い,その自由には人間の意志が介在している.有限者にとって生きることは常に将来の死に向かっている状態でもあるわけだが,共同体のなかで生きること=死に向かうことさえも,そこに人間の意志があるのならば自由なのである.このことをヘーゲルは「意欲された消滅」と呼んでいる.

(つづく)

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