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ヘーゲル『精神現象学』覚書(6)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ヘーゲル精神現象学』(承前)

序文(承前)

ヘーゲル哲学の「流動的な本性」

つぼみは花弁がひらくと消えてゆく.そこでひとは,つぼみは花弁によって否定されると語ることもできるだろう.おなじように,果実をつうじて花弁は,植物のいつわりの現存在であると宣言される.だから,植物の真のありかたとして,果実が花弁にかわってあらわれるのだ.植物のこれらの形式は,たんにたがいに区別されるばかりではない.それらはまた,相互に両立できないものとして,排除しあっている.しかしこれらの形式には流動的な本性があることで,それらは同時に有機的な統一の契機となって,その統一のなかでくだんの諸形式は,たがいに抗争しあうことがない.そればかりか,一方は他方とおなじように必然的なものとなる.そこで,このようにどの形式もひとしく必然的であることこそが,はじめて全体の生命をかたちづくるのである.

Hegel1807: ⅲ-ⅳ,訳:上12〜13頁)

前回「真なるものと偽なるものとの対立は固定されているとする思いなし」によっては変化を捉えられないことを見てきたが,ここでヘーゲルはそのような「思いなし」を植物の形態発展の例によって打ち崩している.

 「つぼみは花弁がひらくと消えてゆく.そこでひとは,つぼみは花弁によって否定されると語ることもできるだろう.おなじように,果実をつうじて花弁は,植物のいつわりの現存在であると宣言される.だから,植物の真のありかたとして,果実が花弁にかわってあらわれるのだ」.植物のこのような形態発展は,ヘーゲルのいわゆる弁証法の例としてよく持ち出されており,高校の倫理の教材でも用いられることがある.ただし,ここでヘーゲル自身は「弁証法」とは述べておらず,これがただちに「弁証法」の例と言って差し支えないかどうか留保が必要である.

 植物において,つぼみの状態と花弁がひらいた状態そして果実の状態とは「相互に両立できないものとして,排除しあっている」.こうしたあり方は,形式論理学においては「Aは同時にAでありかつ非Aではあり得ない」ということで矛盾律と呼ばれる.それはたしかに矛盾として映るかもしれないが,そこで見逃されているのは「流動的な本性」である.それぞれの形式を「有機的な統一の契機」として取り扱うことは,まさにヘーゲル哲学の特徴を示している.

(つづく)

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