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ヘーゲル『法の哲学』覚書:「家族」篇(5)

目次

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ヘーゲル『法の哲学』(承前)

第三部「人倫」第一章「家族」(承前)

婚姻の出発点

 第162節

 婚姻の主観的出発点としてしばしば現われうるのは,この関係に入る両人格の特殊な愛着,あるいは,両親などによるあらかじめの配慮と計らいであるが,しかし客観的出発点は,両人格の自由な同意,詳しくいえば,自分たちの自然的で個別的な人格性を前述の一体性において放棄して一人格を成そうとすることの同意である.この一体性は,自然的で個別的な人格性という点からすれば一つの自己制限であるが,しかし彼らはこの一体性において彼らの実体的自己意識を獲得するのであるから,まさにこのゆえにこの一体性は彼らの解放である.

(Hegel1820: 168,藤野・赤沢訳(II)40〜41頁)

ヘーゲルによれば,婚姻には主観的出発点と客観的出発点があるが,そのさい「主観的」と「客観的」を区別する要素は何であろうか.ここではむしろその「客観的」出発点から見た方がわかりやすいかもしれない.婚姻の客観的出発点は,例えば婚姻届を出したり,生計を同じくすべく住所を統一したりすることによって,それぞれ別々の家ないし家計の下で暮らしていた二人が家族として一緒になることへの同意である.こうしたお役所的な手続きは,まさしく「客観的な」ものである. これに対して婚姻の主観的出発点は,お役所的な手続きを経ずに行えることである.例えば,結婚前に二人でデートをして愛着を深めるとか,あるいは男女の出会いがなければ,両親の「配慮と計らい」によりお見合いが行われるかもしれない.こうしたことはお役所が関わること無しに,「主観的」にとり行われる.

婚姻における自己制限と解放

 ヘーゲルによれば,婚姻による統一には,「自己制限」と「解放」の二つの側面がある.婚姻による「自己制限」とは何か.両人格は,結婚前には「自然的で個別的な人格性」を持ち,すなわち恋愛によって自らのパートナーを恣意的に選択できる立場にあったが,それが可能であったのは,彼らが誰の妻でも夫でもなかったからである.こうした恋愛を可能にした「自然的で個別的な人格性」は,婚姻を通じて「自己制限」される.この「自己制限」ゆえに,浮気や不倫といった行為は社会的不正義に位置付けられることになる.したがって,婚姻による彼らの「解放 Befreyung」とは,浮気や不倫といった意味での「解放=自由化」を意味するのではない.「自然的で個別的な人格性」の放棄によって,パートナー以外の他者に対する排他性が成立し,家族としての権利を彼ら自身だけが持つことになる.家族の形成は「実体的自己意識」の核心をなすものであるから,もしそれが両親の反対により阻止されるとすれば,彼らにとっては自己実現の障害となり得る.こうした障害が取り除かれてこそ,彼らは本当の意味で「解放」されるのである.

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