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ヘーゲル『法の哲学』覚書:「家族」篇(4)

目次

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ヘーゲル『法の哲学』(承前)

第三部「人倫」第一章「家族」(承前)

婚姻における自然性と精神性

 第161節

 婚姻は,直接的な人倫的関係として,第一に自然的生命活動という契機を含んでおり,しかも実体的関係として,生命活動をその総体性において,すなわちの現実性と類の過程として含んでいる(『哲学的諸学のエンチュクロペディー』167節以下,および288節以下).しかし第二に,自己意識においては,自然的両性の,単に内面的な,あるいは即自的に存在するにすぎないがゆえにその現存在においては単に外面的でしかない統一が,精神的で,自己意識的な愛へと転化されるのである.

(Hegel1820: 168,上妻ほか訳(下)36〜37頁)

ここでヘーゲルは自然性と精神性の両側面から婚姻について述べている.

 第一に,婚姻の自然性については「類 Gattung」の観点から述べられている.ここで「類」とは,要するに,男性や女性という様々な性別をひっくるめた人類全体のことを指している.「類」の観点からみた「自然的生命性」において重要なことは,ただ単に食べて・寝て・活動するという日常的なライフサイクルではなく,子どもを産み・育て,次世代の生命をつなぐというライフステージである.

 第二に,婚姻の精神性については,叙述が少し込み入っている.「自然的性の一体性 Einheit der natürlichen Geschlechter」とは,パートナーである二つの主体の結びつきを意味しており,それぞれの主体がホモセクシュアリティヘテロセクシュアリティかそれ以外かという区分はここでは言及されていない.むろんこれらのセクシュアリティヘーゲルの預かり知らぬものであったと言われてしまえばそれまでなのだが,この箇所が「自然的性」(上妻精・佐藤康邦・山田忠彰訳および藤野渉・赤澤正敏訳)と訳されてしまうのはジェンダーバイアスがかかっていると言わざるを得ない.ドイツ語の複数形2格の"Geschlechter"には「諸々の性の」という意味だが,それを「両性の」と訳出する場合には,それはセクシュアリティには男か女かの二者択一しかないという性別二元論を思考枠組みとして前提としている.別にヘーゲルはここで"beide Geschlechter"とは書いていないのであるから,「両性の」という訳出は日本語訳者の側にあるジェンダーバイアスに他ならない.

 ヘーゲルが「自己意識においては」と述べていることから,ここで「諸々の性 Geschlechter」はセックス*1ではなくジェンダーの問題として捉えられるべきである.

 さて,「単に内面的なだけの nur innerliche」という場合には,「習俗規範態 Sittlichkeit」からすれば,婚姻関係を伴っていない二人の主体間のだけで成立している恋愛関係のことを指している.これを別の側面から見た場合の「即自的に存在するにすぎないがゆえにその実存においては単に外面的でしかない」というのは,二人の主体は,それぞれ別の家族に属する他人に過ぎないということである.婚姻関係がいわば対自的で「自己意識的な愛」であるとするならば,婚姻関係を伴っていない段階では二人の一体性は「即自存在」にとどまっているわけである.

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文献

*1:セックス,すなわちヘーゲルの解剖学的性差認識に関しては岡崎2021を参照のこと.岡崎によれば「イェナ期とベルリン期の自然哲学を比較することで,男女の性差や両性具有をめぐるヘーゲルの洞察のなかに,女性を発達の低次の段階に位置付けた上で男性をその発達型とする単線的な発達モデルから,同一の原基から女性あるは男性が形成されるという,いわば二極化モデルへの重点の移行が見られる」(岡崎2021: 89)という.