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読書前ノート(11)小松原織香『当事者は嘘をつく』

小松原織香『当事者は嘘をつく』(筑摩書房、2022年)

目次

はじめに

 本書は、「嘘をついてはいけない」というカント的な道徳法則を一旦括弧に入れて措き、「当事者は嘘をつく」という事象の叙述を試みる。だが結論から言えば、取扱いが非常に難しい本であり、それゆえに、重要な書籍でもある。

 なぜ取扱いが難しいのか。著者は自身を「性暴力被害者」あるいは「性暴力サバイバー」と規定している。だが同時に、著者は「ナラティブアプローチ」(202頁)によって物語る際に、著者自身が「」をついている可能性をも示唆している。自身の話をするときにどうして嘘が起こるのか。当事者が性被害の記憶を第三者へ語ろうとする場合、本人は身を悶える思いでフラッシュバックを起こす。そのような状態で自身の記憶を客観的な事実として他人に呈示することは、一体どれほどの困難を伴うのだろうか。私も本書を通じて著者の体験を追体験するかのように身悶えながら読み進めた。

〈性暴力〉とは何か

 だが、著者には大変申し訳ないが(そしてこんなことを書くことがいわゆる「二次加害」に該当するかもしれないと思いつつ、私自身も非常に理解に苦しみながらこの文章を書き綴っている)、『著者の経験は本当に〈性暴力〉と呼ばれるべきものなのだろうか』という疑念が、いまずっと私の頭の中にある。そもそも著者のいう〈性暴力〉とは一体何であろうか。

 そのため、私は研究では「性犯罪」ではなく「性暴力」という語を使っている。「性暴力」は法の規定に依らず、暴力を受けた被害者の苦しみや悲しみに焦点を当てる語である。今後も刑法改正の取組によって「性犯罪」が被害者のリアリティに沿うものに拡大されることを私は望んでいる。それでも、私は「性暴力」という用語を用いることで、司法の枠組みでの当事者の証言の真意とは切り離して、研究を進めている。

(小松原織香『当事者は嘘をつく』筑摩書房、2022年、18頁、強調引用者)

「性犯罪」と〈性暴力〉は、その言葉のイメージからすると非常に似ているように思われるが、しかし著者によれば、その概念枠組みは全く異なっている。

 著者のいう〈性暴力〉は、「苦しみや悲しみ」のような被害者の心理状態、すなわち「被害者のリアリティ」によって規定されている。したがって、この被害者に対する加害者の発言や外面的な振る舞いといったものは、被害者の心理状態に間接的に影響を及ぼすにせよ、〈性暴力〉の直接的な要因ではない。要するに、被害者自身の認識する思考枠組みに基づいて、加害者の発言や外面的な振る舞いが〈性暴力〉として主観的に規定されるのである。

 これに対して「性犯罪」は、刑事司法の枠組みにおいてその要件が客観的かつ明確に規定されている。

 性犯罪とは何かは、刑法の中で規定されている。一九〇七(明治四〇)年に制定された刑法では、性犯罪とは妻(女性)のみ被害が想定されており、夫の財産権の侵害とみなされていた。つまり、女性は男性の所有物であり、夫は妻の性行為を独占しているため、加害者はその財産を不当に使用したと考えられたのである。

 もちろん、このような法解釈は改められ、戦後は性犯罪とは女性に対する人権侵害であると法律家の間でも考えられるようになった。しかしながら、このような明治時代の女性差別の思想に基づいて制定された性犯罪の規定は、一一〇年も存続し、改正されたのは、二〇一七年になってからである。

 二〇一七年の改正では、強姦罪が強制性交等罪へと変更され、被害者・加害者の性別を問わない性犯罪の規定が行われた。このことにより、男性やトランスジェンダーの被害者や同性間の性暴力の被害へと光が当たり、性暴力は性別を問わないすべての被害者への人権侵害であることが明示されたのである。

 しかしながら、現行の刑法においても、性犯罪を立証するためには、明確な暴行または脅迫があったことの証拠が必要である。つまり、明らかな身体的暴力や第三者から見てもわかりやすい脅迫行為がなければ、被害者は性行為に合意したとみなされる。

(小松原織香『当事者は嘘をつく』筑摩書房、2022年、16〜17頁、強調引用者)

「性犯罪」が刑法の枠組みで規定されている以上、法改正によって「性犯罪」の対象範囲は変化する。そして〈性暴力〉は「性犯罪」と重なる部分を有するが、〈性暴力〉は「性犯罪」の対象範囲を超越している。

 そもそも〈性暴力〉が「被害者のリアリティ」に起因するのだから、その原因である被害者以外の一体誰が、その〈性暴力〉を〈赦す〉ことができよう。

「刑事司法の枠組み」から外れる〈性暴力〉

 私は二〇〇一年に大学に入学後、しばらくして性暴力の被害に遭った。十九歳になってすぐのことだ。五つ年上の男性からの被害だった。

 私は彼の部屋に行き、性行為に同意した。暴行も脅迫もなかった。ここはもっとも重要な点である。私は刑事司法の枠組みの中では、「性犯罪被害者」には該当しない。

 私の頭には、今も、そのとき起きたことの記憶が焼きついている。乾いた粘膜が擦り切れる痛み。ベッドのフレームに私の頭が何度も打ち付けられ、ガシャン、ガシャンという音をたてていたこと。「痛いよう、痛いよう」という(おそらく)私の声。押さえつけられて動かせない体。「この時間が早く終わってほしい」と天井の模様を見つめて、今起きていることから意識を逸らそうとする、自分の努力。

 細切れの記憶ではあるが、きっとここで起きたことは「良きこと」ではないだろう。だが、当時の私は、これは「同意の上の性行為」であると認識していたし、性暴力だとは思っていなかった。

(小松原織香『当事者は嘘をつく』筑摩書房、2022年、20〜21頁、強調引用者)

「私は彼の部屋に行き、性行為に同意した」という記述から、ここには「性的自己決定権」の観点からいわゆる性的同意(sexual consent)があったことを著者自身が認めているように思われる。加えて「暴行も脅迫もなかった」という記述から、それが強制わいせつ罪(刑法176条)および強制性交等罪(刑法177条)に含まれる「暴行または脅迫を用いて」*1という要件には該当しないこと、そしてまた身体的・心理的暴力がなかったことを著者自身が認めているようにも思われる。そのすぐ後で著者自身が「ここはもっとも重要な点である」と述べているのは、著者の体験した〈性暴力〉が(先に見た刑法176条および刑法177条における)「刑事司法の枠組み」では「性犯罪」としては認められていないからである。換言すれば、「私は刑事司法の枠組みの中では、「性犯罪被害者」には該当しない」と著者が述べるとき、このことは、「刑事司法の枠組み」において「性犯罪」の規定する範囲が狭く、その外部に存在する〈性暴力〉を正しく把握することができないという点を示唆している。

 先の引用(16頁)で見た通り、「強制性交等罪」が2017年に成立・施行されたが、著者の体験した〈性暴力〉は確かに——例えば、酩酊状態にさせて同意なしに性行為を強要(レイプ)するというような——明白な「性犯罪」とはいえないだろう。むしろそれは、その記憶が十分な性知識を伴わずに行なわれた一連の粗野な性行為と結びついているように思われる。何をもってその性行為を「粗野」と形容したかといえば、あまりにもオーガズムからほど遠いそのセックス描写にある。「乾いた粘膜が擦り切れる痛み」というのは、要するに膣内がまだ愛液で濡れていない状態でペニスを挿入してしまっていることが原因であり(この場合はあらかじめローションを用意しておくべきだ)、そういう状態で性行為を行うことは、膣内を傷つけてしまう恐れがあり危険である。

 ちなみに直前に「耳元でカッターの刃を出す音が聞こえただけで、抵抗できなかった」(17頁)——これは著者自身の体験したことではなく、あくまで例示されているに過ぎないのだが——という記述と組み合わせて読解すると、著者は確かに「性行為に同意した」と自認しているが、実はそれは本当の自由意志に基づくものではなく、恐怖によって自らの主体性を骨抜きにされた、いわば不可抗力の同意に過ぎず、主体性の仮象をもちながらも自己規律化された従属状態に置かれていたと著者自身は考えているのではないだろうか。そうでなければ冒頭の「私は十九歳のときにレイプされた」(1頁)という記述と整合性がつかない。著者の〈性暴力〉体験は、むしろPTSD症状の描写のうちに明確に表現されている。

 ところが、私の気持ちとは裏腹に、突然のフラッシュバックにより、むりやり性行為をさせられている場面が再生されて、痛みと恐怖の記憶に引きずり戻された。夜は悪夢にうなされてよく眠れず、自分の叫び声がうるさくて起きるのもしょっちゅうだった。

(小松原織香『当事者は嘘をつく』筑摩書房、2022年、32頁、強調引用者)

したがって、著者が「私は彼の部屋に行き、性行為に同意した。暴行も脅迫もなかった。」(20頁)と述べる際、「私の気持ち」に対して「嘘」をついていないだろうか。

「彼」の発言と振る舞いの矛盾

 行為のあとに、うずくまって痛みに耐えて「動けない」と訴えると、彼が「俺にはわかんねぇから」と冷たく言った。そのときに私は「彼は優しくない」と思ったが、暴力であるとは考えなかった。

 彼はベッドの上に私を放置して、立ち上がってテレビをつけてワイドショーを見始めた。ちょうど付属池田小事件が起きており、乱入してきた男性に児童が殺害されたことを報道していた。彼は「俺はこういうの、ゆるせないんだよな」とつぶやいた。不思議と私はそのときの彼の後ろ姿を鮮明に覚えている。

「それはおかしいんじゃないか」

 私は、彼の発言に対して直感的にそう思ったが、理由はわからなかった。そして、ティッシュで自分の太ももに流れる血をぬぐった。シーツを汚してはいけないと思ったからだ。

(小松原織香『当事者は嘘をつく』筑摩書房、2022年、21〜22頁、強調引用者)

著者は性交後のシーンで「そのときに私は「彼は優しくない」と思った」と述べている。もし「彼」が、著者の(おそらくは膣内から広がる)痛みにそっと寄り添ってくれてでもいたら、もしかすると著者が後にこれほど長きにわたって精神的な苦痛を味わうことはなかったかもしれない。「彼」は付属池田小事件に対して「ゆるせない」と述べているが、反面、目の前の著者の身体の痛みを無視して耳を傾けないのは、直感的に「おかしいんじゃないか」と著者は思った。著者はその「理由はわからなかった」と述べているが、要するに、「彼」に足りなかったのは著者(彼女)への愛撫であり、したがって正義感を表明する「彼」の発言とその実際の(著者=彼女の膣内を傷つけてしまう)振る舞いとは矛盾していて、首尾一貫性(整合性)に欠けていると判断されたのである。「彼」のことを酷い男だとはっきり言えれば良いのだが、「彼」自身が「俺にはわかんねぇから」と述べているように、「彼」は十分な性知識を持ち合わせていなかったのではないか。だが、著者は「彼」のことを『性知識を持ち合わせていない酷い男である』と明確に規定することを避けているように思われる。著者が「嘘」をついている自覚があるのは、「彼」の悪(すなわち性に関する知識不足)を正面から分節化できていないからではないか。そしてなぜ著者が「彼」を悪だとはっきりと述べることができないかといえば、著者自身もまた当時、十分な性知識を持ち合わせていなかったという点で、「彼」と同様だったからではないのか。

 著者は「彼」の発言とその振る舞いを首尾一貫して合理的に理解できず、それゆえ受け入れることができない。著者はこの事象を整合的に理解しようとして「彼」との対話を試みたり、「性暴力被害者」として自身の体験を規定するように努めてきた。だが、自身に起きたことを、その矛盾を受け入れることができないままに、整合的に語ることは難しい。語るには、矛盾を矛盾としてではなく、ある程度整合的に修正を施して言語化するよりほかにないからである。結果として、矛盾は「彼」だけでなく著者自身の語りの中にも「嘘」として存在することになる。そうした二重の矛盾を含んだまま叙述されているがゆえに、本書の取り扱いが難しい。

 「シーツを汚してはいけないと思った」というのは、自分の立場を犠牲して彼の立場を守ろうとしたことの比喩表現である。言説の中で自ら男を立てて女を犠牲にする、こうした無意識の振る舞いこそが今日ジェンダーと呼ばれているものそのものである。

ドーナツの「穴」のような「語り得(え)ない過去」

 私が本書の記述について訝しく思うのは、当の性行為が初体験——これは「自分の太ももに流れる血」という記述からかろうじて推察される程度である——としては描かれていない点と、本書にコンドームという語が一切登場しない点である。コンドームは避妊法として万全ではないが、HIV等の性感染症を防ぐためにやはりコンドームの着用は必要であろう。もしコンドームを着用していなかったら、性行為の後には被害者は妊娠してしまうのではないかという不安や恐怖に苛まれるのではないだろうか。著者は「彼」と性行為を行う際に、コンドームの着用を巡るコミュニケーションを行ったのだろうか。この点については一切触れられていないのだが、しかし少なくともその出来事を〈性暴力〉と規定する際にはコンドームの着用有無の記述は必要ではないのだろうか。それともコンドームの着用有無については、著者が精神的に抑圧した、忘却の彼方にある記憶の中に含まれていて記述できなかったのだろうか。実際、著者自身もまた本書で「私はいくら真実を書こうとしても、書けた気がしない」と述べ、また「「あのとき」の真実に、自分が辿り着ける気がしない」とも述べている。

「あれは、なんだったのか」その問いの答えを、自分の記憶の想起によっては示すことができない。そのうち、私は被害経験とは記述できない、「語り得ない過去」なのだと悟った。語り得ない過去とは、トラウマでつらくて思い出したり、語ったりできない沈黙している過去ではない。間違いなく私の記憶の中にはあるのに、外部に抽出して提示できない過去である。

 私にとって、性暴力の被害経験は、穴のあいたドーナツのような形をしている。真ん中の空洞が語りえない過去であり、その周りを無数の語り得る過去が取り囲んでいる。私は、自分の経験を語れば語るほど、ドーナツの穴のようにぽっかりと空いた、「語りえない過去」が浮かび上がる。その穴が気になってしょうがない。「いや、本当のことはまだ語れていない」「語るべきことをとり逃がした」という強迫観念にかられる。

(小松原織香『当事者は嘘をつく』筑摩書房、2022年、26〜27頁、強調引用者)

本当はドーナツの真ん中に空いた「穴」こそが、著者が体験した〈性暴力〉の核心部分である。しかしその「穴」は空虚で捉えることができない。それは「虚無が存在する」(ハイデガー)としか言いようがない存在である。ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の中で「語り得ないことについては沈黙せざるを得ない」と述べているが、著者の体験した〈性暴力〉の記憶とは、まさしくそのような「語り得(え)ない過去」として存在する。その記憶は著者自身の「外部に抽出して提示できない」のであるから、我々は本書の記述を通じて著者の体験した〈性暴力〉に辿り着くことは決してできないのである。

 してみれば、我々の形而上学的な試みは、常にこの「穴」の周辺のドーナツばかりを取り扱い、その核心には決して触れたことがないようにも思われる。否定神学のようにドーナツの否定によって浮かび上がる形は、やはりフォルムに過ぎず、核心となる内容そのものではない。

それはむしろカテゴリーミステイクではないのか

 著者は本書の終わりで次のように述べている。

 なにより、カミングアウトとは、自己をひとつのカテゴリーに当てはめる行為でもあります。私はたしかに性暴力被害者ではあります。他方、ひとりの人間の中身は複雑です。私の内面も異なるカテゴリーが錯綜して形作られています。しかしながら、一部の人たちは私のことを「性暴力被害者」というカテゴリーを通してしか認識できなくなるかもしれません。それは私にとって居心地の悪いことです。

(小松原織香『当事者は嘘をつく』筑摩書房、2022年、202頁、強調引用者)

著者は「性暴力被害者」という「ひとつのカテゴリー」だけで認識されることを嫌悪する。だが私は本書を一読しても、著者のことをそもそも「性暴力被害者」という「ひとつのカテゴリー」でさえ認識することができなかった。著者の自己規定はむしろカテゴリーミステイクではないかとさえ考えている。なぜなら、「性暴力被害者」というのはあくまで著者による自己規定に過ぎず、著者の体験した〈性暴力〉の描写は、レイプのような一般的な意味での「性暴力」、つまり無理強いされた性行為としては理解されないからである。著者の体験は、一般的な用語法からすればDVであろうと思われるし、著者自身も「私は、いま彼に関する一連の経験を性暴力またはDVの被害体験であると認識している」と述べているのであるから、「DVの被害体験」という点では私の認識と一致している。

 著者の体験した〈性暴力〉を理解するには、常識的な解釈の延長線上ではなく、おそらく別の補助線(すなわち異常な出来事への生物学的な反応の知識)が必要である。

 トラウマというのは「異常な出来事に対する正常な反応」という説明がなされることが多いせいか、なんとなく想像しやすく、わかりやすいと勘違いする人が多いようである。「大変なことにあうとこんなふうになるだろう」と、自分の日常感覚をひきのばして理解しようとする。しかし、戦慄をひきおこすほどの恐怖は、日常的なレベルの「怖い思い」とは違う。人は外傷的事件に巻き込まれ恐怖にさらされた場合、日常では考えられない、思いがけない反応をしてしまう。考えるより先に、身体が勝手に反応してしまうのである。手が震えてとまらないかもしれないし、足に力が入らなかったり、金縛りにあってしまって動けないかもしれない。そのつもりはないのに相手の命令に自動的に従ってしまうかもしれない。現実感がなくなり、自分におきていることと思えなくなるかもしれない。大脳皮質の機能は抑えられ、生存に関わる脳の部分が急激に活性化される。人間的な思考よりも、生物学的な危機反応が優先するのである。

宮地尚子『トラウマにふれる 心的外傷の身体論的転回』金剛出版、2020年、71頁)

著者は「私は被害経験についても、多くの情報を削ぎ落とし、限定して書いている。また、私は自分の被害経験を書くときには、できるかぎり性的欲望の喚起を避けたかったので、多くの身体や感情に関する描写をカットした」(25頁)と述べているが、数多く削ぎ落とされたその描写は、大脳皮質の機能が抑制されて、ほとんど脳幹だけで動いている危機的な状況を示しているのではないか。

感覚的確信としての〈性暴力〉

 本書を一読したとき、私の疑問は次の点にあった。すなわち、『著者の体験した〈性暴力〉は単純に「暴力」であって「"性"暴力」ではないのではないか』『なぜここで殊更「性」が強調されねばならないのだろうか』『もし「"性"暴力」であるということを強調する場合には、性(セクシュアリティ)に関する問題がよりいっそう明確にされる必要があるのではないか』。だが、こうした疑問を数多く受忍してきたのは、著者自身に他ならないだろう。そしてこうして寄せられる疑問が、著者が自分は「嘘」をついているのではないかと考える要因になっているように思われる。そうした事態をも丸ごと含めて描写されている、このなんとも表現し難い当事者性は、確かに存在する。——「我思う、故に我あり」(デカルト)——「性暴力被害者」あるいは「性暴力サバイバー」だと思う私は、確かに存在する(感覚的確信)。〈性暴力〉は、「刑事司法の枠組み」ではなく、デカルト的認識論の延長線上に存在する。著者のいう「被害者のリアリティ」はそこから出発する。

*1:宮地尚子はこの点に関して次のように述べている。「また、強制性交等罪、強制わいせつ罪に「暴行または脅迫を用いて」という条件は残ったままである。そのため、裁判事例では、被害者が同意していなかったことを認定しているにもかかわらず、明らかな暴行や脅迫が証明されないという理由で無罪となってしまうことが少なくない。目撃者のいないことの多い性犯罪で、暴行・脅迫があったことの立証を被害者側がしなければいけないのは理不尽である。「暴行・脅迫」要件については、早急に判断基準の緩和や要件の撤廃がされていくべきであろう」(宮地尚子『トラウマにふれる 心的外傷の身体論的転回』金剛出版、2020年、87頁)。