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ヴィーコ『新しい学』覚書(14)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

「質料」と「形式」

そしてそこに諸国民すべての歴史時間の中を経過するさいの根底に存在している永遠の理念的な歴史の素描を発見することによって,それを知識の形式にまで連れ戻す.

(Vico1744: 6,上村訳(上)25頁)

ここで「知識」と訳されている原語はScienzaであり,これは本書のタイトル『新しい学の諸原理』における「学」のことである.

 なお「形式 forma」は,アリストテレス的な用法で、「質料」と関わりを持つ.『新しい学』第1巻「原理の確立」第2部「要素について」の冒頭では次のように述べられている.

したがって,これまで年表の上に配列してきた質料〔materie〕に形式〔forma〕をあたえるために,わたしたちはいまここに,つぎのような哲学上ならびに文献学上公理と,若干の合理的で適当とおもわれる要請とを,いくつかの明確になった定義とともに提示しておく.これらは,あたかも生物の体内を血液がめぐるように,この学の内部を流れめぐり,この学諸国民の共通の自然本性について推理することがらの全体にわたって,この学に生命をあたえてくれるはずのものなのである.

(Vico1744: 72,上村訳(上)158頁)

ここで「形式 forma」と「質料 materie」が強調されているように,これらは形而上学の用語として使用されていることがわかる.『新しい学』第1巻第2部以降で「学の形式」を与えられるところの「質料」については,第1巻第1部「年表への注記——ここにおいて質料〔素材〕の配列がなされる——」で叙述されるという構造になっている.

 ここでヴィーコは「公理」のことを"Assiomi, o Degnità"というように言い換えているが,Verneによれば,この箇所は『新しい学』でassiomaをdegnitaと等置した唯一の箇所だそうである*1.Verneは,ユークリッドの『原論』,ニュートンの『プリンキピア』,そしてアリストテレスの『分析論後書』に言及した後,次のように述べている.

ヴィーコは,彼の諸公理〔axioms〕を哲学的かつ文献学的なものの両方として描いているが,しかし彼が「『新しい学』は幾何学的な思考法に基づいている」と主張しているにもかかわらず,彼の諸公理は決して自明なものでもなければ演繹されたものでもないのである.彼の諸公理はその諸原理〔plinciples〕として最も必要かつ適合するものと考えられ,そして諸国民の共通の自然本性を把握するのに最も偉大な価値を有している.彼の諸公理は,『新しい学』の諸々の特殊性を配列する諸原理を引き出すことができる「トピカ」(τόποιトポイ)すなわち定石コモンプレイスという地位を有している.

(Venere2015: 255)

幾何学」と〈製作者〉の思想

 たしかに「公理」や「定義」といった用語を見ると,ユークリッド幾何学のような原理原則が想起されよう.実際,ヴィーコは『新しい学』第1巻第4部「方法について」で「永遠の理念的な歴史」とともに「幾何学」について次のように言及している.

それゆえ,この学は同時に,諸国民すべての歴史がかれらの勃興,前進,停止,衰退,終焉にわたって時間の中を経過していくさいの根底に存在しているひとつの永遠の理念的な歴史を描きだすことになる.それどころか,わたしたちはさらに一歩を進めて断言したいのだが,この学を省察する者がこの永遠の理念的な歴史を自分自身に語るのは,この諸国民の世界はたしかに人間たちによって作られてきたのであり(これはここでさきに立てられた疑いえない第一原理である.それゆえ,それの〔生成の〕様式はわたしたちの人間の知性自体の諸様態の内部に見いだされるべきであるので,その〈なければならなかったのであり,ならないのであり,ならないであろう〉という証明のなかで,彼自身がそれを自分の前に作りだしてみせるかぎりにおいてなのだ.なぜなら,事物を作る者自身がそれらについて語るとき,そのときほど話が確実なことはありえないからである.こうして,幾何学がそれの諸要素にもとづいて大きさの世界を構成したり観照したりするとき,それはその世界をみずから自分の前に作りだしているわけであるが,この学もまさしく幾何学と同様の行き方をすることになる.ただし,人間たちの事蹟にかんするもろもろの秩序には点,線,面,図形以上に実在性があるだけに,そこには,それだけいっそう多くの実在性がともなっている.そして,このこと自体が,そのような証明は一種神的なものであって,読者よ,あなたに神的な喜悦をもたらすにちがいないということの論拠になる.それというのも,神においては認識することと製作することとは同一のことがらであるからである.

(Vico1744: 124-125,上村訳(上)269〜270頁)

ヴィーコが「永遠の理念的な歴史」を我々人間が語りうると考えるのは,それを作ってきたのが我々人間だからである.ここで人間はその歴史に関しては造物主たる神と同じ地位へと引き上げられている.ヴィーコは製作者の技法を「幾何学*2になぞらえているが,〈製作者〉だけが真の意味で(いわば「神的に」)認識しているというのはヴィーコの思想としてよく知られているものであり,これを仮に〈製作者〉の思想とでも呼んでおこう.ヴィーコのこのような〈製作者〉の思想は,マルクスやサイードといった偉大な思想家に大きな影響を与えた.〈製作者〉の思想とは,それを造りし者だけがそれを最もよく理解している,というものである.ただし,ヴィーコ幾何学と人間に関する事柄との違いについても述べており,その違いは「実在性(リアリティ)」の多様性にあると述べている.

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文献

*1:"Vico uses assioma only once in the New Science, and he equates it with degnità."(Venere2015: 254).

*2:ヴィーコは『自伝』の中で幾何学学習の効用について語っている.この点について詳しくは拙稿「ヴィーコのクリティカとトピカ」を参照されたい.