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ヴィーコのクリティカとトピカ

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sakiya1989.hatenablog.com

 前回はヴィーコの「新しい批判術」を見た.そこで今回は,ヴィーコ『自伝』(Vita di Giambattista Vico, 1728)において,クリティカとトピカがどのように論じられているのかを見ていきたいと思う.

幾何学学習の効用——記憶力・想像力・構想力

 ヴィーコが『自伝』の中でクリティカとトピカに言及するのは,古代人の幼少年時代における学習法について述べている文脈においてである.その箇所でヴィーコは,少年は「幾何学」の勉強から始めるのが望ましい,と述べている.というのも,少年は「事物の類概念」のような普遍的で抽象的なものごとを把握すること(形而上学)がまだ苦手であり,これに対して幾何学のように「個別的なものごと」を扱う学問については順序立てて理解することができるからである,とヴィーコは述べている.

このような次第で,正当にも古代人は幾何学の勉強を児童が専念するのにふさわしい勉強と評価し,幾何学をこの幼い年齢に適した論理学であると判断したのだった.じっさいにも,幼少年時代には個別的なものごとは十分に習得でき,それらを順次ひとつひとつ配列していくことができる半面,それだけになおのこと,事物の類概念を把握するのには多大の困難がともなう.そして,アリストテレス自身,幾何学で用いられている方法から三段論法を抽出したにもかかわらず,子どもたちには言語と歴史と幾何を記憶力想像力構想力を訓練するのに最適の素材として教えられるべきであると主張している箇所では,このことに同意しているのである.

(Vico1728: 168,上村忠男訳,強調引用者)

ヴィーコ自身の学習がどうだったかといえば,キケロアリストテレスプラトンの著作をよく読んでいたそうである.その際にアリストテレスプラトンの著作に数学的証明が用いられていることから,ユークリッド幾何学の勉強を始めたという.しかし「あたら労力を費やしたすえ,すでに形而上学によって普遍的なものを身につけるようになってしまっている知性の持ち主たちにはものごとの個別的な細部にこだわる才能の持ち主たちに本来的なものであるこの種の学問〔幾何学〕はかえって御しがたいことを思い知らされ,研究を続けるのを止めてしまった.その研究は,形而上学の研鑽を積むなかで類概念の無限空間を飛翔するのに慣れてしまった彼〔ヴィーコ〕の知性に手枷・足枷をはめて自由を束縛していたからである」(ヴィーコ『自伝』)と述べているところを見ると,ヴィーコ自身は形而上学から始めてそこから幾何学へと学習を移転していった為に幾何学を学ぶことを断念することになったと考えているようである.ヴィーコは自身の経験から幾何学から形而上学の順に学ぶ方が良いと考え,己を反面教師として示そうとしたわけである.

このことから,今日一部の人々によって,教学方法における二つのはなはだしく有害なやり方が,どれほどの損傷をともなって,どのような青年育成法にしたがっておこなわれているかが容易に理解できる.第一は,文法学校を出たばかりの児童にいわゆる『アルノーの論理学』にもとづいた哲学が開始されていることである.この論理学は,高等な学問の深遠な,そして通俗的な常識からはまったくかけ離れた素材についての,このうえなく厳格な判断に満ち満ちている.こんな論理学をむりやり押しつけられると,子どもたちのなかで若々しい知性の素質がねじ曲げられてしまうこととならざるをえない.それらの素質は,本来ならそれぞれに見合った適切な術によって,すなわち,記憶力は言葉を学習することによって,想像力は詩人や歴史家や雄弁家の作品を読むことによって,構想力は図形幾何学を勉強することによって規制され促進されるべきものなのだ.なかでも図形幾何学は見方によっては一種の絵画のようなものであって,それを構成している要素が多数存在することによって記憶力を強化し,それが繊細な図形からなっており,またかくも多くの図面が緻密きわまる線で描かれていることによって,想像力を洗練させる.さらには,それらの線すべてに目を通し,それらのなかから,求められている大きさを証明するために必要な線を掻き集めなければならないことによって,構想力を敏活にする.そして,これらいっさいは,円熟した判断力が身につくようになったときに,鋭く,生き生きとした,雄弁な叡智を実らせるための能力にほかならない.

(Vico1728: 168-169,上村忠男訳,強調引用者)

『アルノーの論理学』(logica di Arnaldo)というのは,むろんアントワーヌ・アルノー(Antoine Arnauld, 1612-1694)とピエール・ニコル(Pierre Nicole, 1625-1695)の共著『論理学,あるいは思考の技法』(La logique, ou l'art de penser, 1662)を指している.これは通称『ポールロワイヤル論理学』(Logique de Port-Royal)と呼ばれて知られている.ヴィーコはこの論理学を「厳格な判断に満ち満ちている」と評価する.

 ここでヴィーコは図形幾何学の効果について述べている.図形幾何学は構想力を養うだけでなく,記憶力を強化し,想像力を洗練させる.これらはクリティカの行使に役立つものであり,論理学によって判断力だけを伸ばせば良いという当時の潮流にヴィーコは反対の意見を示している.

クリティカ優先の弊害

ところが,そのような論理学のたぐいによって少年たちが時期尚早にクリティカ〔判断の術〕に連れこまれてしまうと,それはとりもなおさず,まずは習得し,ついで判断し,最後に推理するという,観念の自然な流れに反して,十分に習得する前に正しく判断するようにと督促されているに等しく,このような〔のっけからクリティカを教える〕やり方からは,無味乾燥な自己表現しかできず,自分ではなにひとつ作りだしてはいないくせに万事に判断をくだそうとする青少年層が輩出することとなる.

(Vico1728: 169-170,上村忠男訳)

ヴィーコは,「観念 idee 」には自然な流れがあると考える.それは「〔1〕まずは習得し,〔2〕ついで判断し,〔3〕最後に推理する」という流れであるが,ポール=ロワイヤル論理学の教育を優先させる潮流は,この「観念の自然な流れに反して」二番目の判断力の養成から始めているので,教育の順序として不適切だとヴィーコはいうのである.

トピカからクリティカへ

 クリティカ優先の教育に欠けているものはトピカの養成である.トピカとは「問題となるそれぞれのことがらにおいてそのことがらのうちに存在しているものをすべてくまなく発見する術」だとヴィーコはいう.

これにたいして,彼らが構想力の活発な少年時代にトピカ──これは発見の術であって,構想力に富む者たちだけの特権である──に(ヴィーコキケロに教えられて少年時代に専念したように)専念すれば,論題を過不足なく準備することが可能となり,ついでこれについて正しい判断をくだすことができるようになるだろう.というのも,問題となることがらのすべてをまずもって知っていなければ,正しい判断をくだすことはできない.そしてトピカこそは問題となるそれぞれのことがらにおいてそのことがらのうちに存在しているものをすべてくまなく発見する術にほかならないからである.こうして青年たちはことがらの自然本性そのものに従いつつ哲学者にして雄弁家として自らを形成することとなるだろう.

(Vico1728: 170,上村忠男訳,強調引用者)

トピカとは論拠の在り処を見いだす術であり,これは記憶力,想像力,そして構想力を養うことによって可能となる.先にヴィーコが「記憶力は言葉を学習することによって,想像力は詩人や歴史家や雄弁家の作品を読むことによって,構想力は図形幾何学を勉強することによって規制され促進されるべき」だと述べていたのは,これらの能力がトピカに関わるものだからである.その上でクリティカははじめて発揮されるものなのである.

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