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はじめに
しばらく哲学から遠ざかってたような気がする。ここ三ヶ月ほど、仕事の傍らどうも哲学書に手を伸ばすことができなかった。哲学研究は余暇がないと厳しい。時間的にも、精神的にも。今月に入ってようやく仕事の成果が出てきたので、私の本来の仕事である哲学研究に戻ることにする。
今回、ひさびさに手をとってみようと思った哲学書がカント『純粋理性批判』だ。なぜか。櫻井芳雄『まちがえる脳』(岩波書店、2023年)を読んでいたら、冒頭に錯視の話が出てきた。人間は見たままに理解することができず、補正してしまうのだそうである。この話を読んだ時、私の中でどうもカントが頭を擡げてきたのである。カントならこのことを何というのだろう。「仮象 Shein」なるものに対するスタンスが問われているような気がする。
カント『純粋理性批判』
初版と第二版
カント『純粋理性批判』(Kant, Critik der renen Vernunft)には二つのバージョンがある。初版(1781年、いわゆるA版)と第二版(1787年、いわゆるB版)である。
(カント『純粋理性批判』初版、1781年)
この標題紙を見て分かる通り、原著タイトルは„Kritik der reinen Vernunft“ではなく、„Critik der reinen Vernunft“である。半世紀後のマルクス(Karl Marx, 1818-1883)がやたら„Kritik“という言葉を用いているので、クリティークといえば„Kritik“かと思いきや、カントの時代はまだ„Critik“だったのであろうか。ドイツ語の„Critik“はいつ、どのようにして„Kritik“へと変化したのだろうか。
クリティカの伝統
ところで„Critik“と„Kritik“というスペルの違いは、些細な、取るに足らない事柄であろうか。私はそうは思わない。むしろ„Kritik“よりも„Critik“のスペルの方が、クリティカ Critica の伝統を想起させるのに相応しいように思われる。
クリティカ critica とは所謂「判断術 ars indicandi」(真偽を判断する術)に当たるもので、今日いう批判や批評といった含みはさしあたりない。キケロ以来、それにさきだつ「発見術 ars inveniendi」(真なるものを発見する術)としてのトピカ topica としばしば対にして使われてきたものである。
(木前利秋『メタ構想力』未來社、2008年、18〜19頁)
カントの「批判 Critik」もまた、クリティカの伝統を受け継いでいるのではないか。だとするならば、カントの「批判 Critik」の独自性は、クリティカの思想史の中に適切に位置付けられて然るべきであろう。