まだ先行研究で消耗してるの?

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ヘーゲル『精神現象学』立法理性のコンテクストとカント批判

目次

はじめに

 今回は「ヘーゲル精神現象学』立法理性のコンテクストとカント批判」というテーマで書く。その概要は以下の通りである。

 我々は(1)まず最初にヘーゲル精神現象学』の理性章が先行研究においてカント批判を遂行されたものとして読まれてきたことを確認する。その上で、(2)カント批判としてくだんの命題を吟味したパラグラフを読み進めるために、コンスタンとカントの虚言論争というコンテクストを導入する。しかし、コンテクストの導入によって明らかとなるのは、虚言論争における論題(「嘘の禁止は社会を(不)可能にするか」)とは異なる命題(「各人は真実を語るべきである」)が『精神現象学』においては検討されているという事態である。そこで我々としては、むしろかの虚言論争から命題を変更すること、このことがヘーゲル戦略であり、この変更によってこそ、ヘーゲル間接的にカント批判を遂行したのではないか、と考える。

⒈ 先行研究におけるカント批判という読解

 今回取り上げるテクストは、ヘーゲルの『精神現象学』(C)(AA)「理性」V.「理性の核心と真理」C.「自身にとって、それ自体として、それ自身だけで実在的である個体性」b.「法則を定立する理性」の「だれもが真実を語るべきである」という命題が吟味されている以下の箇所である。

各人は真実を語るべきである。』──この無条件的に言明されている義務においては、ただちに「各人が真実を知っているならば」という条件が附加されることになる。命令はかくして、いまやつぎのようなものとなる。「各人は、真実についてはその都度各人の知識と確信とにしたがって真実を口にすべきである」。

ヘーゲル2018:648〜649、訳文は適宜改めた。) 

(Hegel 1807:360-361)

ここで『精神現象学』の理性章、とりわけ「立法理性」と「査法理性」の箇所が、これまで概ねカント批判として読まれてきたことを確認しておこう。それはたとえば、「ヘーゲルの『精神現像学』に於ける「立法理性」論および「査法理性」論は、カント倫理学の中核を成す思想に対する全般的な批判として、目論まれている」(二宮 1992:14)という読解に見られ、また「「実在性の全体」概念の継承を通じて、ヘーゲルはカントを批判しているとさえいえるのではないだろうか。なぜなら、『精神現象学』の場合、「あらゆる実在性の確信」としての理性の真理は、カントが論じなかった精神にあるとされるからである」(飯泉 2015:150)という近年の読解にも見られる通りである。

⒉ コンスタンとカントの虚言論争というコンテクスト

 さて、ヘーゲルが取り上げるこの命題の背景にあると思われるのは、「嘘の禁止」をめぐるバンジャマン・コンスタンとカントとの論争である*1。この論争では、「嘘の禁止は社会を不可能にする、というコンスタンの批判に対して、カントは嘘の禁止が他人に対する義務一般の本質を含むこと、すなわち社会契約の基礎であることを指摘し、嘘の禁止こそがむしろ社会を可能にすることを主張している」(小谷 2018:81〜82)。なお「この論争は「論争」といわれながらも、実際の応酬としてはただ一度のコンスタンによるカント批判と、それに対するカントのやはり一度きりの反論とで終わっている」(堤林 2002:5)。

 もしヘーゲルが、このようなコンスタンとカントの虚言論争という背景を考慮に入れつつ、「各人は真実を語るべきである」という命題の検討をつうじて、カント批判を遂行したのだとすれば、ただちに次のような疑問が湧いてくる。それはすなわち、なぜヘーゲルは、「嘘の禁止は社会を(不)可能にするか」という論題から「各人は真実を語るべきである」という命題へと変更し、後者についてのみ検討を加えたのかという疑問である。というのも、ヘーゲルが「嘘をついてはいけない」という命題から「真実を語るべきである」という命題へと変更することによって、『精神現象学』では「嘘の禁止は社会を(不)可能にするか」という(コンスタンとカントの間での)論点が抜け落ちてしまっているからである。さらに加えて、「嘘をついてはいけない」ことと「真実を語るべきである」こととは、似て非なることがらである。それゆえヘーゲルのここでのカント批判は──この箇所がそもそもカント批判であるならばの話だが──直接的なものではなく、(「嘘禁止は社会を(不)可能にするか」という論題の欠如と、そこから「各人は真実を語るべきである」という命題への変更という二重の意味において)間接的なものとなってしまっているからだ。

 そこで我々が思いつくのは次のような事態である。それはすなわち、「嘘をついてはいけない」という命題から「真実を語るべきである」という命題へと変更することこそが、カント批判を遂行するためのヘーゲルなりの戦略だったのではないか、ということである。というのも、ヘーゲルはこのパラグラフにおいて「真実を語るべきである」という命題を「健全な理性」に検討させることによって、前提条件を必要とし、かつこの命題がより精確には「真実を語らない」ことになってしまうという帰結に至らしめることによって、くだんの命題が(前提条件を必要とせずに妥当するはずの)定言命法としては不成立であることを示しているのだが、出発点となる命題がすでに成立しないのであれば、その帰結として「社会を可能にするか否か」という論題を検討することはもはやできなくなってしまうからである。この点について詳しくは次回以降に論じたい。

文献

*1:コンスタン『政治的反動について』(Des réactions politiques, 1796)およびカント『人間愛から嘘をつくという、誤って権利だと思われてるものについて』(Über ein vermeintes Recht aus Menschenliebe zu lügen, 1797. 通称『嘘論文』)。