まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

読書前ノート(29)稲岡大志/森功次/長門裕介/朱喜哲『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』

目次

稲岡大志/森功次/長門裕介/朱喜哲『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』(総合法令出版、2022年)

すごくない哲学

 本書は『すごい哲学』というタイトルを標榜するわりに、どこが「すごい」のか全くわからない。というのも、「哲学」とはもっと「すごい」のではないのか、と首を傾げざるを得ないからである。本書は51例を収めているが、どのトピックにも『なぜ人はこれ(本書)を「すごい」と思うのか』という点には触れられていない。「すごい哲学」を標榜するのなら、なぜ、いかにして本書が「すごい」のかを序文で触れるのが「哲学」書ではないのだろうか。こういう編著を出版するにあたっては、テーマに拘わらず、著者には最初から「何文字程度」という制約がつきものである。筆者自身のこれまでの執筆経験を振り返っても、限られた文字数でわかりやすく文章を構成するとなると、いくら著者が頑張ったとしても深い議論を展開できないのは目に見えている。その結果、本書は「チラシの裏(死語)ブログにでも書き散らせばいいのに」と思われるような原稿しか揃っていないように見える。

本書の表層的な問題点:「すごい哲学」を標榜するのにどうして「すごい」のかを説明していない。

考えられうる改善策:本書のいう「哲学」が「すごい」と考えられる理由を呈示する。

具体的な改善策:多くの人(n)に本書を一読してもらい、取り上げられている51例のトピックに対して「すごい」と思ったか/思わなかったかのアンケートを取る。その際に、アンケートの対象者に偏りが出ないように配慮する(例えば、著者の出身大学周辺の院生を主な対象とはしない、等)。

 アンケートの結果、〈読者のうち仮に80〜90%以上が「すごい」と回答した〉というような数値的根拠が示されていれば「ベター」と考えられる(だが「ベスト」ではない!)。ただし、この場合の問題点は、それはマジョリティが「すごい」と思う「哲学」に他ならない、ということである。マイノリティの視点が捨象された「哲学」を「すごい」と呼ぶことに対しては、「だから何?」という問いが発せられなければならない。

本書の本質的な問題点:「すごい哲学」を標榜するのに、いかなる意味で「すごい」のかを説明していない。

考察:本書で提示されている「哲学」それ自体が「すごい」という意味なのか、だとすれば、「すごい」の内容を説明するのが本来の「哲学」ではないのか。あるいは、それは既存の学問(政治学・経済学・自然学、等)や哲学史(つまりソクラテスプラトンアリストテレスの古典古代からデカルトの初期近代、そしてカントやヘーゲルといったドイツ古典哲学を経てフーコーデリダといったポストモダンに至るまでの)に対して本書の位置付けが「すごい」という意味なのか、だとすれば、既存の学問体系よりも本書の提示する「哲学」(分析哲学)のほうが「すごい」ということを示唆しているように思われるが、はたしてそうだろうか。あるいは、「すごい哲学」というのは、本書を売るための単なるキャッチコピーに過ぎないのだろうか(総合法令出版から「すごい心理学」シリーズが出版されている)。だが「哲学」を標榜するからには、本書をより多くの人々に手に取ってもらうために「すごい哲学」というタイトルを用意したことが「哲学」にとって相応しいのどうかが問われねばなるまい。いずれにせよ、そういう問いがないことが問題である。

Twitterで「どこが「すごい」のか分からない」とつぶやいたら、ネオ高等遊民@MNeeton)さんより「流行りのビジネス書っぽいデザインとコンセプトは好きです!」とコメントをいただいた。たしかにデザインとコンセプトは悪くない。そして本書には良いところもある。それは「日常生活の出来事に即して哲学すること」を示した点である。だが、「日常生活の出来事に即して哲学すること」が有する意義は、「すごい哲学」ではなく、むしろ「すごくない哲学」、等身大の哲学なのではなかろうか。「すごくない哲学」の方が内容に即した、それでいて売れるタイトルではないだろうか。

タウマゼインとエウレカ——「すごい哲学」とは何か

 本書で言及されていない「すごい哲学」について考えてみる。

なぜなら、実にその驚異(タウマゼイン)の情(こころ)こそ知恵を愛し求める者の情なのだからね。つまり、求知(哲学)の始まりはこれよりほかにはないのだ。

プラトン『テアイテトス』155d 田中美知太郎訳)

「驚き(タウマゼイン θαυμάζειν、thaumazein)」こそ哲学の始まりである、とは古くから言い伝えられていることである。「すごい」とは、我々が驚いたときに言うセリフである。したがって、「すごい」と驚くことは哲学の始まりである。哲学の始まりは驚きだが、「すごい哲学」は、もしそれがありうるとすれば、読者に哲学の始まり(きっかけ)を与えるものであろう。換言すれば、「すごい哲学」それ自体が哲学の始まりとなりうるようなものである。

 アルキメデスは風呂に入ったときに「そうか解ったぞ!(エウレカ! εὕρηκα!、Eureka!)」と叫んだという。アルキメデスが「エウレカ!」と叫んだ時のこの発見の感情は、先に見た「驚き」に何か近しいものを見て取ることができるが、しかしはたして「すごい哲学」に関わる要素を含んでいるだろうか。

 結論から言うと、筆者は「タウマゼインとエウレカは似て非なる概念ではないか」と考えている。タウマゼインが、未知の領域に足を踏み入れる際に生じる感情を伴う「哲学の始まり」なのだとすれば、それはまだゴール(結論)に至っていない段階での「すごい」という驚きである。これに対して、アルキメデスの「エウレカ!」は、その瞬間に了解してしまったときの高揚感を示すものであり、問いはすでに解けてしまっているから「哲学の始まり」ではなく、科学上の一旦の結論(ゴール)に至っている。

 「すごい心理学」が示す例というのは、いわば「タウマゼイン」ではなく「エウレカ」である。だが「すごい哲学」がもたらす〈すごさ〉は、「エウレカ」ではなく「タウマゼイン」であるべきではないか。本書は「タウマゼイン」の次元で哲学を展開していると言えるだろうか。