目次
著作の観念(承前)
哲学者たちと形而上学の位置付けの違い
次のヴィーコの文章も長くて解りにくいのですが、読んでみましょう。
![]()
この摂理の顔を介して、形而上学は、これまで哲学者たちが神を観照するさいに媒介にしてきた自然界のことどもの秩序を越えて、恍惚とした面持ちで神を観照している。これは、形而上学は、この著作においては、これまでよりもさらに上方へと高まりあがって、神のうちに〔本来の〕形而上学の世界である人間の知性たちの世界を観照し、神の摂理の存在を国家制度的世界または諸国民の世界である人間の精神たちの世界において論証しようとするからである。
(Vico1744: 1-2, 訳: 上17〜18頁)
この絵には「哲学者たち」が描かれていません。これはつまり、「哲学者たち」のあり方と、「形而上学」のあり方を混同しないよう、注意が必要だということです。ここでは「哲学者たち」の代わりに「形而上学」が擬人化されています。
(『新しい学』1744年版の口絵)
「哲学者たち」は「自然界のことどもの秩序」を媒介として、神を観照してきました。これは、自然科学を考察の対象としていたかつての「哲学者」、まだ現代のように専門領野に限定されていなかったかつての「哲学者」の像に合致します。
一方で、「形而上学」は、そのような哲学者のあり方を乗り越えた仕方で、神を観照するのです。形而上学は「摂理の顔をした神」をいわば直接的に観照しているので、「恍惚とした面持ち」になっています。
哲学者に対する形而上学の優位性は、神の摂理と人間世界とを交互に行き来できる点にあります。「形而上学は……神のうちに〔本来の〕形而上学の世界である人間の知性たちの世界を観照し、神の摂理の存在を国家制度的世界または諸国民の世界である人間の精神たちの世界において論証しようとする」。いわば神に内在する人間世界と人間世界に内在する神の両方の側面の見識を持てるのが、形而上学の位置付けなのです。
他方で、これまで哲学者たちは自然界に内在する神の側面しか捉えようとしてこなかったと言えます。それゆえに、ヴィーコは形而上学と比較した場合にみられる哲学者たちの不十分さを次のように指摘するのです。
![]()
だからこそ、地球儀、すなわち、形而下または自然の世界は、ただ一部分においてのみ、祭壇に支えられているのである。なぜなら、哲学者たちはこれまでずっと神の摂理を自然界の秩序のみをつうじて観照してきたので、ただたんにそれの一部分をしか論証してこなかったのであった。
(Vico1744: 2, 訳: 上18頁)
この絵では哲学者たち自身は描かれていないものの、地球儀が一部分だけ乗っかっている祭壇は、哲学者たちがこれまで論証してきたもの、すなわち「新しい学」に対する旧い既存の科学の蓄積を表現していると言えるかもしれません。