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ヴィーコ『新しい学』覚書(11)

目次

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(承前)著作の観念

口絵の光線と『新しい学』の叙述の順序

 次のパラグラフに移ります。口絵の左下の男性は「ホメロスの像」だとヴィーコは述べています。 

同じ神の摂理の光線が形而上学の胸のところで反射して、拡散しながら、わたしたちのもとに届いている異教世界最初の著作家であるホメロスの像にまで達しているのは、その光線が、形而上学——それは、そのような〔異教世界を創建することになった最初の〕人間たちがそもそも人間的に思考することを最初に開始したとき以来、人間的な諸観念の歴史 Storia dell'Idee umane にもとづいて形成されてきたのであるが、その形而上学の力によって、わたしたちのもとで、ついに、全身がこのうえなく強靭な感覚とこのうえなく広大な想像力のかたまりであった異教世界の最初の創建者たちの愚鈍な知性にまで降りていくにいたったからである。そして、かれらは人間の知性および分別力を用いうる、唯一の、しかもまったく愚かで呆けた能力しかもっていなかったという、この同じ理由からして、これまで考えられてきたのとは異なるばかりか、まったく正反対に、詩の諸原理〔起源〕は、疑いもなく異教徒たちにとっての世界で最初の知恵であった詩的知恵、または神学詩人たちの知識の、これまた同じ理由でこれまで知られずにきた諸原理〔起源〕のうちに見出されるのである。

(Vico 1744:5、訳23〜24頁)

冒頭に「同じ神の摂理の光線が形而上学の胸のところで反射して、拡散しながら、わたしたちのもとに届いている異教世界最初の著作家であるホメロスの像にまで達している」とありますが、「神の摂理」が『新しい学』第一巻「原理の確立」に対応し、その光線が向かう「形而上学」は『新しい学』第二巻「詩的知恵」に対応し、さらに光線が反射して向かう「ホメロスの像」は『新しい学』第三巻「真のホメロスの発見」に対応しています。要するに、光線の向かう順番は『新しい学』の叙述の順番を表現しているのです。

観念の原理と言語の原理

 実際ヴィーコは『新しい学』最初の1725年版を出版したのちにその構成を反省し、以後の1730年版と1744年版で叙述を大幅に変更しています*1。この辺りの事情についてはヴィーコ『自伝』で述べられています。

また、いま語ったような理由によって、その著作はナポリでも他の場所でも自分が費用を負担して出版してやろうという出版者が見つからなかったため、ヴィーコは別の処理法を考え出すことにした。それはおそらくその著作が本来とっていてしかるべき処理法であったのだが、こういう必要に迫られることがなかったならば、ヴィーコにしても到底考えつかなかったであろうもので、さきに出版された書物〔一七二五年の『新しい学』〕と比較対照してみれば、そこで採用されていたやり方とは、雲泥の差があることが明らかに見てとられるのである。また、この新しい処理法のもとでは、以前の著作では著作の筋立てを維持するために「註解」のなかで切り離されて雑然と羅列されていたことがらが、いまや、新しく追加されたかなりの量の事項とともに、ひとつの精神によって組み立てられ、ひとつの精神によって統率されているのが見られる。そして、このような秩序の力が働いた結果(この秩序の力こそは、論の展開にとって本来的な性質であることにくわえて、簡潔さの主要な原因のひとつである)、すでに出版された書物〔一七二五年の『新しい学』〕と今度の草稿とでは、わずか三葉分の増加があったのみである。

ヴィーコ『自伝』、強調引用者)

ヴィーコはこのように「秩序の力」によって『新しい学』の構成が変更されたと伝えていますが、この構成変更は「観念の原理と言語の原理」の取り扱いという本質的な問題を含んでいました。

『新しい学・第一版』では、主題においてではなかったにしても、順序においてたしかに誤った。というのも、観念の原理と言語の原理とは本性上互いに結合しているにもかかわらず、両者を切り離してあつかってしまったからである。また、そのどちらの原理とも別個にこの学があつかうもろもろの主題を展開していくさいの〔否定的な〕方法について論じたが、これらの主題は、もうひとつの〔積極的な〕方法によれば、観念と言語双方の原理から順次出てくるはずなのであった。このようなわけで、そこでは順序において多くの誤謬が生じることとなったのだった。

ヴィーコ『自伝』、強調引用者)

ヴィーコによれば「注解」スタイルはネガティヴな方法であり、なぜならそれは観念の原理と言語の原理を個別に切り離してしまうからだといいます。彼のポジティヴな方法はそうではなく、観念の原理と言語の原理が一体となってそこから主題が秩序をもって生まれるようなものです。 

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文献

*1:以下の点については上村忠男の解説(ヴィーコ 2018b:540以下)を参考にした。