目次
ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』
1. 序
ここでもまずはChatGPTに本書の「序」を要約させるところから始めたい。
——この本の「Intorduction」を教えてください。
『イマジンド・コミュニティーズ』の「Introduction(序論)」では、ベネディクト・アンダーソンが国家とナショナリズムを理解するための枠組みを提示しています。彼はまず、「国家」や「ナショナリズム」という概念が歴史的にどのように登場し、変化してきたかを概観します。
主なポイントは次の通りです:
- ナショナリズムの理解の困難さ:
アンダーソンは、ナショナリズムの定義が非常に難しく、曖昧なものであると述べています。国家やナショナリズムが、他の「-イズム」(例えばリベラリズムやマルクス主義)と比べても、思想体系として厳密に説明されにくいことを指摘しています。それにもかかわらず、ナショナリズムは現代において非常に力強い社会的・政治的現象であり、国家や民族の感情を理解する上で無視できないものです。- ナショナリズムと感情の結びつき:
アンダーソンは、ナショナリズムが非常に強力な感情を呼び起こすことを強調します。人々は、国家や国民という概念のために死をも厭わないことが多い。ナショナリズムの感情は、論理的な説明だけでは完全に理解することが難しい一方、個人や集団に深い感情的なつながりを提供します。- 「想像された共同体」という概念の導入:
アンダーソンは序論で、「想像された共同体」という概念を紹介します。彼によれば、国家とは、物理的には離れた場所に住む多数の人々が、自分たちが同じ共同体に属していると想像することで形成されるものです。つまり、国家はすべてのメンバーがお互いに顔を知っているわけではないが、共通のアイデンティティを持っていると信じられている共同体です。- ナショナリズムの歴史的背景:
アンダーソンは、ナショナリズムが単に近代の産物ではないことを指摘します。彼はナショナリズムの歴史的な前提条件として、宗教共同体や王朝国家の存在に触れ、これらが徐々に世俗的なナショナリズムに取って代わられていった過程を示唆しています。- 印刷資本主義の役割:
序論では、後に展開される「印刷資本主義」の概念にも触れられています。印刷技術の発展によって、新聞や書籍が広範囲にわたって流通するようになり、人々は同じ情報を共有することができました。このことが、国民意識の形成に重要な役割を果たしたとしています。総じて、アンダーソンは序論で、ナショナリズムという現象が単なる政治的な運動や思想ではなく、文化的かつ歴史的に形成された複雑な現象であることを強調しています。彼は、「国家」というものがいかにして想像され、共有され、また広まっていったのかを理解するための理論的枠組みをここで提示しています。
(ChatGPT「Imagined Communities Overview」)
このChatGPTの要約は非常によくできているように見えるが、誤りも含まれている。
ChatGPTは上の「5. 印刷資本主義の役割」の項目で「序論では、後に展開される「印刷資本主義」の概念にも触れられています」と述べているが、これは誤りである。なぜなら、「序 Introduction」では「印刷資本主義 print-capitalism」については文字通り一言も触れていないからである。本書の中で「印刷資本主義」が最初に言及されるのは、第2章「文化的根源」においてであり、その内容が詳しく展開されるのは第3章「国民意識の起源」においてなのである。第2章「文化的根源」と第3章「国民意識の起源」の二つの章は、「印刷資本主義」以前/以後でその章立てが区分けされているといえる。
マルクス主義者
ChatGPTの要約からは、本書の息づかいが全く聞き取れない。
さしあたり、ChatGPTの要約からは読み取れない視点として、アンダーソンの文章が「マルクス主義者」を意識したものであることを指摘しておく。アンダーソンは「序」の最初のパラグラフを次の文章で始めている。
いまひそかにマルクス主義とマルクス主義者運動の歴史に根底的変容が起こりつつある。そのもっとも明らかな徴候は、ヴェトナム、カンボジア、中国のあいだの最近の戦争である。これらの戦争は、それが独立性と革命性について疑う余地のない体制同士のあいだで起こった最初の戦争であり、しかも交戦当事国のいずれもこの流血沙汰をマルクス主義者 Marxist 特有の理論的観点から正当化しようという試みをなんら行っていないという点で、世界史的意義をもっている。
(IC: 1, 白石隆・白石さや訳18頁)
ここでアンダーソンが「Marxist」という言葉をイタリックで強調している点を無視してはならない。というのは、マルクス主義者はむしろ本書の理論構築の上で重要なきっかけを与えているからである。
……ナショナリズムはマルクス主義者理論にとって厄介な変則であり続けてきたのであり、まさにその故に、正面から対決されることなく無視されることのほうが多かったのだと。さもなくば、マルクスが、1848年のあの記念碑的定式化、「いずれの国のプロレタリアートも、当然、まずそれ自身のブルジョワジーをかたづけなければならない」において、この決定的に重要な代名詞が何を指示しているのか明示せずにすませてしまったことを、どう説明できようか。あるいはまた、一世紀以上にもわたって、「ナショナル・ブルジョワジー」の概念が、この形容詞〔ナショナル〕の妥当性を理論的に証明しようという真剣な努力もないままに使われてきたことを、どう説明できようか。なぜ、ブルジョワジー——それは生産関係の観点から定義される限り、世界階級である——のこうした〔国民的〕分割が理論的意義をもつのか。
本書の目的は、ナショナリズムのこの「変則」をもっと満足のいくように解釈するにはどうすればよいのか、その試論を提供することにある。
(IC: 3-4, 白石隆・白石さや訳21頁)
少なくともアンダーソンは『共産党宣言』の決定的な部分において、マルクスが文字通りにはナショナルな概念を前提として論じている節があると指摘している*1。アンダーソンのナショナリズムをめぐる研究の時代背景にこのような文脈があったことが、ChatGPTの要約からはごっそり抜け落ちてしまっている。しかしながら、そうした歴史的事実は本書を理解する上では決して無視できるものではないであろう。
(つづく)