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マルクス『資本論』覚書(3)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

マルクス現象学的方法

 『資本論』第一部は次の文章から始まる.

(1)ドイツ語初版

 資本主義的生産様式が支配している諸々の社会の富は,一つの「膨大な〔怪物的な〕商品集合」¹として現象し,個別の商品は,その富のエレメント形式として現象する.したがって,我々の研究は商品の分析から始まる.

(Marx1867: 1)

(2)ドイツ語第二版

 資本主義的生産様式が支配している諸々の社会の富は,一つの「膨大な〔怪物的な〕商品集合」¹として現象し,個別の商品は,その富のエレメント形式として現象する.したがって,我々の研究は商品の分析から始まる.

(Marx1872a: 9)

(3)フランス語

 資本主義的生産様式が支配している諸々の社会の富は,一つの「膨大な商品蓄積」¹として示される.商品とはこの富のエレメント形式であり,したがって,商品の分析が我々の研究の出発点となる.

(Marx1872b: 13)

(4)ドイツ語第三版

 資本主義的生産様式が支配している諸々の社会の富は,一つの「膨大な〔怪物的な〕商品集合」¹として現象し,個別の商品は,その富のエレメント形式として現象する.したがって,我々の研究は商品の分析から始まる.

(Marx1883: 1,『資本論①』71頁)

ここで「現象する erscheint」「個別の einzelne」「エレメント形式 Elementarform」という語は,おそらくヘーゲル精神現象学』の用法に倣っていると思われる.あるいはマルクスは『資本論』をいわば「現象学的方法」(ハイデガー存在と時間』)を用いて叙述していると言えるだろう.この点から,マルクスヘーゲルの弟子であることを宣言したことの意味も了解されよう.これに対して,フランス語版は,ドイツ語版の「現象する erscheint」という言葉を「〔暗に〕示される s'annonce」と訳しており,この点でフランス語版はマルクス現象学的方法が見え難くなってしまっている.さらにフランス語版は,「商品」の持つ個別性(Einzelnheit)の観点がすっぽり抜け落ちてしまっており,どうやら『資本論』の「現象学的方法」をあまり上手く翻訳できていないように思われる.実際,『資本論』フランス語版におおける翻訳上の表現の問題に関して,エンゲルスマルクスに対して苦言を呈している(この点に関しては,櫻井2021を参照されたい).

きのう僕はフランス語訳で工場立法にかんする章を読んだ.この章を洗練されたフランス語に移した手練には敬意を表しながらも,やはり僕はそれをこのみごとな章のためには残念に思う.力強さも活気も生命もなくなっている.平凡な文筆家にとっての,ある種の優雅さをもって自分を表現することの可能性が,ことばの強勢を代償として買い取られているのだ.このような現代の規則ずくめのフランス語をもって思想を表すということは,ますます不可能になってくる.窮屈な形式論理のためにほとんど至るところで必要になってきた文章の置き換えによってだけでも,すでに叙述からいっさいの特異なもの,いっさいの活気あるものを奪い去っている.英訳のさいにフランス語を基礎にすることは,僕は大きなまちがいだと考えたい.英訳では原文の力強い表現が弱められる必要はない.固有な弁証法的な箇所でやむをえず失われるものは,ほかの多くの箇所における英語のより大きな力強さと簡潔さとによって償われるのだ.

(『マルクスエンゲルス全集』第33巻,82頁).

エレメント形式としての商品

 ここで引用符が付いている「膨大な〔怪物的な〕商品集合 ungeheure Waarensammlung」の引用元は,原注1によれば,マルクス『経済学批判』4ページにあるとされているが,実際には3ページである.引用元でマルクスは次のように述べている.

 一見したところ,ブルジョワ的な富は,一つの膨大な〔怪物的な〕商品集合として現象し,個別の商品は,ブルジョワ的な富のエレメント的存在として現象する.だが,どの商品も自らを使用価値交換価値という二重の観点の下に置いている.

(Marx1859: 3)

『経済学批判』においては「その〔ブルジョワ的な富の〕エレメント的存在として als eine elementarisches Dasein 現象する」と表現された「個別の商品 einzelne Waare」は,『資本論』においては「その〔資本主義的生産様式が支配的である諸社会の富の〕エレメント形式として als seine Elementarform 現象する」と表現されている.(ただし,ドイツ語初版では強調されていた「エレメント形式」はドイツ語第二版以降では強調されていない.)

 「個別の商品」が社会的富の「エレメント形式 Elementarform」として現象するという場合,それを〈エレメント〉の側面と〈フォルム〉の側面から考察することができる.入江幸男(1953–)は〈エレメント〉を次のように説明している.

エレメント(Element)といえば,哲学史上では,ひとは直ぐに,ギリシャ哲学の四大エレメント(地・水・風・火)を想起する.この場合,エレメントとは,元素(Urstoff)の意味である.一般には,この元素の意味からの転義で,構成要素(Bestandteil)の意味で使われることが多いと思う.エレメントには,これらの周知の意味の他に,本来の乃至固有の活動領域という意味がある.この意味のエレメントの説明でよく例に挙げられるのは,魚のエレメントは水である,鳥のエレメントは空気である等,また悪例を挙げるならば,女のエレメントは家庭であるというものもある.

入江1980: 69)

ここで入江は〈エレメント〉の意味を二つ挙げている.ひとつは「構成要素」という意味での〈エレメント〉であり,もうひとつは「固有の活動領域」という意味での〈エレメント〉である.

 マルクスが「個別の商品」が「〈エレメント〉形式」として現象すると述べた際の「エレメンタール Elementar」の意味はどちらの意味であろうか.これは一見すると,「構成要素」の意味で用いられているように思われる.しかしながら,もし「固有の活動領域」という意味で用いられていたらどうだろうか.もし「個別の商品」が何らかの「活動領域」の形式として現象するものだとしたら,「個別の商品」という〈エレメント〉で活動しているのは一体何なのだろうか.それはおそらく人間的労働であろう.

ungeheureをどう解釈するか

 ungeheureには,これまでにいくつかの解釈が施されてきた(ungeheureについて詳しくは臼井2001をみよ).的場昭弘(1952–)は,このungeheureをルドルフ・オットー(Rudolf Otto, 1869–1937)の『聖なるもの』(Das Heilige, 1917)における議論と結びつけて,「畏れ多い商品集積」と解釈している(的場ほか2011).熊野純彦(1958–)は,「カントによれば,なんらかの対象はその量が対象の概念を破壊するほどのものとなるとき「とほうもない」と呼ばれる」(熊野2013: 38)と述べた上で,『経済学批判』で言及された以下のロンドンの光景を引用している.

 ロンドンのもっともにぎやかな通りには,商店がくびすを接して立ちならび,ショーウィンドーには世界のあらゆる富が,インドのショール,アメリカのレヴォルバー,中国の陶磁器,パリのコルセット,ロシアの毛皮製品,熱帯地方の香料がきらびやかに輝いている.だがこれらすべての現世の享楽品はそのひたいに宿命的な白い紙片を貼付され,その紙片にはアラビア文字が,ポンド,シリング,ペンスという,ラコニアふうの文字とともに書きこまれている.これこそが,流通にあらわれている商品のすがたなのである.

(Marx1859: 65,熊野2013: 38)

沖公祐(1971–)もまた,熊野純彦と同様に『経済学批判』のこの箇所を引用し,「在庫がうずたかく積まれた倉庫が建ち並び,商店のショーウィンドウは陳列された商品で溢れ返っている.これが「巨大な商品の集まり」の具体的なイメージだとすれば,マルクスの言う富とは,スミスが少なくければ少ないほどよいと考えたストックそのものであることが分かる」(沖2019: 40)と述べ,アダム・スミスのストックの議論をマルクスの商品論に接続している.その上で沖は「マルクスの「商品の集まり」はいわば有機(生物)である」(沖2019: 41)という見解を示している.

 ungeheureは,文字通りには「怪物的な」ものを意味し,したがって「不気味な」ものというニュアンスを持っていた.そこから転じて十八世紀末頃からは,主に「量の過剰さ」を意味するようになった.フランス語版ではimmenseと訳出されているが,immenseにはungeheureが持っている「怪物的な,不気味な」ものというニュアンスが感じられない.文学的な表現ではあるとはいえ,やはりマルクスがわざわざ引用符を付けてまで引用している意味を理解するためには,ungeheure本来の「怪物的な,不気味な」ものというニュアンスを汲み取り損ねてはならないであろう.

階級分析から資本主義の分析へ

 『経済学批判』では「ブルジョワ的な富 bürgerliche Reichthum」とされていた箇所が,『資本論』では「資本主義的生産様式が支配的である社会の富」へと修正されている.おそらくマルクスは前者で「富」を「ブルジョワ的」と形容することによって、〈階級〉としてのブルジョワ(これはプロレタリアと対抗概念である)を念頭に置いていたのであろう.だが,「富」を形成するところの「社会」には,ブルジョワもいればプロレタリアもいる.「資本主義的生産様式が支配している諸々の社会」のなかには,ブルジョワとプロレタリアという二つの階級の両方が行為主体として含まれているのであるから,「ブルジョワ的な富」といってブルジョワだけを取り上げるのでは片手落ちである.それゆえに『資本論』では「ブルジョワ的な富」という表現は避けられたのではなかろうか.

 沖によると,この「富 Reichthum」は,アダム・スミスの『国富論』を「強く意識した(原文ママ)書かれたもの」(沖2019: 28)なのだという.

国富論』は「富とは何か」という問いに答えようとした書物だと言える.この問いに対し,スミスは,余剰(ストック)としての貨幣(財宝)のみを重視する重商主義は富の偽の見かけ(仮象)に惑わされていると批判した上で,真の富は必要(フロー)であると答えた.マルクスは,この答えを退けたが,それだけではない.『資本論』冒頭の一文が示しているのは,スミスの問いの立て方そのものが誤っているということである.立てるべき問いは,「富とは何か」ではなく、特定の生産様式が支配する社会の下で「富はどう現れるか」である.

沖2019: 45)

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