目次
マルクス『資本論』(承前)
第一部 資本の生産過程(承前)
社会の富の〈基本形式〉として現れる個々の商品
『資本論』第一部は次の文章から始まる.
(1)ドイツ語版『資本論』初版
資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は,一つの「巨大な商品の集まり」¹として現われ,一つ一つの商品は,その富の基本形式として現われる.それゆえ,われわれの研究は商品の分析から始まる.
(Marx1867: 1,『資本論①』71頁)
(2)ドイツ語版『資本論』第二版
資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は,一つの「巨大な商品の集まり」¹として現われ,一つ一つの商品は,その富の基本形式として現われる.それゆえ,われわれの研究は商品の分析から始まる.
(Marx1872a: 9,『資本論①』71頁)
(3)フランス語版『資本論』
資本主義的生産様式が支配する社会の富は,「膨大な商品の蓄積」として表される.それゆえ,この富の要素形式である商品の分析が,我々の研究の出発点となる.(Marx1872b: 13)
(4)ドイツ語版『資本論』第三版
資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は,一つの「巨大な商品の集まり」¹として現われ,一つ一つの商品は,その富の基本形式として現われる.それゆえ,われわれの研究は商品の分析から始まる.
(Marx1883: 1,『資本論①』71頁)
「巨大な商品の集まり ungeheure Waarensammlung」に引用符が付いているが,これは,原注1に示されている通り,マルクス『経済学批判』からの引用である.以下に原文を掲げておく.
一見したところ,ブルジョワ的な富は,一つの巨大な商品の集まりとして現われ,一つ一つの商品は,ブルジョワ的な富の基本的な定在として現われる.しかし,各商品は自らを使用価値と交換価値という二重の観点の下に置いている.
(Marx1859: 3)
- 『経済学批判』ではブルジョワ的な富の「基本的な
定在 」として現象するとされた「商品」は,『資本論』では社会的富の「基本形式 」として現象するとされている. - 「基本形式 Elementarform」は,ドイツ語版の初版では強調されていたが,第二版以降では強調されなくなっている.
「一つ一つの商品」が社会的富の「基本形式 Elementarform」として現象するという場合,それを〈エレメント〉の側面と〈形式〉の側面から考察することができる.入江幸男(1953–)は〈エレメント〉を次のように説明している.
エレメント(Element)といえば,哲学史上では,ひとは直ぐに,ギリシャ哲学の四大エレメント(地・水・風・火)を想起する.この場合,エレメントとは,元素(Urstoff)の意味である.一般には,この元素の意味からの転義で,構成要素(Bestandteil)の意味で使われることが多いと思う.エレメントには,これらの周知の意味の他に,本来の乃至固有の活動領域という意味がある.この意味のエレメントの説明でよく例に挙げられるのは,魚のエレメントは水である,鳥のエレメントは空気である等,また悪例を挙げるならば,女のエレメントは家庭であるというものもある.
(入江1980:69)
ここで入江は〈エレメント〉の意味を二つ挙げている.ひとつは「構成要素」という意味での〈エレメント〉であり,もうひとつは「固有の活動領域」という意味での〈エレメント〉である.
マルクスが「一つ一つの商品」が「基本形式」として現象すると述べた際のElementarの意味はどちらの意味であろうか.これは一見すると,「構成要素」の意味で用いられているように思われる.しかしながら,もし「固有の活動領域」という意味で用いられていたらどうだろうか.もし「一つ一つの商品」が何らかの「活動領域」の形式として現象するものだとしたら,「一つ一つの商品」という〈エレメント〉で活動しているのは一体何なのだろうか.
そして「一つ一つの商品」がエレメントの〈形式〉として現象するならば,同時にその「内容 Inhalt」や「実質 Materie」の側面に注意が払われるべきであろう.
〈要素〉と〈集合〉:内田弘による数学的解釈
内田弘(1939–)は,上の「エレメント」を「構成要素」の意味で理解している.さらに内田は〈要素〉に対するものは「巨大な商品の〈集合〉」だと述べている.つまり内田は,マルクスの用いるElementやSammlungを数学上の概念として理解するのである.
名詞「Warensammlung」は「商品《集積》」と訳して,正確に理解できるのだろうか.その語彙のすぐあとに,「個々の商品はその富の要素形態(Elementarform)として現れる」とある.「要素」に対しては,「集積」でなくて「集合」であろう.資本主義的生産様式が支配する社会では,ほとんどの富は商品形態をとる.商品は「集合」であり,かつその「要素」である,とマルクスは言明しているのである(ちなみに『経済学批判』では「集合」にAggregatを当てている.この語法はカントにならっている).
(内田2011)
数学上の概念としての「集合」はドイツ語でMengeという.SammlungにせよAggregatにせよ,それらを数学上の概念として解釈するのはただのこじ付けではないだろうか.
ungeheureをどう解釈するか
ungeheureには,これまでにいくつかの解釈が施されてきた*1.
的場昭弘(1952–)は,このungeheureをルドルフ・オットー(Rudolf Otto, 1869–1937)の『聖なるもの』(Das Heilige, 1917)における議論と結びつけて「畏れ多い商品集積」と解釈している(的場・佐藤2011).
熊野純彦(1958–)は,「カントによれば,なんらかの対象はその量が対象の概念を破壊するほどのものとなるとき「とほうもない」と呼ばれる」(熊野2013:38)と述べ,『経済学批判』で言及された以下のロンドンの光景を引用している.
ロンドンのもっともにぎやかな通りには,商店がくびすを接して立ちならび,ショーウィンドーには世界のあらゆる富が,インドのショール,アメリカのレヴォルバー,中国の陶磁器,パリのコルセット,ロシアの毛皮製品,熱帯地方の香料がきらびやかに輝いている.だがこれらすべての現世の享楽品はそのひたいに宿命的な白い紙片を貼付され,その紙片にはアラビア文字が,ポンド,シリング,ペンスという,ラコニアふうの文字とともに書きこまれている.これこそが,流通にあらわれている商品のすがたなのである.
(Marx1859: 65,熊野2013:38)
沖公祐(1971–)もまた,熊野純彦と同様に『経済学批判』のこの箇所を引用し,「在庫がうずたかく積まれた倉庫が建ち並び,商店のショーウィンドウは陳列された商品で溢れ返っている.これが「巨大な商品の集まり」の具体的なイメージだとすれば,マルクスの言う富とは,スミスが少なくければ少ないほどよいと考えたストックそのものであることが分かる」(沖2019:40)と述べ,アダム・スミスのストックの議論をマルクスの商品論に接続している.その上で沖は「マルクスの「商品の集まり」はいわば有機体(生物)である」(沖2019:41)という見解を示している.
〈階級〉分析から〈資本主義〉の分析へ
『経済学批判』では「ブルジョワ的な富 bürgerliche Reichthum」とされていた箇所が,『資本論』では「資本主義的生産様式が支配的である社会の富」へと修正されている.おそらくマルクスは前者で「富」を「ブルジョワ的」と形容することによって、〈階級〉としてのブルジョワ(これはプロレタリアと対抗概念である)を念頭に置いていたのであろう.だが,「富」を形成するところの「社会」には,ブルジョワもいればプロレタリアもいる.「資本主義的生産様式が支配的である社会」のなかには,ブルジョワとプロレタリアという二つの階級の両方が行為主体として含まれているのであるから,「ブルジョワ的な富」といってブルジョワだけを取り上げるのでは片手落ちである.それゆえに『資本論』では「ブルジョワ的な富」という表現は避けられたのではなかろうか.
沖によると,この「富 Reichthum」は,アダム・スミスの『国富論』を「強く意識した書かれたもの」(沖2019:28)なのだという.
『国富論』は「富とは何か」という問いに答えようとした書物だと言える.この問いに対し,スミスは,余剰(ストック)としての貨幣(財宝)のみを重視する重商主義は富の偽の見かけ(仮象)に惑わされていると批判した上で,真の富は必要(フロー)であると答えた.マルクスは,この答えを退けたが,それだけではない.『資本論』冒頭の一文が示しているのは,スミスの問いの立て方そのものが誤っているということである.立てるべき問いは,「富とは何か」ではなく、特定の生産様式が支配する社会の下で「富はどう現れるか」である.
(沖2019:45)
文献
- Marx, Karl, 1859, Zur Kritiki der politischen Oekonomie, Erstes Heft, Berlin. (British Library, 2018)
- Marx, Karl, 1867, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Erster Band, Buch 1: Der Produktionsprocess des Kapitals, Hamburg. (Bayerische Staatsbibliothek, 2014)
- Marx, Karl, 1872a, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Erster Band, Buch 1: Der Produktionsprocess des Kapitals, Zweite verbesserte Auflage, Hamburg. (British Library, 2016)
- Marx, Karl, 1872b, Le capital, traduction de M. J. Roy, entièrement revisée par l'auteur, Paris. (University of Oxford, 2006)
- Marx, Karl, 1883, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Erster Band, Buch 1: Der Produktionsprocess des Kapitals, Dritte vermehrte Auflage, Hamburg. (University of Michigan, 2006)
- マルクス 1972『資本論(1)』岡崎次郎訳,大月書店.
- 荒川幸也 2015「マルクス『ヘーゲル法哲学批判』のメタクリティーク」一橋大学大学院社会学研究科,修士論文.
- 入江幸男 1980「ヘーゲルの「エレメント」概念と『精神現象学』の方法」大阪大学文学部哲学哲学史第二講座『哲学論叢』6.
- 植村邦彦 2010『市民社会とは何か——基本概念の系譜』平凡社.
- 臼井隆一郎 2001「資本主義の冥界——『資本論』の言語態——」,所収:臼井隆一郎・高村忠明編『記憶と記録』東京大学出版会.
- 内田弘 2011「貨幣・国家・宗教の「外部性」は「仮象」である」ちきゅう座 2011年6月8日(2020年9月13日最終閲覧).
- 沖公祐 2019『「富」なき時代の資本主義 マルクス『資本論』を読み直す』現代書館.
- 熊野純彦 2013『マルクス 資本論の思考』せりか書房.
- 平子友長 2007「西洋における市民社会の二つの起源」一橋大学大学院社会学研究科『一橋社会科学』創刊号.
- 的場昭弘・佐藤優 2011『国家の危機』KKベストセラーズ.(的場昭弘・佐藤優 2016『復権するマルクス』KADOKAWA.)