まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

サイード『オリエンタリズム』覚書(4)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

 

(承前)序説(二)

〈オリエント〉に関する三つの留保(その一)

イードは〈オリエント〉を理解するにあたって三つの留保条件を付している。

Having said that, one must go on to state a number of reasonable qualifications. In the first place, it would be wrong to conclude that the Orient was essentially an idea, or a creation with no corresponding reality. When Disraeli said in his novel Tancred that the East was a career, he meant that to be interested in the East was something bright young Westerners would find to be an all-consuming passion; he should not be interpreted as saying that the East was only a career for Westerners.

以上のように述べてきたところで、次に若干のしかるべき限定条件を示しておかねばならない。まず第一に、オリエントが本質的に符合する現実をもたない観念、あるいはつくられた想念であった、などと断定してはならない。ディズレイリは、小説『タンクレッド』のなかで、「東洋というものは生涯を賭けるべき仕事なのだ」と書いているが、このとき彼が言わんとしたのは、東洋に関心をもつということが、西洋人の若者にとってあらゆるものを呑みつくす激しい情念としてとらえられるような光り輝く何ものかである、ということであった。ディズレイリが、東洋は単に西洋人にとっての仕事場にすぎないと言ったかのごとく解釈してはならないのだ。

(Said 2003:5、訳25頁)

ここでサイードはベンジャミン・ディズレイリの小説『タンクレッド』(1847年、ロンドン)に言及している。この『タンクレッド』の邦訳があるかどうか私は知らないが、サイードが言及しているのはおそらく次の箇所であろう。

『ナポレオンでさえ地中海を再び渡って後悔したとは、私は知らない。東洋というものは生涯を賭けるべき仕事なのだ。』

(Disraeli 1847:289)

ナポレオンは地中海のエルバ島に幽閉されたが、そこから脱出した。東洋へ行くことは、そのような身を危険にさらしてでも試みるだけの価値がある、ということだろうか。

There were—and are—cultures and nations whose location is in the East, and their lives, histories, and customs have a brute reality obviously greater than anything that could be said about them in the West. About that fact this study of Orientalism has very little to contribute, except to acknowledge it tacitly. But the phenomenon of Orientalism as I study it here deals principally, not with a correspondence between Orientalism and Orient, but with the internal consistency of Orientalism and its ideas about the Orient (the East as career) despite or beyond any correspondence, or lack thereof, with a “real” Orient.

昔も今も、東洋にはあまたの文化・民族が存在しているのであり、彼らの生活や歴史や慣習は、明らかに西洋で語られうる以上に、偉大で酷薄な現実を有しているのである。だがこうした事実については、私のオリエンタリズム研究はほとんど寄与するところがない。暗にその事実を認めるだけである。私が研究対象とするオリエンタリズムという事象に主として関係しているのは、オリエンタリズムとオリエントとの符合・対応なのではない。「現実の」オリエントと何らかの符合が存在しているか、いないかなどということに関わりなく、つまりそれらを超越したところで、オリエンタリズムに内在的な論理整合性およびオリエント(生涯の仕事としての東洋)に関する諸観念が問題とされるのだ。

(Said 2003:5、25〜26頁)

イードは、事実に基づいて〈オリエント〉の実証研究をしたのではなく、〈オリエント〉の観念を取り扱っているという。だからテクストが主要な研究対象となる。

 ところで、サイードが上記のような留保条件をつける必要があったのは一体何故であろうか。サイードの『オリエンタリズム』は、そのタイトルを一見すると、それを読めば本当のリアルな〈オリエント〉が分かるといった類のものではないかと予想されてしまう。しかしながら、サイードの研究対象は、「「現実の」オリエントと何らかの符合が存在しているか、いないかなどということに関わり」がない。したがって、サイードは、自身のオリエンタリズム研究を〈オリエント〉のリアルと結びつけるような予断を払拭する必要があったのである。

〈オリエント〉についての諸観念の星座的付置

My point is that Disraeli’s statement about the East refers mainly to that created consistency, that regular constellation of ideas as the pre-eminent thing about the Orient, and not to its mere being, as Wallace Stevens’s phrase has it.

要するに、ディズレイリが東洋について述べていることが、もっぱらあのつくられた整合性、つまりオリエントについてきらめく星座のごとき権威をもつあの型にはまった観念群に言及したものであった。それはウォーレス・スティーヴンズの詩句にいう、あるがままの存在に言及したものではなかったのである。

(Said 2003:5、訳26頁)

邦訳では "constellation" が「きらめく星座のごとき」と訳されている。 "regular constellation of ideas as the pre-eminent thing about the Orient" を直訳すれば、「〈オリエント〉について卓越したものとしての諸観念のあの規則的な〔星座のような〕付置状況」となる。

 知られるように「コンステラツィオン Konstellation 」はヴァルター・ベンヤミンの用語として有名であり、「星座的付置」などと訳される。星座は、人間が散らばった星の並びを見て、そこに何らかの形を読み取ったものである。サイードが言及する〈オリエント〉の観念も、〈オリエント〉に関する様々な言説を星座のように見たて、そこから浮かび上がってくる〈オリエント〉像を明らかにする試みだと言えるかもしれない。

sakiya1989.hatenablog.com

文献