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コロナ以後、祭礼は野蛮である

はじめに

 今回は「コロナ以後、祭礼は野蛮である」ということについて考えたい。

 もともとは「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」*1というアドルノの言葉から来ている。こちらははるかに重々しい内容を持っている。藤野寛の解釈を引用しよう。

アウシュヴィッツ以降、「文化」は、もはやいささかも無垢ではありえない。文化と野蛮の癒合を見ることなく、文化を理念として引き合いにだすことは、おめでたさと知的怠慢を証するものでしかない。そこからして、「詩を書くこと(文化)」は、もはや「野蛮(自然)からの脱却」ではなく、それ自身が「野蛮」だ、とアドルノは言い切るのである。

(藤野 2001:46)

「野蛮(自然)からの脱却」は、一つにはホッブズの社会契約論におけるように、自然状態から社会状態への転化のうちに、また一つにはヘーゲル的な意味での、労働における陶冶形成のうちにみられるかもしれないが、そうしたことは一旦置いておこう。

 「野蛮」と対照的に置かれているものが「文化」だとすれば、「詩を書くこと」のみならず、祭礼という自然に対する宗教的な統治術もまた「文化」だと言えるかもしれない。「コロナ以後、祭礼は野蛮である」と言うときの、「祭礼」は、まさに自然の猛威に対抗する文化である。

「コロナ以後」

 最近、アフターコロナの世界をいかに合理化していくかが課題となっている。「コロナウイルス」とはむろん「新型コロナウイルス(COVID-19)」のことである。

 新型コロナウイルスは、これに先行する従来のコロナウイルスとは、政治国家・市民社会・家族に対する影響力が大きく異なっている。新型コロナウイルスの影響により、リモートワークが推進され、われわれの労働環境は変わってしまった。ハンコというしきたりは、廃絶へと向かっている。新型コロナウイルスは、自然の猛威でありながら、同時にそれに処する人類にとって啓蒙的である。これぞ資本の文明化作用ならぬ、自然の猛威による文明化作用である。

「祭礼」

 日本語で「お祭り」を意味する熟語としては「祭礼」「祭儀」「祭典」などがある。これらは厳密に区別されるが、なかでも「祭礼」は御祓の意味を持つ(ただし大勢で賑やかに行われるものではないらしい)。

 よく知られるように、「ハレとケ」という民族学的な区分がある。「ハレ」は、冠婚葬祭という非日常、晴れ舞台である。「ケ」は日常である。

 「祭礼」という「ハレ」は、「ケガレ(穢れ)」という精気の衰退を祓うために行われる儀式である。

 しかしながら、「祭礼」は、人々の密集性を高め、「新型コロナウイルス」感染のリスクを高めるおそれがある。いってしまえば、ハレがケガレに転化する。したがって、コロナ以後、「ハレ」(祭礼)は、あたかも腫れ物(はれもの)に触るように行われなければならなくなる。

「野蛮」

 「野蛮」は自然状態をあらわす。「野蛮」はここでは、「コロナウイルス」のような、人間社会に対する自然の猛威を観念してもよい。

 これに対して「祭礼」は、そのような自然の猛威を押さえ込むために作られた、精神的、宗教的な統治術であった。

おわりに

 「祭礼」は文化である。この文化は、科学技術が発展した今日においても、その国民が啓蒙的であるか否かにかかわらず、人間社会を営む上で不可欠な構成要素となっている。だが、コロナ以後、祭礼を催すことは野蛮である。あるいはこう言っても良い。冠婚葬祭を行うことは野蛮である。それがどんなに荘厳な形式で行われようとも。

 ここまで書いて思い至ったのだが、参拝する際に手水の作法で手と口を清めるのも、御祓し健康を祈願することも、古い形式における公衆衛生の技術であったのかもしれない。 

文献

*1:「文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識をも侵食する。」(アドルノ 1996:36)。