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サイード『オリエンタリズム』覚書(5)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

イードオリエンタリズム』(承前)

序説(二)(承前)

イードの〈オリエント〉とグラムシの「ヘゲモニー

 サイードが示す〈オリエント〉理解のための第二の留保条件は次のようなものである.

A second qualification is that ideas, cultures, and histories cannot seriously be understood or studied without their force, or more precisely their configurations of power, also being studied. To believe that the Orient was created—or, as I call it, “Orientalized”—and to believe that such things happen simply as a necessity of the imagination, is to be disingenuous. The relationship between Occident and Orient is a relationship of power, of domination, of varying degrees of a complex hegemony, and is quite accurately indicated in the title of K. M. Panikkar’s classic Asia and Western Dominance.

第二の限定条件として,観念や文化や歴史をまともに理解したり研究したりしようとするならば,必ずそれらの強制力——より正確に言えばそれらの編成形態コンフィギュレーション——をもあわせて研究しなければならない.オリエントはつくられた——あるいは私の言葉で言うと「オリエント化された」——ものだと考える場合,それは,もっぱら想像力がそれを必要とするからこそ起こることだと考えたりするのは,事実を偽るものである.西洋オクシデント東洋オリエントとのあいだの関係は,権力関係,支配関係,そしてさまざまな度合いの複雑なヘゲモニー関係にほかならない.この関係は,K・M・パニッカルの名著『アジア,そして西洋の支配』の書名のなかに,まことに的確に示されている.

(Said2003: 5,訳(上)26〜27頁,強調引用者)

「強制力 force 」,「権力 power 」,「支配 domination 」,「覇権 hegemony 」,「力 strength 」,いずれもこのパラグラフ全体において「力」というタームが繰り返されていることがわかる.とりわけ「ヘゲモニー」はグラムシの思想において注目された概念である.グラムシ研究者の片桐薫は「ヘゲモニー」について次のように説明している.

 「ヘゲモニー」の語源はギリシャ語の「へーゲスタイ」で,ある国家や都市による他の国家・都市にたいする支配を意味していた.それを階級闘争の概念としてはじめて用いたのは,二〇世紀初頭のロシアの社会民主主義者たちで,農民その他の被搾取階級にたいするプロレタリア指揮権という意味に用いていた.レーニンもはじめはヘゲモニーという表現を使っていたが,一〇月革命前後からは「プロレタリアートの独裁」という表現を用いるようになっていった.それにたいし,グラムシヘゲモニーという表現を使って理論展開するようになるのは,一九二〇年代後半以降の「リヨン・テーゼ」「南部問題に関する若干の主題」「ソ連共産党中央委員会への手紙」においてである.だか原文ママこの段階では,「プロレタリアートの独裁」とほぼ同義語的に使っていた.

 ところが獄中期になると,はっきり変化を見せるようになる.それまでの「ヘゲモニー」概念をレーニンとクローチェから学んだことを認めながらも,その狭義の概念から脱皮していった.つまり,①レーニンの概念が政治指導をもっぱらとするのにたいし,支配と指導,強制と同意,政治社会と市民社会のかかわりでとらえた.②クローチェの「倫理的・政治的」指導という発想を介し,文化的・道徳的・イデオロギー的指導を意味するものとして,その概念の質的な修正をおこなった.こうして「ヘゲモニー」概念は,「獄中ノート」全体をつらぬく「赤い糸」として形成され,それは,コミンテルン系のマルクス主義とは大きく異なるものだった.

(片桐2001:278)

要するに,「ヘゲモニー」とはかつて都市間の覇権をめぐる諸関係を示す概念であったが,後にレーニンが「プロレタリアート独裁」として用いた「ヘゲモニー」概念を,グラムシは「獄中ノート」の中で(クローチェの「倫理的なもの」を契機として)政治的なものから文化的なものへと変容させたというのである.

 サイードグラムシについて少しあとで言及しているが,その箇所はちょうどこのパラグラフを理解するために重要な点を含んでいる.

Gramsci has made the useful analytic distinction between civil and political society in which the former is made up of voluntary (or at least rational and noncoercive) affiliations like schools, families, and unions, the latter of state institutions (the army, the police, the central bureaucracy) whose role in the polity is direct domination. Culture, of course, is to be found operating within civil society, where the influence of ideas, of institutions, and of other persons works not through domination but by what Gramsci calls consent. In any society not totalitarian, then, certain cultural forms predominate over others, just as certain ideas are more influential than others; the form of this cultural leadership is what Gramsci has identified as hegemony, an indispensable concept for any understanding of cultural life in the industrial West. It is hegemony, or rather the result of cultural hegemony at work, that gives Orientalism the durability and the strength I have been speaking about so far.

グラムシは,市民社会と政治社会とのあいだに効果的な分析上の区分を設けた.市民社会のほうは,学校,家族,組合といった,自由意志による(つまり少なくとも理性的で非強制的な)加入・帰属関係から構成されており,政治社会のほうは直接の支配をその政治的役割とする国家制度(軍隊、警察、中央官僚制)から構成されているが,もちろん,文化の機能を認めることができるのは,市民社会においてである.市民社会では,思想・制度・他人格の影響力は,支配を通してではなく,グラムシの言う合意を通して作用する.さらに,全体主義的でない社会ではどこでも,ある思想が他の思想よりも大きな影響力をもつのと同じ意味で,ある文化形態が他の文化形態に断然優越している.この文化的主導権の形態は,グラムシによって,工業化された西洋社会の文化生活を理解するために絶対不可欠の概念,すなわちヘゲモニーとして認められたものにほかならない.オリエンタリズムに,これまで述べてきた持続性と力とを賦与するのは,このヘゲモニーであり,正確に言えば,文化的ヘゲモニーの作用の結果なのである.

(Said2003,訳(上)29〜30頁,強調引用者)

ここではグラムシの「市民社会」と「政治社会」(両者をあわせて「国家」とグラムシは考える)の区別について一般的な理解が述べられている*1.「政治社会」の機能とは「市民社会」に対する「支配 domination 」であり,これに対して「市民社会」の機能は「文化 cultur 」であり,そこには「合意」*2の契機がある.そこにおいて「ヘゲモニー」という概念は,国家権力のような勢力を意味するのではなく,われわれの内なるメンタリティと生活に根付いており,いわば社会に内在しているものである.〈オリエント〉にみられる西洋と東洋の力関係もまさに「ヘゲモニー」の観点から説明できるとサイードは考えているのである.

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文献

*1:そもそもこのような(「市民社会」と「政治的国家」の)区別について理性的な説明を与えたのは,ヘーゲル『法の哲学』である.ヘーゲル以前は,「市民社会」は「政治社会」と同一のものとみなされていた.

*2:ヘーゲルならばこれを「承認 Anerkennung 」と言うかもしれない.