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ジャック・デリダ『弔鐘』覚書(6)

目次

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ジャック・デリダ『弔鐘』(承前)

(左)ヘーゲル

教育と署名との両立不可能性

     On ne sait pas encore s’il s’est laissé enseigner, signer, ensigner. Peut-être y a-t-il une incompatibilité, plus qu’une contradiction dialectique, entre l’enseignement et la signature, un magister et un signataire. Se laisser penser et se laisser signer, peut-être ces deux opérations ne peuvent-elles en aucun cas se recouper.

 〈Sa〉が教えられるにまかせたかどうか、署名されるにまかせたかどうか、教えられ署名されることで血を流したかどうかは、それは、まだ、知られていない。教育と署名、教師と署名者の間には、おそらく、弁証法的矛盾以上の両立不可能性がある。思考されるにまかせることと署名されるにまかせること、この二つの操作は、おそらく、どんな場合にも、けっして交差=一致することはありえない。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)249、247頁)

«enseigner, signer, ensigner»という三つの動詞は韻を踏んでいる。鵜飼訳では三つ目の«ensigner»が、その直前の«enseigner»(教える)と«signer»(署名する)のカバン語として訳出されているが、«ensign»は例えばBlue EnsignやRed Ensignのように「旗章」をも意味する。

 デリダがここで述べているのは、〈Sa〉(=絶対知)における「署名」との両立不可能性という問題であるが、これはデリダが自身の問題関心に引きつけているのである。デリダはすでに「署名 出来事 コンテクスト」(signature événement contexte, 1971)の中で「署名」について次のように述べていた。

Les effets de signature sont la chose la plus courante du monde. Mais la condition de possibilité de ces effets est simultanément, encore une fois, la condition de leur impossibilité, de l’impossibilité de leur rigoureuse pureté. Pour fonctionner, c’est-à-dire pour être lisible, une signature doit avoir une forme répétable, itérable, imitable; elle doit pouvoir se détacher de l’intention présente et singulière de sa production. C’est sa mêmeté qui, altérant son identité et sa singularité, en divise le sceau.

署名の諸効果はこの世でもっともありふれたものだ。だがその効果の可能性の条件は同時にまたもやその不可能性の条件、つまりその厳密な不純さの不可能性の条件でもある。署名が機能するためには、言い換えればそれが読解可能であるためには、反復可能な、繰り返し可能な、模倣可能な形式をもつものでなければならない。すなわち署名はそれが産出される際の現前的かつ単独的な意図から解き放たれうるのでなければならない。署名の同一性と単独性を変質させることによって署名の封印を破り割るのは、ほかでもない署名のもつ同じものという性質メムテ〔=同性〕なのである。

(Derrida1972: 391-392,藤本訳265〜266頁)

ここではさしあたり紛らわしい「同一性 identité」「単独性 singularité」「同性 mêmeté」という三つの言葉について整理しておく必要があるだろう。

 テクストの著者がジャック・デリダ本人のものとして認識されるためには、その作品に「ジャック・デリダ」という固有名が署名される必要がある。しかし、死後出版であったり、本名を隠して出版されたりした場合には、署名がなされない場合もあろう。その際に、編者が著者の名前を後から付したとすれば、その人の著作として認識されうる。例えばスピノザの『エチカ』は、スピノザの死後に出版されたが、それゆえスピノザの署名はなく、B. D. S.(彼の名前の頭文字の略)しか記載されていなかった。だが、今では我々は『エチカ』をスピノザのそれとして認識している。署名の「同一性 identité」は、このような著者とテクストとの同一性を意味している。

 「署名 出来事 コンテクスト」の末尾にデリダは自身の署名の筆跡画像を付している。どうしてこれが筆跡画像なのかといえば、そこには彼独自の書き方の癖という特徴が表現されているからである。筆跡には個人の癖が反映されており、手で描くにせよ口で描くにせよ、足で描くにせよ、その人においてのみその筆跡は再現可能である、ということによって、署名の「単独性(特異性) singularité」が担保されている。

 しかしながら、署名の「単独性」という個人の癖が反映された筆跡は模倣可能であるし、反復されうる。このような署名の反復可能性のことをデリダは「同性 mêmeté」と呼んでいる。こうした議論は「複製可能時代の芸術作品」(ベンヤミン)と軌を一にしているかもしれない。すなわち、署名がその人のものであることを示す必要があるのに、署名それ自体は模倣可能で複製可能であることによって、それが使用される機会はもはや単独のものではなくなるのである。したがって、署名の効果は厳密に見れば矛盾していることになる。

(右)ジュネ欄

残余としての僅かなもの

     A peu près.

 わずかを除いて。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)246頁)

この箇所は、英訳では“Almost”(Derrida1986: 1)と訳されているが、直訳すると「僅かなもの peu」「〜を除外して à ~ près」という意味である。デリダの「残余の思考」からすれば、一般的には「除外」されがちなこの「僅かなもの peu」に着目することこそが重要なのではなかろうか。

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