目次
はじめに
私は「読書前ノート(11)」(2022年8月31日)で小松原織香『当事者は嘘をつく』(筑摩書房、2022年)を取り上げて書評した。その書評に先日mana (id:manaasami)さんが「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」(2022年10月8日)をお書きくださった。この感想に対して、私は「「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」へのリプライ」(2022年10月8日)を書いた。このリプライに対してもmanaasamiさんは「感想にお返事をいただいた」(2022年10月9日)とコメントをしていただいた。
manaasamiさんが「書評への感想」の中で述べておられるように、私が「〈赦す〉」という言葉を用いたことが気になっているようである。
実はそこまで考えず・・・性暴力でも性犯罪でも赦せるのは(神を除けば)被害者だけなのに、なぜここで出たのかな? と気になって。
Sakiya1989さんが赦しについて何かお考えがあるなら読みたかった。正直にいうと「そこが聞きたいのに」という単純な私の希望です。
お忙しいとき悩んでいただくことでなく、もし考察される機会があればそのときに書いていただけたらうれしいです。
(manaasami「感想にお返事をいただいた」2022/10/09)
〈赦す〉という言葉を私が用いたことに対して、manaasamiさんがどうしてそこまで気にかかるのか、私には正直なところよく分からない。とはいえ、読者がこのように妙な引っかかりというか気になっているケースは、私の数少ない経験に照らし合わせてみれば、書き手が気づいていない視点を読み手が持っている可能性があり、検討に値するはずである。
〈赦す〉という言葉で私は何を述べようとしたのか
私は書評の中で次のように述べた。
そもそも〈性暴力〉が「被害者のリアリティ」に起因するのだから、その原因である被害者以外の一体誰が、その〈性暴力〉を〈赦す〉ことができよう。
(sakiya1989「読書前ノート(11)」2022/08/31)
私の考えは、この一文にすべて書かれているのであるから、本来これ以上に補足すべきことはない。
私が述べているのは、〈赦し〉の対象は〈性暴力〉という現象であって、加害者として実在する彼(その人の行為や振る舞い)ではない、ということである。常識的な観念では、被害者Aが加害者B(の行為や振る舞い)を〈赦す〉という形式を取ると理解されよう。その場合、〈赦し〉の主体は被害者Aであり、〈赦し〉の対象は加害者B(の行為や振る舞い)であることになる。しかしながら、〈性暴力〉は「被害者のリアリティ」に基づいており、「被害者のリアリティ」は被害者Aしか持ち合わせておらず、それは加害者Bの身体にも精神にも何ら刻み込まれていない。加害者Bにとって〈性暴力〉という現象が立ち現れるためには、被害者Aがそのことを加害者Bに伝え、理解してもらわなければならない。だが、加害者Bが〈性暴力〉という現象を理解し、自覚するに至るかどうかは確実ではない。実際、本書の中で小松原さんはここでいう加害者B(の行為や振る舞い)を赦すことに失敗している。とすれば、そもそも加害者B(の行為や振る舞い)は、実は〈赦し〉の確実な対象にはなり得ず、〈赦し〉の確実な対象は、被害者Aが自分の身体と自分の内奥の精神に刻み込まれた〈性暴力〉という観念に他ならない(このことが〈性暴力〉という現象の、残酷なまでの構図であり、小松原さんが引用しているデリダの文章*1も、そのようなものとして〈赦し〉について語っているように思われる)。換言すれば、その場合、〈赦し〉の主体は被害者Aであるが、〈赦し〉の対象は加害者B(の行為や振る舞い)ではなく、被害者A自身の持つ〈性暴力〉という現象、あるいはそれが基づく「被害者のリアリティ」である。かくして、その〈性暴力〉という対象を〈赦す〉ことができるのは被害者自身に他ならない、ということになる。このことが、小松原さんの著書から私が読解したことであった。
ちなみに、この「被害者のリアリティ」とは、小松原さん自身が本書の中で用いている概念である。
そのため、私は研究では「性犯罪」ではなく「性暴力」という語を使っている。「性暴力」は法の規定に依らず、暴力を受けた被害者の苦しみや悲しみに焦点を当てる語である。今後も刑法改正の取組によって「性犯罪」が被害者のリアリティに沿うものに拡大されることを私は望んでいる。それでも、私は「性暴力」という用語を用いることで、司法の枠組みでの当事者の証言の真意とは切り離して、研究を進めている。
(小松原織香『当事者は嘘をつく』筑摩書房、2022年、18頁、強調引用者)
manaasamiさんの疑問に対して
この一文に対して、manaasamiさんは「書評への感想」の中で次のようにコメントされていた。
私はここで<赦す>という言葉が出る意味がわからないし気になる。小松原さんが研究している修復的司法も<赦し>を目的にはしていないはずだ。
(manaasami「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」2022/10/08、強調引用者)
まず「修復的司法」について述べておきたい。
私は書評の中で「小松原さんが研究している修復的司法も<赦し>を目的に」しているとは述べていない。そもそも書評の中で「修復的司法」という言葉さえ用いていない。
またmanaasamiさんは次のようなコメントもされておられる。
実はそこまで考えず・・・性暴力でも性犯罪でも赦せるのは(神を除けば)被害者だけなのに、なぜここで出たのかな? と気になって。
Sakiya1989さんが赦しについて何かお考えがあるなら読みたかった。正直にいうと「そこが聞きたいのに」という単純な私の希望です。
(manaasami「感想にお返事をいただいた」2022/10/09、強調引用者)
次に「性犯罪」と「神」について述べておきたい。
「性暴力」と「性犯罪」とは、本書の中で異なる扱われ方をしていることはmanaasamiさんも承知のことと思う。「性暴力」は「被害者のリアリティ」に基づくのに対して、「性犯罪」は刑法に属する概念カテゴリーであり、法体系には「恩赦 pardon」という概念が存在する。デリダの〈赦し pardon〉と、刑法の「恩赦 pardon」という言葉は、同じスペルであるが、デリダの〈赦し〉は刑法の「恩赦」を意味しない*2。
恩赦は,憲法及び恩赦法の定めに基づき,内閣の決定によって,刑罰権を消滅させ,又は裁判の内容・効力を変更若しくは消滅させる制度であり,大赦,特赦,減刑,刑の執行の免除及び復権の5種類がある。このうち,刑の執行の免除は,無期刑の仮釈放者に対して保護観察を終了させるなどの措置として執られている。復権は,既に更生したと認められる者が,前科のあることにより資格が制限されるなど社会的活動の障害となっている場合に,法令の定めるところにより喪失し又は停止されている資格を回復させるものである。恩赦を行う方法については,恩赦法において,政令で一定の要件を定めて一律に行われる政令恩赦と,特定の者について個別に恩赦を相当とするか否かを審査する個別恩赦の2種類が定められている。また,個別恩赦には,常時行われる常時恩赦と,内閣の定める基準により一定の期間を限って行われる特別基準恩赦とがある。個別恩赦の申出に関する審査は,中央更生保護審査会が行っている。
(「令和元年版 犯罪白書 第3編/第1章/第5節/5」強調引用者)
「性暴力でも性犯罪でも赦せるのは(神を除けば)被害者だけなのに」とmanaasamiさんは述べておられるが、これに対する反論は次の二点である。
第一に、「性犯罪」においては誰が誰をpardonするのか。「恩赦 pardon」は「内閣の定める基準」や個別の審査に基づいて行われ、その対象は刑に服する者である。その場合には、例えば、政府などがpardonの主体である。よって、こと「性犯罪」の文脈では「被害者だけ」がpardonを行うわけではない。
第二に、私は書評の中で「神を除けば」という例外を置いていない。それゆえ、この点でmanaasamiさんとは意見を異にする。もとより小松原さんは、一神教の「神」であれ多神教の「神」であれ、そもそも「神」という超越者の視点を本書の中で取り扱ってはいない。したがって、本書の中で「神」の立場を措定すると、書評の観点からの逸脱と見なされる、と私は考える。
とはいえ、もちろん小松原さん自身は、ジャック・デリダの〈赦し pardon〉からヒントを得て、その〈赦し〉を自ら実行に移そうと試みたのであり、そしてデリダの〈赦し〉がユダヤ教・キリスト教・ヘブライ教の伝統における「神」を前提としている*3から、「神」という例外を措定しても問題ないのではないか、との再反論を戴く可能性がある。しかしながら、それはユダヤに出自を持つデリダ自身の〈赦し〉にはそのような可能性があっても、小松原さんが本書の文脈では「神」を前提とした〈赦し〉を描いておらず、むしろデリダにヒントを得つつも、「神」という宗教上の文脈からは脱文脈化した上で、自らの〈赦し〉を実践に移した経験が語られているのである。よって、小松原さんの語りに対して安易に「神」という前提を持ち出すことが、読解を通じての無自覚の暴力につながるのではないか、と私は危惧する。
おわりに
このあとに、本当は「ジャック・デリダの〈赦し〉」や「小松原さんの〈赦し〉」について項目を立てて書こうか(書くべきか)と考えたが、すでにだいぶブログにしては長くなりすぎてしまったので、ひとまずこれにて筆を置かせていただきたい。
文献
*1:「赦しがあるためには、取り返しのつかないことが思い出され、それが現前し、その傷が開いたままでいることを要します。もし傷が和らぎ、癒合したら、赦しの余地はもはやなくなります。もし記憶が喪や変形を意味するならば、そのときは記憶はそれ自体、すでに忘却になります。このような状況の恐ろしい逆説とは、そのような赦しを与えるためには、たんに加害や犯罪を被害者が思い起こす必要があるだけでなく、そのような喚起が、傷が加えられたときと同じくらいになまなましく傷と痛みを呼び起こすのでなければならないということです。」(ジャック・デリダ『言葉にのって』筑摩書房、2001年、202〜203頁)。
*2:「第一に、赦しというこの観念を再活性化させかつ転移させるとりわけそうした政治的諸論議において、世界中で、ひとが曖昧さを維持させているからである。ひとはしばしば、ときには計算された仕方で、赦しを隣接的な諸主題と混同する:陳謝、遺憾、恩赦、時効等々。これらは多くの意義を含んでおり、そのうちの幾らかは法に、刑法に属する意義をもっているわけだが、しかし赦しは原理的には刑法に対して異質的で換言不可能であるにとどまらなければならない。」(Derrida, Le siècle et le pardon, 103-104,川口茂雄訳)。
*3:「赦しの概念がいかに謎めいたものにとどまるとしても、実際上、ひとがそれに当てはめようと試みる場面、形象、言語活動は、或るひとつの宗教的伝統(アブラハム的伝統と言っておこう、それにはユダヤ教、諸キリスト教そして諸イスラム教が取り集められるから)に属している。」(Derrida, Le siècle et le pardon, 104,川口茂雄訳)。