まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」へのリプライ

目次

はじめに

先日私は「読書前ノート(11)」で小松原織香『当事者は嘘をつく』(筑摩書房、2022年)の書評を書いた。この書評への感想が届いた。

manaasami.hatenablog.com

はてなブログ内で書いた記事が言及されると通知が届く仕組みになっている。この通知から私はid:manaasamiさんが私の書評に言及したことを知った。manaasamiさんも小松原さんの著書に感想を寄せている。

manaasami.hatenablog.com

 とりあえず今日の時点では『あなたの感想は私に届きました』ということだけが書ければよいと思う。

 書き手は「性行為に同意しているのになぜレイプというのか」で悩む。そして仮説を立て分析していかれる。私はそれを読むほどに「違うんじゃないかな」「なんかズレまくってる」と感じてしまう。

どうしても刑法で犯罪を立証するために質問している人が思い浮かぶ。もし性犯罪にあって告訴するとこういう質問を浴びせられるのか、と想像して重い気持ちになる。

manaasami「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」2022/10/08

manaasamiさんが述べているように、理解の水準としてはズレているのだと思う。それは私の限界だと認めるし、私自身もズレているように感じている。ただし、「ズレている」ということがどう「ズレている」のかを説明することが、どうやっても難しいのだ。

語ることの難しさ

 ひとつには、〈性暴力〉の何たるかを語ることが難しいということである。率直に言うと、私には小松原さんの文章からどうしてそれが〈性暴力〉なのかがほとんど読み取れない。書評は小松原さんの著書への書評であるから、性暴力一般の話ではなく、小松原さんの書かれた著書のテクストをベースにして〈性暴力〉について理解しようと努めたのだが、そのことを文字として書き起こせば起こすほど、〈性暴力〉の内実からはかけ離れていく。このズレを埋め合わそうと頭を使い、文章に書き起こして理解しようとすればするほどそのズレは広がっていく。その結果、どうしようもないグロテスクな書評が生まれる。

 そのような書評が書き起こされてしまったからには、わざわざ公開しない方が良かったのかもしれない。だが、私の書評のような文章が生まれてしまったのも事実である。私は自分の書いたものは、出来が良かろうと悪かろうと、公開することにしている。それがブログのいいところだからだ。

忘却なのかわざと書かなかったかは不明だが・・・着用があれば性暴力ではないとおっしゃるつもりか。妊娠の不安を与えることは性暴力の必須要件なのか? であれば、男性や子どもへの性暴力は存在しないことになるが(冷静に書くつもりが怒りが出ちゃってすみません)

書き手が真摯に分析を試みていらっしゃることは疑わないが、これはズレすぎだ。加えて言えば、当の行為が初体験であるかないかも、それが性暴力であるかないかには無関係。

manaasami「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」2022/10/08

私は「着用があれば性暴力ではない」とは述べていない。が、「その出来事を〈性暴力〉と規定する際にはコンドームの着用有無の記述は必要ではないのだろうか」という一文が、「着用があれば性暴力ではないとおっしゃるつもりか」というような誤解を与えることは、理解できる。だが、読み手の私にとって理解の妨げとなっているのは、小松原さんの叙述から彼女の体験したことが〈性暴力〉だと規定する要因がほとんど読み取れないことである。性暴力を体験したあなたにはその経験から容易に想像できても、私にはわからない。性暴力はコンドーム着用有無によっては説明され得ないし、性暴力は初体験と関係なしに起こり得る、というのはその通りだろう。

 でも〈性暴力〉って一体何?

 どうしたら〈性暴力〉を説明できる?

 書評を書いた後も、自分の読みは「何か違う」というのは感じていた。それで性暴力に関する文献を集めて休日に少しずつ学んでいる。それでも性暴力の何たるかを言語化できずに日々を過ごしていた。

小松原さんの自認の通り性暴力だろう。性を理解できない子どもなら、その時点ではわからなくて多分おとなになってから自認する。でもおとなの女性が暴力と性暴力を取り違えることなど絶対ない。どちらが重いとか辛いという意味でなく、完全に異質だからだ。(暴力を伴う性暴力は多く存在すると思うが)

そして私もその異質さの説明ができない。論理でなく体感しているからだ。その体感したものを言語化することを、脳が拒むような気がする。記憶は多分あるが詳細を思い出したくない。その記憶が正確かどうか確認する必要も感じない。

manaasami「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」2022/10/08

manaasamiさんによれば、「暴力」と「性暴力」とは「完全に異質」であり、「暴力」を伴う「性暴力」はあり得る、という。そうか、と私は思う。と同時に、それ以上語ることばを私が持たないことを知る。じゃあ『「暴力」を伴わない「性暴力」って一体何だろう?』とも考える。パッと考えてもすぐには分からない。わからないけれども、そういう「性暴力」もあるかもしれない。こうやって論理で考えると、またどんどんズレていく可能性がある。「性暴力」に対する理解力の途方もないズレを自覚するやいなや、「性暴力」について私は読めないし書けないのだと知る。

書評後に考えたこと

 書評を書いてからしばらくの間、ぼんやりと考えていたことを最後に書いておく。本当はまだ言語化しようと思っていなかったことだけど。

 

 ジャン=ジャック・ルソーは『言語起源論』の中で、人間のコミュニケーションの仕方を、人と人の距離によって区別している。ひとつが腕の長さまでの距離、もうひとつが視線の届くところまでの距離、もうひとつが声が届くところまでの距離である。それぞれのコミュニケーションの仕方は、触覚、視覚、聴覚を刺激する。

sakiya1989.hatenablog.com

 翻って〈セックス〉もひとつのコミュニケーションの様式と考えたらどうか。ここで〈セックス〉は、個人がセクシュアリティに関してそうだと思うすべてを意味すると仮定する(こうでも仮定しないと、個人のセクシュアリティは多種多様であり、具体的にそのすべて挙げきることはできないからである)。〈セックス〉は触覚、視覚、聴覚だけでなく、匂いを感じる嗅覚も、味を感じる味覚も、つまり五感のすべてを刺激する。刺激されているのは身体そのものであり、オーガズムは脳で感じる。しかしながらこれはあくまで物質=身体そのものの話である。話を単純化するために、心身二元論で話を進めよう。

 暴力が侵害し破壊するのは物質だが、性暴力が侵害し破壊するのは精神である。精神を侵害し破壊する〈セックス〉が性暴力だとすれば、それは五感のすべてを介して為されるが故に、通常の言語を介したコミュニケーション以上にどぎついものとなる。性暴力による精神の侵害と破壊は、よって身体に記憶される。こう考えると、たしかに暴力と性暴力は違う。

 もう一つ、「性的同意」について。性的同意の問題が二重に起こっていて、性的同意の尊重が日本においては十分に認識されていなかったということ(これについては最近では啓蒙され始めている)と、性的同意の有無が司法では不必要に考慮されているということである。性暴力を起こさないために「性的同意」は必要条件だが、「性的同意」は性暴力回避の十分条件ではない。性行為の最中に状況が変わり、相手が豹変することはあり得るからだ。だが十分条件ではないにもかかわらず、刑法の文脈では抵抗しないことが性的同意とみなされ、類推適用されてしまう。そもそも性的同意の有無は、それが性暴力であったかどうかを判定する材料にならないはずなのに、刑法の文脈で性的同意の有無が重要視されていること自体がおかしい。ただし、これは一般的な問題提起であって、小松原さんの著書や感想とは無関係の話である。

〈赦し〉の文脈

manaasamiさんは〈赦し〉の方に関心があると述べていた。これについては今日は書けそうもない。

私はここで<赦す>という言葉が出る意味がわからないし気になる。小松原さんが研究している修復的司法も<赦し>を目的にはしていないはずだ。

manaasami「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」2022/10/08

私が書評で用いた〈赦し〉(「そもそも〈性暴力〉が「被害者のリアリティ」に起因するのだから、その原因である被害者以外の一体誰が、その〈性暴力〉を〈赦す〉ことができよう」という一文について)は、小松原さんが著書で用いた〈赦し〉の文脈とは噛み合わない、というご指摘かと思う。だが、私の書評でも「小松原さんが研究している修復的司法も<赦し>を目的に」しているとは書いていないのだが。この点についてはもう一度本書に立ち返って吟味させてほしい。