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ヘーゲルと医学——解剖学・有機体・病理学(2)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ヘーゲルの「病気」概念:孤立と自立

 本稿では、ヘーゲルがいわゆる『法哲学』で政治社会を有機体に擬えて論じた次のパラグラフについて考察してみたい。少し長くなるが前後の文脈を含めて引用する。

過去の封建的゠君主政体においては、国家はたしかに対外的には主権をもっていたが、しかし、対内的には君主だけではなく、国家も主権をもっていなかった。国家および市民社会の特殊的な職務と権力が独立の団体〔ギルド〕や共同体に専有され、したがって、全体は有機的組織であるよりはむしろ凝集体であったこともあるし(273節注解参照)、また、特殊的な職務と権力が諸個人の私的所有物であり、そのために彼らが全体を顧慮しておこなうべきことが彼らの臆見や好みにまかされていたということもあった。——主権性を形成する観念論は、動物的有機的組織において、それのいわゆる部分 Theile が部分ではなく、分肢すなわち有機的契機であり、部分が孤立化し、それ自身として存立することは病気(『哲学的諸学のエンツュクロペディー』293節)であるというのと同じ規定である。この観念論は、また、意志の抽象的概念(次節注解をみよ)において、自分自身に関係する否定性として、したがって、すべての特殊性と規定性とがそこでは廃棄されたものである、自分を個別性へと規定する普遍性(7節)として現れたのと同じ原理、すなわち自分自身を規定する絶対的な根拠である。これらのことを把握するためには、一般に、概念の実体であるとともに、真実な主観性であるものの概念に精通していなければならない。

(Hegel1820: 283-284,上妻ほか訳(下)257〜258頁)

先ず最初に「したがって、全体は有機的組織であるよりはむしろ凝集体であった das Ganze daher mehr ein Aggregat als ein Organismus」という箇所に関して補足しておくと、ヘーゲルは本書の中で単なる「集合体」のことを「原子論的、抽象的見解 atomistische, abstracte Ansicht*1」(303節注解)と呼んで、繰り返し原子論的見解を批判している*2。この原子論的見解を仮想敵としてヘーゲルが支持しているのが「有機体論 Organismus」である。したがって、ヘーゲル国家哲学の秘密、そのライトモチーフは、健康な身体性に求められる。この点でヘーゲルは、国家社会(コモンウェルス)を人体組織に擬えたホッブズと肩を並べるのであるが、しかし国家の発生学である社会契約論が原子論的な「寄せ集め」に立脚している点で、ヘーゲルはそれとは違う立場を取っているというポーズを示しているのである。原子論が有機体論に至らないのは、錬金術師が様々な元素・物質の寄せ集めから人体を錬成できないことに似ている(荒川弘鋼の錬金術師スクウェア・エニックス)。

 ここでいま最も問題となるのは、「動物的有機的組織において、それのいわゆる部分が部分ではなく、分肢すなわち有機的契機であり、部分が孤立化し、それ自身として存立することは病気である im animalischen Organismus die sogenannten Theile desselben nicht Theile, sondern Glieder, organische Momente sind, und deren Isoliren und Für⹀sich⹀bestehen die Krankheit ist」という箇所である。ここでヘーゲルは、身体の局所的な「孤立」「自立」を、「病気」の概念として規定した。本来このことは十分に議論がなされるべき焦点である。というのも、ヘーゲルがその事態を「病気」と呼ぶからには、それがどこまで「病気」と呼んで差し支えないのかを吟味する必要があるからである。

 「部分が孤立化し、それ自身として存立する」というのは、まるで『ワンピース』(尾田栄一郎集英社)に登場するバラバラの実の能力者バギーのように、身体がバラバラに存在する状態を指している。もちろんバギーのように身体が分割された状態では、切り離された四肢はもはや四肢ではなく、部分として死んでしまう。身体の切断面は適切な処置を施さなければ壊死してしまうかもしれない。

 我々がバギーのようなバラバラ人間になるためには、誰かが四肢を切断しなければならない。そうしてはじめてヘーゲルのいう「病気」の状態になるのだから。しかし、これは通常我々が呼んでいるところの「病気」の概念とは異なっている。我々は、例えば風邪やインフルエンザにかかるとき、それはまさしく病気に他ならないのだが、身体の方はバラバラではない。

この統一には、胃と身体の他の分肢とについての寓話があてはまる。あらゆる部分が同一性に移行せず、一部分が独立したものとして定立されると、いっさいが瓦解せざるをえないというのが有機的組織の本性である。

(269節追加、上妻ほか訳(下)211〜212頁)

身体の一部分を独立させる手術は実際になされているが、それで「いっさいが瓦解」するような事態は起きていない。たとえ事故で手足を失っても、消化器官を切除しても、はたまた望んで性器を切除しても、生きながらえるよう医療技術は進歩している。ヘーゲルの政治哲学が堅固な基盤を持っていることを示すためには、そこに用いられている有機体論とその背景にある医学思想が十分に吟味されねばなるまい。この点については、フーコーが「社会医学の誕生」と呼んでいるある段階、すなわち医師が身体を局所的に分析できるようになった時代についても見ていかねばならない。

(つづく)

文献

*1:「見解 Ansicht」は、その語に「即自 Ansich」を含む。したがってそれはまだ萌芽的で、未熟な段階にあると考えられる。また例えば「私念 Meinung」と同様に、それは否定されるべき契機として示されている。

*2:「というのも、この問いは、いかなる国内体制も存在せず、したがって諸個人の単なる原子論的な寄せ集めがあるだけだということを前提としているからである。」(273節注解、上妻ほか訳(下)250頁)。「それは、君主権がとして孤立し、それによって単なる支配権力や恣意として現れるということもなく、また共同体や職業団体および諸個人の特殊的利益がたがいに孤立することもなく、あるいはまた、個々人が烏合の衆寄せ集めの群衆の表現にはならず、したがって非有機的な臆見や意欲、および有機的に組織化された国家に対抗する単なる集団的な暴力となることもないということである。」(302節、上妻ほか訳(下)304頁)。「国民ということばは個々人としての多数者の意味で理解されがちだが、この多数者は、たしかにひとつの集まりではあっても、しかしただ烏合の衆としての集まりにすぎない」(303節注解、上妻ほか訳(下)307頁)。