はじめに
どんな領域においても現代においてはジェンダーの問題を取り上げることなしに論じることはできない。哲学もまたそうである。私が繰り返し取り上げているヘーゲルの場合はどうだろうか。そもそもジュディス・バトラー自身がヘーゲル研究をバックボーンとしていることはよく知られている(バトラー『欲望の主体』)。だが、ヘーゲルの難解なテクストのうちにヘーゲルのジェンダー観を浮き彫りにすることは、ヘーゲルが男女の性別役割分業を論じた家族論*1の箇所を除いては難しいように思われる。
ヘーゲル社会哲学のうちなるジェンダー観
ヘーゲル哲学のうちにヘーゲルのジェンダー観を炙り出すとなれば、真っ先に参照されるべきは『法哲学綱要』だろう。だが、その試みは、男性や女性というキーワードが出ていない箇所にヘーゲルのジェンダー観を読み取ることなしにはなし得ない。
ヘーゲルのジェンダー観が最も顕著に現れているのが『法哲学』第166節であろう。石川伊織「家族の限界・国家の限界 または自然の捏造」(『現代社会におけるグローバル・エシックス形成のための理論的研究』 平成15年度~18年度 科学研究費補助金 基盤研究(B) 課題番号15320005 最終報告書所収 2007年3月19日)と合わせて読まれることが望ましい。
第166節
それゆえに、一方の性〔男〕は、みずからを、対自的に存在する人格的自立性と、自由な普遍性の知および意欲とへ分割するものとして、すなわち概念によって把握する思想の自己意識と、客観的な究極目的に向かう意欲[へと]分割するものとして精神的なものである。——他方の性〔女〕は、具体的な個別性と感情の形式において実体的なものを知り、意欲するものとして、一体性のうちに身を保持する精神的なものである。——前者は、対外関係において力強く活動的であり、後者は受動的で、主観的なものである。それゆえに、夫は、自分の現実的で実体的な生活を、国家や学問などにおいて、またそのほか、外的世界および自分自身との闘争や骨折りにおいて営み、したがって、自分との自立的な一体性を自分の分割からのみ戦い取るのであって、この一体性の静かな直観と感情的で主観的な人倫とを家族においてもつのである。その家族のうちに妻はみずからの実体的な使命をもち、こうした恭順のなかでその人倫的な志操をもつのである。
(Hegel1820: 173、上妻ほか訳(下)47〜48頁)
第三部倫理の市民社会と国家の章の叙述は、それとはなしに男性の観点から描かれており、その反面、女性の役割はもっぱら家族章のごく一部に限定されている。市民社会で働く男性は、家族では家長の役割を果たしている。ただし、これはヘーゲル自身のジェンダーバイアスというよりはむしろつい最近までの我々の時代まで長らく続いた社会全体のジェンダーバイアスであったことはいうまでもない。
人間のライフサイクルないしライフイベントといえば、一般的に考えられるものとしては、学校の入学、卒業、引っ越し、結婚、出産、就職、昇進、退職、その他冠婚葬祭にあたるもの等がある。第三部倫理では、家族と市民社会と国家がそれぞれ理念的に区分されているが、実際には一人の人間の経験するライフイベントは単線的ではなく、パラレルな構造をなすはずである。
或るひとが市民社会の職業団体において仕事に励み、そこで愛国心を高めて議会に行くとする。ヘーゲル法哲学の世界は代議制民主主義ではなく、職業団体の代表として議会に行くことになっているので、この現代社会と一致しない点は一旦措いておくが、市民社会と国家におけるこうした叙述は基本的には男性の活動として描かれ、女性の社会進出を阻んでいるように見える。その背後では、女性のいわゆる「シャドウワーク」(イリイチ)があり、家族の圏域で女性による子育てが行われているのではあるまいか。ヘーゲルの叙述によれば、子どもは「養育され、教育される権利」を持っているが、男性がいわゆる「イクメン」として子育てに参加する気配はない。もちろん記述されていないというだけかもしれないが、男性が教育を行う場面があるとすれば、市民社会において公教育を担う福祉行政の役割を果たす場合であろう。
おわりに
ヘーゲルの社会哲学が以上のごとく男性中心主義的に見えるのは、読み手としての私自身の問題なのだろうか。ヘーゲルの叙述は理念的であって、「男性が〜〜する」というような描き方はなされていないので、読み手である私自身のジェンダー観がただただ反映されているに過ぎないとも言えよう。しかし、ヘーゲルの理念的な記述のうちにもジェンダーバイアスが垣間見えると考えた方が納得いく場合が多いことも事実である。ジェンダー学は近年になってようやく発展を遂げたものであって、1820年の時点ではそのフクロウはまだ飛び立っていなかった。それは、ヘーゲル『法哲学』刊行200年経った今になって、ようやく飛び立てるようになったばかりなのである。