まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

成田悠輔「集団自決」発言について(3)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

筆者と小田さんとのやりとり(2)

 昨日までに整理した点を踏まえて、ヘーゲル法哲学における「集団自決」の位置付けをめぐって、昨日、筆者(荒川)と小田さんとのTwitter上で再びやりとりをさせていただいた。個人的には非常に面白い議論がなされているので、以下でご紹介させていただくことにする。

小田:私との応答まできちんと整理していただいて感謝します。ただ、ヘーゲルの言う自殺(→自決につながりうる)については、〈ヘーゲルは人間と動物の違いとして、人間は自殺できるが動物は自殺できないという点をあげている。人間が自殺できるのは理性があるからであり、動物はそうでない。〉という整理は、ヘーゲルの議論をいささか単純化していませんか?荒川さんの念頭にあるのは法哲学第5節だと思いますが、ヘーゲルは自殺を悟性による一面的な自由と記しています。人間は実際自殺はできるけれど、そのような権利はない(第70節)、という点で一貫していると思います。理念に身を捧げたその結果としての死は肯定されていますが、個人に自分の生命を自由にする権利はないというのがヘーゲルの考えだと思います。経済合理性とは、現在の私たちの言葉づかいとしては不自然ではありませんが、ヘーゲルはそこにRatio=理性を認めるでしょうか。私には疑問です。

 

荒川:お読みいただきありがとうございます。小田さんとの会話も一部収録しております。「自殺」について小田さんが繰り返し触れておりますが、成田氏のいう「集団自決」に関しましてはヘーゲルが§5Zu.や§70Zu.で触れている「自殺」とはいちおう区別する必要があると私は考えています。成田氏の「集団自決」発言は、現代社会に蔓延る経済合理性に則った上で、労働生産性の低い会長職に対して退陣を要求する皮肉であり、我々労働者が受けている受苦を「集団自決」というどぎつい言葉で突きつけているものである点には留意しておく必要があると思います。

 

小田:成田さん、麻生太郎については野獣系(?と聞こえた)なんて皮肉りながらも、老人はさっさと死んでくれた方が良い、とか何とかいう麻生を何だか貴重な存在とみなしてらっしゃるようですね。申し訳ありませんが、権力者にスマートに尻尾を振っているようにしか見えませんでした。

 

荒川:「緒論」§5や第一部「抽象法」の§70を根拠としてヘーゲルの意志論が「集団自決」を肯定することになるだろう、と単純化しているわけではありません。成田氏の「集団自決」発言は、繰り返しになりますが、倫理の問題であるからには、第三部「倫理」の段階まで進めて考えなければなりません。

 

小田:いや、私は成田さんなんかどうでもいいんですよ、申し訳ありませんが。荒川さんが、ヘーゲルの意志論が「集団自決」にまでつながりうる、とおっしゃった、そこに疑問を抱いているのです。

 

荒川:これは最初から成田さんが用いている「集団自決」の文脈に即した限りでの話ですよ。

 結局のところ、対外主権との兼ね合いで、国家間の主権をめぐる争いというステージに至っては、個々人の生命は国家のための犠牲にされるわけです。それは「自殺」とは区別されますが、理性によって命が差し出されていることは明らかです。しかしそのロジックはやはり批判されなければならないでしょう。マルクスがどこかで書いていますが、我々は非常時に武力を用いた戦争を行っておりますが、その一方で常時、経済戦争を行なっているわけです。経済戦争で命を落としている実態があり、それは経済合理性が優先されたが故です。

 

小田:そこは、私は昔から嫌いなんですって。ヘーゲルは戦争で戦闘員が命を落とすことは当然だと考えている。また、ギリシャのポリスの例で言えば、市民が戦闘に参加するのも当然だと考えています。でも、「集団自決」はどうなの?というのがずっとコメントさせていただいている理由なんです。

 

荒川:個体としての国家の生命を維持するために戦争で個々人の生命が差し出されうるロジックがヘーゲルの中にあるとするならば、同様に国家の生命を維持するために老害化しうる高齢者の集団自決も正当化しうると思いますよ。

 

小田:荒川さん自身が言っておられることですが、戦争は国家が対外的な関係において行うことです。「老害化しうる高齢者の集団自決」は、成田さんもドメスティックな問題の解決策?として提起しているんじゃないでしょうかねえ。ちょっとそこは荒川さん、先走り過ぎているんじゃないか、と疑問なんです。

 

荒川:少なくとも僕の意見としては、成田さんの提唱する「高齢者は老害化する前に集団自決」という解決策は実効性はなく上手くいかないだろうという見通しになります。誰もがいずれ高齢者になりますし、集団自決を慣習化するのは嫌がるだろうというのが理由です。これはヘーゲルとは関係なしに、の話ですが。したがって、「高齢者の集団自決」が高齢化社会と階級社会へのドメスティックな解決策となり得るかと言われれば、疑問符がつきます。しかし「市民社会」における経済戦争は国境を超えてグローバル化している為、そもそも「ドメスティックな」ものとしてカテゴライズできないと思います。

 

小田:まあ、日本は先頭を切って超高齢化社会になっていますが、さまざまなデータによれば現在「先進国」とされている国々も将来は多かれ少なかれ高齢化社会になる、日本が率先して姥捨て山をやって世界に範を示すのも良いでしょう。ただ、それはもうこの国が貧しいからで、経済戦争は決着がついています。

 

荒川:問題は個々人の生命よりも個体としての国家の生命の方が優先されてしまう点にあると思います。そして仮にヘーゲルのロジックの中に「集団自決」を正当化するものがあったとして、それが良いことだとは思いません。

 

小田:基本的な図式として、ヘーゲルは国家を市民社会が解決できない問題を解決するものと位置づけていますよね。その国家も、国家同士の関係になったら戦争になって、市民に戦闘参加を要求し、市民が戦闘に倒れることもありうる、と。私はその論理は肯定しません。ですが、ヘーゲルの理屈では、市民社会に「お前らの抱えている問題は国家じゃ解決できないから、何人か死んでくれるか?」と国家が要求するのは国家の死になるんじゃないか、と。もちろん、ヘーゲルの考える市民社会と国家の関係なんて絵に描いた餅よ、と切り捨ててしまえば、国家主義になったら何でもありよ、にはなりますけどね。

 

荒川:そうですね。「国家の死」になるという点は同意です。ヘーゲルが国家を市民社会が解決できない問題を解決するものと位置づけているかという点に関しては(そういう図式が一般的なのは承知しておりますが)、そもそも国家と市民社会では取り扱われている問題のカテゴリーが違うのではないかと思います。市民社会の問題は市民社会内部で解決策が図られています。それは例えばポリツァイやコルポラツィオンという制度を通じて解決が図られています。国家として立ち向かう問題はそれとは次元が違っていて、市民社会における多様なコミュニティを統合するものという位置付けと、対外国家との関係が問題です。

 

小田:たしかにカテゴリーは違うでしょう。ただ国家にはもはや多様なコミュニティを統合できないから、「高齢者の皆さん、死んでください、国家が要求したとなれば外聞が悪いので、自決してください、市民社会から自発的にそんな声が出てくれると好都合です」ってことですよね。

 

荒川:「高齢者は老害化する前に集団自決」なんて発言も、日本という国民国家単位の生産性を高めることを是認するようなイデオロギーを前提としないかぎりは成立しません。話が飛んで申し訳ないのですが、スミスが『国富論』冒頭で述べている未開民族が漁労に出れない人を養う共同体の方がまだマシだと思います。日本という国民国家単位での生産性を高めようとするから、ご存知のように新自由主義的政策を主張する人々が出てきます。経済戦争は武力戦争とは異なりますが、現に我々は「国家のために死ね」と言われているのと同義だと思います。

 

小田:実際にはカネのために死んでいるのに、「国家のため」と思いたい、ってところじゃないでしょうかね。まあ、グローバル資本主義という点で言えば、市民社会の上?の国家というヘーゲルの図式は最初から成り立たないとは言えると思います。

 

荒川:そして成田氏が「高齢者は老害化する前に集団自決」と述べているのは、新自由主義的政策のもとで利権を得ている人に対する当て付けや皮肉であるという文脈は少なくとも理解する必要があると思います。

 

小田:そこは私にはさっぱりわかりません。まあ、私は成田さんには興味がないのでどうでもいいんですが、具体的に誰に対する当てつけや皮肉なんですか?

 

荒川:重鎮経営者に対してですよ。

youtu.be

 

小田:動画はまだ見ていませんが、竹中平蔵麻生太郎に言ってくれるとわかりやすいんですけどね。

 

荒川ヘーゲルは一方で人間に自殺の行為能力を認めつつ自殺する権利は認めないが、他方で戦争に駆り出されることは必然的だといいます。戦争したら死者が出ることは明らかですから、戦争に参加することは個々人の立場からすれば自殺しにいくようなものです*1。この点でヘーゲルは首尾一貫していないと思います。もし自殺する権利を認めない点で首尾一貫させるのであれば、戦争の契機は回避されなければなりません。戦争の回避はカント的な永久平和構想に近づきますが、ヘーゲルはそこと袂を分かっていますね。ヘーゲルの現実性はその点で矛盾を含んでいますし、その矛盾を包含[している点]がヘーゲルらしいとも言えます。

 

小田:自殺しに行くんじゃなくて「殺されに」行くんじゃないでしょうか。そこは大きな違いだと思いますよ。私はそこはヘーゲルは一貫していると思うんですね。

 

荒川:「殺されに」行くということは、ヘーゲルとしては外から受けとられた死であるから容認できると。でも、そういう死のあり方を肯定するロジックは、批判されなければならない、というのが最初から私が述べてきたことです。

 

小田:ああ、問題がまた振出しに戻っちゃった。別のところで私は「姥捨て山」という例を出しました。実際にそういう習慣のある地域があったかどうか議論のあるところですが、「間引き」はあったと聞きます。つまり、現に生きている成員が生きるために高齢者や生まれたばかりの赤ん坊を殺すってことです。私が「ドメスティック」ということで言いたかったのも、ある社会のなかで今生きている成員が生きるために、同じ社会の特定の成員を殺す、ということです。私はヘーゲル戦争論には与しませんが、「集団自決」も「姥捨て山」も「間引き」もどうもヘーゲルの理屈からは遠いと感じるんですね。精神現象学古代ギリシャのポリス論(精神の最初のあたり)も、ヘーゲルの戦争肯定論が出てきますが、今とっさにどういう言い方をしていたか思い出せませんが、ポリスの成員に、自分たちの命の根っこがどこにあるか思い出させるために時に戦争をしたりするんだ、ってな言い方をしていて、荒川さんの仰るとおり、戦争すれば死人が出るのは必定ですから、ポリスの人民の命を何が何でも守る、少なくともカントの言うように戦争の回避に努める、ってところはヘーゲルにはないのですが、それでも人民の命を普段は保証しているからこそ、戦争に際しては人民に戦闘を命ずることができる、というのがヘーゲルの国家のイメージなんだと感じるわけです。「人民の命を普段は保証している」という担保がないとヘーゲル戦争論は成り立たないと思うんです。その辺に、ヘーゲルのリアリズムを感じるんですね。まあ、これはあくまで私の読み方です。

 

荒川:およそ小田さんのそのような読み方で間違いないと思います。

 

小田:で、先ほども書きました通り、ドメスティックには皆さんの命を保証してますよ、を反故にして、もうどうにもなりませんから、年寄りは姥捨て山に捨ててください、って言いだしたら、「国家の威信」(笑)もクソもないだろ?ってのが、ヘーゲルから「集団自決」に行くかぁ?という疑問になるわけです。

 

荒川:そもそもヘーゲル法哲学にあってドメスティックに人民の命を保証しているのは国家ではないですよね。保証しているのは市民社会の内部のポリツァイとコルポラツィオンであって、政治的国家ではありません*2。なので「国家のために死ね」と言っても「国家の威信」が折れることはないのではないですか。国家が人民の生命を保証している、という理解では、ヘーゲル以前の社会契約論の図式に戻っている気がします。ヘーゲル法哲学の図式では、市民社会市民社会の内部で経済的矛盾を解決することを試みている、と私は理解しています。

 

小田:ま、私のヘーゲルの読み方が間違っている、ってことでけっこうです。

 

荒川ヘーゲルはそのテクストで「集団自決」も「姥捨山」も「間引き」も取り上げておらず、その思想からもかけ離れているかもしれませんし、ヘーゲルの読み方は各々あると思いますが、いずれにせよこれらを倫理の問題として捉え検討していく必要はあるんじゃないですかね。19世紀のコンテクストに限定せず。小田さんがかなりのヘーゲル読みでしたので、また私が最近ヘーゲル法哲学から離れていたこともあり、議論がとても刺激的でした。個々の解釈で私にも間違いがあり、全てのトピックをフォローできませんでしたがその点はご容赦ください。

 

Twitter 2023年1月18日〜1月19日)

以上が筆者と小田さんとのTwitter上のやりとりである。Twitterでのリプライという形式を取っているため、若干議論が錯綜しているように感じられるかもしれない。

 筆者が問題としていたのは、成田氏の「集団自決」の件をセンセーショナルに受け取っているTwitter上の批判者がそれを倫理的な問題として言及している際の、その「倫理」の用語法である。そこで筆者が引き合いに出したのがヘーゲル法哲学における「道徳」と「倫理」の区別であり、それをさらに「集団自決」というトピックに絡めて言及したのである。成田氏の主張は100年後には忘れ去られているであろうが、哲学者の主張は200年でも2,000年でも生き続ける。したがって、成田氏のレトリカルな「集団自決」発言を批判するならば、そのような小物以上に耐用年数が長い言説である哲学者のそれを批判することの方がよっぽど重要だ、というのが筆者の主張である。これに対して小田さんが主に疑問視しているのは、最終的に「集団自決」を肯定するようなロジックがヘーゲルのテクストにあるという筆者の主張である。この点に限り、小田さんはヘーゲル法哲学の解釈をめぐる問題について議論したかったのであって、小田さんからすれば成田氏のいう「集団自決」の件はどうでもいい、ということになる。したがって、筆者と小田さんの解釈は次のように分かれている。

  • 結果的に「集団自決」を肯定するようなロジックが、ヘーゲル法哲学のテクストのなかにある。(荒川)
  • ヘーゲル法哲学のテクストは、「集団自決」を正当化しない。(小田)

 小田さんの主張は、直接的には、ヘーゲルのテクストに即したものであるように見える。だがそれは、成田氏のいう「集団自決」をヘーゲルのいう「自殺」と単純に同一視しているからではないか。筆者の考えでは、成田氏の「集団自決」とヘーゲルのいう「自殺」は同一視できない。一見すると、「集団自決」も「自殺」も人間の意志で行いうる自死であるように思われるかもしれない。だが、成田氏のいう「高齢者は老害化する前に集団自決」した方がいいという言説は、一面では資本の論理に支えられている。すなわち、労働市場において労働生産性が高いことが良しとされるというイデオロギーがなければ、「高齢者は老害化する前に集団自決」した方がいいという言説は成り立たないのである。ここで「高齢者」というのは、我々の周囲にいる「高齢者」ではなく、特別高い労働生産性を持たなくても数千万もの所得を得ている重鎮経営者のことを指していることは、成田氏の発言の文脈から明らかである。個々の人間が24時間という共通の時間配分の中で行える労働生産性はたかが知れているのだが、平均所得から著しく乖離した重鎮経営者がろくに仕事もしていないのに労働市場で甘い蜜を吸っていることに対する皮肉であり、しかも安月給で働く我々(ここには一般的な「高齢者」を含む)こそが労働生産性を厳しく追われているのである。こうした問題をデヴィッド・グレーバーは「ブルシット・ジョブ」と呼んでいる*3

 ヘーゲル法哲学の解釈に話を戻そう。ヘーゲルの意志論では、人間は自殺することができる。このことは経験的に明らかであり、ヘーゲルもこの点を認めている(§5)。ただし、自殺をファナティスティックなものと捉えており、良い意味では認めていない。それを踏まえて、第一部「抽象的な権利」の段階では、ヘーゲルは自殺する権利を認めていない(§70)。これはSF作家のアイザック・アシモフロボット三原則の第三条で唱えたように、自分の生命を放棄してはならないとされる。

第70節

 外的活動の包括的な総体性すなわち生命は、それ自身このものであるとともに直接的なものである人格性に対して何ら外面的なものではない。生命を放棄したり、犠牲に供したりすることは、むしろこの人格性が定在することの反対である。それゆえに、私は総じて生命を放棄するいかなる権利ももっていないが、人倫的理念だけは、そのもとでこの直接的に個別的な人格性が即自的には没落し去っているもの、また人格性の現実的な力であるものとして、生命の放棄の権利をもつ。そこで、生命そのものが直接的なものであると同時に、死もまた生命の直接的否定性であるので、死は、そとから、自然的なできごととして、あるいは、理念に身を捧げて、みなれぬ手から受け取られなくてはならないということになる。

ヘーゲル『法の哲学(上)』上妻精・佐藤康邦・山田忠彰訳、岩波書店、2021年、198〜199頁)。

自由に処分することができるのは人格性にとって外面的な所有物だけであって、生命は人格性の存在そのものであるから、自我に生命を放棄する権利はないとされる。ヘーゲルによれば、死とは外からやってくるものであって、自らの内在的な意志によって遂行されるべきものではない。ここだけ見れば、ヘーゲルのロジックからすれば、「集団自決」は自殺と同様に容認し難いものであるように思われる。だがそれは、「集団自決」を自らの内在的な意志によって遂行されると勘違いしているからである。成田氏が「高齢者は老害化する前に集団自決」した方がいい、と述べたことを受けて、仮に重鎮経営者が退陣=集団自決したとする。これは、はたして自らの意志で退陣=集団自決したことになるだろうか?自ら退陣するかその座に居座り続けるかによって、どちらが結果的に日本の労働生産性ないしはGDPの向上につながるかを比較衡量した上で、退陣=集団自決した方が望ましいからそうするのだとすれば、判断の基準は自らの内在的な意志にあるのではなく、客観的な指標(営業利益や健康、環境への配慮など様々な指標ではかられる)という外在的なものが指標になっている。ヘーゲル的に言えば、国家の権利と抽象的な個人の権利を比較して、最終的にどちらを優先するのかという問題である*4。自殺も同様に、ヤクザから借りた借金が返せなくなって無理心中とか、過労自殺に追い込まれるとかは、その人が生きる環境が自殺に追い込んでいると理解するのが理性のある判断であって、そうした自殺が個人の内在的な意志で行われているとみなすことは、事態を十分に理解しているとはいえない。ここで援用されるべきは、フーコー以降の主体=従属化理論であって、我々はいかにしてそれがあたかも自らの意志で動いているかのように取り違えていて、国家と資本の論理をいかに内在化させて自己規律化しているのかを知ることが重要である。

 ヘーゲルは戦争を対外主権性のリアリズムに基づいて容認するが、事物に即していうならば、戦争は殺し合いであり、参戦した兵士は自分が死ぬことを知っている。戦争をすることは自殺に近づいていくことに等しい。極限に近づくにつれて、戦争は自殺と同義である。だが、戦争は外的な要因によってなされるから、その死はヘーゲルのロジックでは肯定されることになる。

 筆者は最初から「結果的には「集団自決」も肯定する」と述べているが、「結果的に」というのは、弁証法的にいうなれば、直接性の契機が否定されて、それを媒介として反省的に導出される結果であって、それが第三部「倫理 Sittlichkeit」という形態をとる。最終的に「戦争」において死が外的な形態で容認されるとすれば、「集団自決」という限りなく自分の意志に基づくように見えながらもしかし国家によって——というより一人当たり労働生産性GDPへの寄与というナショナルな指標によって強要される「集団自決」も、ヘーゲルのロジックならば許容するのではないかと考える。だがこれは批判されるべき事柄であって、我々がそれを許容する必要はない。むしろ現代に必要なのはヘーゲルのそれを乗り越えるようなロジックである。宗教批判は終わったとしても、ヘーゲル法哲学批判はまだ終わっていないのである。

 

追伸:小田さん、夜分遅くまでやりとりしていただきありがとうございました。

*1:ヘーゲルはこのことを「意欲された消滅」と呼ぶ。この点については拙稿「ヘーゲル『法の哲学』覚書:「対外主権性」篇(6)」(2021年11月25日)を参照されたい。

*2:この点に関しては拙稿「ヘーゲル『法の哲学』覚書:「対外主権性」篇(5)」「「国家」を「市民社会」と取り違えてはならない」(2021年11月11日)を参照されたい。

*3:グレーバーの「ブルシット・ジョブ」については拙稿「グレーバー『ブルシット・ジョブ』覚書」(2020年7月31日)を参照されたい。

*4:もしホッブズのような思想家ならば、自らの死を前にしては個人の権利が優先される。これに対して、ヘーゲル法哲学の中で契約論的な国家観を批判しているので、単純に社会契約論と同様のロジックを取ることはできない。