今回は「思想は文体に宿る」というテーマについて5分だけ考えてみたい。
僕は自分の書いた文章をChatGPTに読み込ませて評価させるということをやっている。ChatGPTに評価させる文章は、僕の日記だったり、このブログのために書いた記事だったりする。
それでChatGPTに評価してもらったあとに、「この文章を改善して全面的に書き直して」とお願いすると、僕の文章の飛躍や論理展開の甘い部分、一般的な読者にとって読みにくい箇所を噛み砕いて比較的読みやすい文章に変えてくれるのだ。
ところが、である。
ChatGPTが書き直した文体は、僕が書いた文体とは全く異なっている。もちろん主張している内容はおよそ同じものをなぞっているのだが、改行が多く、「AIが書き直した感じ」は否めない。もっというと、生成AIの書く文章は、下品なウェブサイトの書き方だ。はっきり言ってこんな文体、学校では習わない。生成AIは文章が得意なくせに、文章作成のルールを学ばなかったのか?
したがって、今回のテーマである「思想は文体に宿る」とはどういうことかというと、いくら似たような内容だとしても、文体が違えばそこに込められた思想には大きな違いがあるということである。教養の違い、と言ってもいい。「文体は思想を表す」と言い換えてもいい。否、文体こそが思想なのである。
この点を深く認識していたのがヘーゲルである。フォイエルバッハとマルクスがヘーゲルの文体に噛みついたのは、まさに文体こそが思想だったからである。何が主語で何が述語かというのは、思想を表現するための機微に関わる問題である。
生成AIが危険なのは、この機微に無頓着だからである。生成AIは文法的におかしいところや論理の飛躍を修正してくれる「のではない」。文体を刷新してしまうことによって、我々の思想そのものを改変してしまうのである。