目次
はじめに
生成AIが出力したデータを生成AIに食わせるとモデル崩壊が起きるというニュースを見るにつけて、今後は人間が自分の頭で考えて書いた/描いたものの、オリジナルとしての価値は高まると思う。
生成AIが出力したデータというのは、大規模言語モデル(LLM)に基づいた統計学的なモデルに依拠しているのであって、そのモデルを基にして繰り返し学習を行うことで生成AIのモデル崩壊が起こるということが一体何を意味しているかといえば、それは生成AIの入力と出力のサイクルは非可逆圧縮のようなものであって、決して可逆圧縮のようなものではないということである。そのサイクルの出発点は常に実在的世界の側にあるのであって、実在的世界を抽象化したモデルをいくら入力の元データに使おうとも、モデルの多様性は痩せ細って実在的世界から乖離してしまうのである。
最近、私が馬鹿みたいなエッセイを書き連ねているのも、こうした背景があるからである。ひと昔前なら、ちゃんと先行研究に当たって、自分のたんなる個人的な見解、つまり思いなし(Meinung)を取り除く、という作業が重要だったが、今は人間の生の思いなしをいかに書き残しておくかの方が重要になってきた。
心身二元論における知能と魂
生成AIが人間の知能(intellectus)を代替するにつれ、今後は知的に理解しがたい魂(Psyche)のようなものの存在の方が注目されるべきである。
「知能」というものは、生まれた後から学習を通じて後天的に頭脳の中で育まれたものであり、そこには言語運用や計算などの推論能力が含まれている、と私は考える。
一方で、「魂」というものは、生まれる前からその生物に宿っており、その魂の運動は合理性では説明がつかないものを持っている、と私は考える。
事故による脳の損傷によって失われるのは知能であって、魂ではない。ブローカ野やウェルニッケ野の機能を失ったからといって、その生物の魂までが消えてしまうとは思われない。
ところで、デカルト以来、心身二元論という主張が登場したが、知能や魂は、「心 mens」と「身 corpus」のいずれかに属することになるのだろうか。〈我思う〉のはたらきの中には、思いなしのようなものも含まれているし、知能のようなものも含まれている、と考えられてきた。しかし案外、知能というものは「身」の側に含まれているのではないか。知能が「身」の側に含まれているからこそ、生成AIは「知能」の機能を模倣することができるのではなかろうか。
おわりに
ソクラテス以前の哲学者が学習を抜きにして始的原理を発見しようとしたこと。これは生成AIがLLMの膨大な学習を基に回答を生成するのとは別次元の創発であって、あらためて注目されるべき活動である。
生成AI以後の哲学は、生成AIの影響をモロに受けるようになるだろう。思想内容だけでなく、その文体までもが影響を受ける可能性もある。結果として、生成AI以前/以後において、哲学のあり方も変わっていくだろう。生成AI以後の哲学のことを、私はとくにポスト哲学(Post-philosophy)と呼ぶことにする。ただし、これはリチャード・ローティがいうのとは違う意味において、である。
ポスト哲学の時代には、もはや生成AI以前の哲学者のような活動は不可能である。それは馬車から自動車への変化が環境やインフラそのものの変化を不可避にするのと同じことである。今後は生成AIが書いたものと人間が書いたものとは区別がつかなくなる。その結果、思いなしと魂という、近代がこれまでに軽んじてきたものが重要になってくる。なぜなら、思いなしや魂といったものは、統計学的に模倣することができないからである。むしろ学習しないこと、学習以前にあるものが、思いなしや魂なのである。