まだ先行研究で消耗してるの?

全然ロジカルじゃない(!)書きたいことをひたすら書くブログです。ノンロジカルエッセイ。

グレーバー『ブルシット・ジョブ』覚書(1)

目次

はじめに

今回は、ようやく日本で邦訳が発売されたばかりのデヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』(岩波書店、2020年)を取り上げたい。

岩波書店にしては珍しくハードカバーではなく、ビジネス書によく見られるような軽い装丁になっている。

 7月29日の時点で書店に並んでいた。その時は一旦スルーしたものの、翌日には気になってつい買ってしまった。本書が気になった理由は「自分の仕事がブルシット・ジョブなのか否か」を確かめたかったからである。

私は自分の仕事が「ブルシット・ジョブ」だと考えている。その理由は、満足な賃金が支払われているにもかかわらず、その職務には誇りを持てず、全くといっていいほど自分の仕事に「やりがい」を感じていないからである。『できることならさっさとクビにしてくれ』と何度も願ったものだが、そう思っている時ほどクビにならない。『もっと早く辞めるべきだった』と何度も反芻してきたが、それでもいまだに仕事を辞めていないのは、収入が断たれる恐怖に屈服しているからである。自身のキャリアを真面目に考えれば考えるほど、苦悩に陥ってしまう。ここには「やりがい」とは何によってもたらされるのかという問題も含まれている。

もちろん私が仕事をしている理由は「やりがい」とは別のところにある。それは端的にいえば「お金のため」である。人文系の研究者は大学に安定した職を得ることが難しい。特に私の興味関心の対象である社会思想分野の大学の職は、優秀な大学院生と博士号取得者の増加と反比例して、年々縮小傾向にある。こうした環境下で人並みの生活水準を送りながら研究生活を続けるには、アカデミックな環境の外部に収入を得る方が手取り早い。

ところで私のこのような仕事はグレーバー的な意味での「ブルシット・ジョブ」と呼ぶにふさわしいのだろうか。

この問いに直ちに答えることはできない。というのも、本書を読み始めるや否や、何でもかんでも「ブルシット・ジョブ」と呼ぶことができないことが判明するからである。グレーバーは「ブルシット・ジョブ」と「シット・ジョブ」を区別している。そのため「ブルシット・ジョブ」と「シット・ジョブ」を混同しないことが重要である。

ブルシット・ジョブはたいてい、とても実入りがよく、きわめて優良な労働条件のもとにある。ただ、その仕事に意味がないだけである。シット・ジョブはふつう、ブルシットなものではまったくない。つまり、シット・ジョブは一般的には、だれかがなすべき仕事とか、はっきりと社会を益する仕事にかかわっている。ただ、その仕事をする労働者への報酬や処遇がぞんざいなだけである。

(グレーバー 2020:33)

f:id:sakiya1989:20200801233113p:plain

ブルシット・ジョブとシット・ジョブの違い

グレーバーはこのように「ブルシット・ジョブ」と「シット・ジョブ」とを理論的に区別しているが、「ありうるなかで最悪の仕事の形態を想像しようとするならば、それは両者を合成したものだとするのが妥当なようにおもわれる」(同:34)と述べている。「ありうるなかで最悪の仕事の形態」とはおそらく「ブルシット・ジョブ」と「シット・ジョブ」の悪いとこ取りをしたような組み合わせ、つまりその待遇がぞんざいでありながら、その仕事が無意味であるような仕事であろう。

 

以下では、グレーバーの彫琢したその定義にしたがって「ブルシット・ジョブ」とは一体何であるのかを確認したい。

本書の構成

まず本書は以下のように構成されている。

目次

序章 ブルシット・ジョブ現象について

第一章 ブルシット・ジョブとは何か?

第二章 どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか?

第三章 なぜ、ブルシット・ジョブをしている人間は、きまって自分が不幸だと述べるのか?(精神的暴力について、第一部)

第四章 ブルシット・ジョブに就いているとはどのようなことか?(精神的暴力について、第二部)

第五章 なぜブルシットジョブが増殖しているのか?

第六章 なぜ、ひとつの社会としてのわたしたちは、無意味な雇用の増大に反対しないのか?

第七章 ブルシット・ジョブの政治的影響とはどのようなものか、そしてこの状況に対してなにをなしうるのか?

(グレーバー 2020:ⅶ)

もともとグレーバーの「ブルシット・ジョブ」に関する小論がウェブマガジン『ストライキ!』に掲載されたことを機に、大きな反響を呼び起こした。この小論が本書「序章」に収められている。

本書はあまり結論を急がずに読まれるのが望ましいと思う。というのも、結論よりも「ブルシット・ジョブ」という概念の提起とその概念が彫琢される過程こそ本書の魅力であるからだ。

とはいえ、本書の最終章(第七章)でグレーバーは「仕事と報酬を切り離し本書で論じてきたジレンマを集結させる構想の一案としての普遍的ベーシックインカム」にも言及している。ベーシックインカムとはいわば政治的な仕方で社会的な問題を解決しようとするものである*1。しかし、グレーバー自身はアナキストを自認しており、こうした政治的な仕方で社会問題を解決することを望まない。

わたしは、自分のことをアナキストであると考えている。いまでは、たとえばスペインの異端審問や遊牧民の侵略は歴史的好奇心の対象だろうが、それと同じように、政府や企業などが歴史的好奇心の対象となるような未来がいつか到来することを待望するのがアナキストであることの意味である。だがそれだけではない。差し迫った問題に対して、政府や企業により多くの権力を与えてしまう解決策よりは、自分たちの問題を自分たちの手で対処できるような手段を人びとに与えるような解決策のほうを好むのが、またアナキストであることの意味である。

(グレーバー 2020:346)

私自身は最近ベーシックインカムはアリだと考えるようになった。租税というのは基本的に国や地方自治体による一方的な収奪であり、その見返りとして公共財・サービスが市民に提供されるというのが経済学的な理屈である。いわゆる新自由主義路線に従えば、財源は効率的かつ無駄を無くすのが良いとされる。しかし、そこには生物学的な恒常性の発想がみられない。租税にはおそらく「貨幣の呼吸」のようなものが必要であり、すなわち租税として市民から収奪した貨幣をベーシックインカムとして支給するのは、貨幣の再配分という意義において、減税とは別の仕方で理にかなっている。

もちろんベーシックインカムが支給されれば、その上で仕事をしたとして、従来の手取り額と同等になるように給与は減るだろう(なぜなら結局のところ、労働力の再生産に必要な額面だけが支給されるからだ)。しかし、ベーシックインカムのように労働あるいは仕事とは別に貨幣が支給されるようになれば、決して完全雇用が達成されない社会においては、一時的にせよ雇用されていない人びと(これは誰でも陥る可能性がある)が一定の希望を持って生活ができるようになると思うのである。

(つづく)

文献

*1:この点については、カール・マルクス「『プロイセン国王と社会改革 一プロイセン人』にたいする批判的論評」(1844年)をみよ。マルクスは政治的な仕方で社会的な問題を解決しようとすることは、根本的な(ラディカルな)解決には至らないと主張している。