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ヘーゲル『精神現象学』覚書(1)

目次

はじめに

このシリーズではヘーゲル『精神現象学』(熊野純彦訳、筑摩書房、2018年)を読む。

私が『精神現象学』を読み始めたのは、およそ十年前に遡ることができる。もともとヘーゲルその人に関心があったことも事実であるが、当初はマルクスの思想のより深い認識に至るための手段として本書を手に取ったに過ぎない。

その後はヘーゲル精神現象学』読書会に参加しつつ、本書の読解には多少なりとも時間をかけてはいる。だが、私はいまだに本書の概要すら把握できずにいるのが実情である。

したがって、ここに自身の読解を書きつけるのはあくまで自分自身のためであって、私自身が理解の途上にいることをあらかじめ断っておく。

 

「学の体系」構想、サブタイトルとしての「精神現象学

哲学者ヘーゲル(1770-1831)*1その人についての説明は省略する。というのも、彼について語るならば、一体どういう切り口で話し始めたら良いだろうかと困惑してしまうからである。

ともかく、まずは本書初版の表紙をご覧いただきたい。

ヘーゲル精神現象学』初版の表紙)

本書初版の表紙を見ると、そのタイトルは『学の体系』(System der Wissenschaft)とある。ここから『精神現象学』(die Phänomenologie des Geistes)というタイトルは当初はメインではなくサブとして、つまり「学の体系」の第一部門として下位に位置付けられていたことがわかる。したがって、ヘーゲルは、本書の執筆の過程においては「学の体系」を叙述することを目的としつつも、その第一部門として構想したはずの「精神現象学」を、それ自体で独立した書籍として公刊したわけである。

そこで問題となるのは、「学の体系」の第二部門以降の部門が刊行されていない点である。ヘーゲルは「学の体系」構想を放棄してしまったのだろうか*2。第二部門以降が刊行されていない以上、『精神現象学』(1807年)に固有な意味での「学の体系」構想は途中で放棄されてしまったと見做されても仕方あるまい。

しかし、ヘーゲルはこの構想そのものを捨てたわけではなかったと考えられる。というのも、この構想は、「学の体系」のあり方そのものを変容させた上で、後の梗概『哲学的諸学のエンツュクロペディー』へと結実することとなるからである*3。この梗概では「精神現象学」という同じタイトルを持つ章が「主観的精神」のもとに収められている(ただし『精神現象学』(1807年)と比べると、大幅に簡略化されている)。

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:ヘーゲル哲学についての現代思想的な入門書としては、仲正昌樹『ヘーゲルを超えるヘーゲル』(講談社、2018年)を個人的にオススメしたい。

*2:精神現象学』の体系的位置付けの変更について詳しくは飯泉 2019をみよ。飯泉によれば『精神現象学』が学の成立において果たす役割は一回限りであるという。「『現象学』は、精神の歴史としてのその目的論的運動を叙述することで、精神の自己知としての学が〈今ここ〉という歴史的現在に成立することを示すと同時に、当の時間的 = 歴史的過程そのものを廃棄するのだが、まさにそのことによって体系第一部としては不要になり、しかも二度と体系の中に位置付けられなくなる、と解釈するのである。このように学の成立の歴史的一回性に着目する本稿の解釈は、ヘーゲル哲学に内在する、ある逆説を顕わにするだろう。すなわち、『現象学』という企ては、伝統的に切り離されて考えられてきた永遠的な形而上学と有限な歴史的時間を体系的に連関させることに一瞬成功するものの、次の瞬間には、その成功ゆえに体系からそれ自身が排除されてしまうのである。」(飯泉 2019:146)。

*3:ニュルンベルクでのギムナジウム講義「哲学への導入としての精神論」(一八〇八/〇九年)は、『現象学』の前半部、つまり、意識章、自己意識章、理性章の枠組みをほぼ踏襲しているし(GW10.1, 8-29)、同様の議論は、理性章の大幅な改変を度外視すれば、『エンツィクロペディ』の主観的精神章の一部——第二版以降では「精神現象学」節——にも見出すことができる。また、『現象学』の後半部である精神章、宗教章、絶対知章に対応した内容は、同著の客観的精神章と絶対精神章で論じられているものに近い。」(飯泉 2019:148)。