まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ヘーゲル『精神現象学』覚書(1)

目次

はじめに

 このシリーズではヘーゲル『精神現象学』(熊野純彦訳,筑摩書房)を読む.

 私が『精神現象学』を読み始めたのは,およそ十年前に遡ることができる.もともとヘーゲルその人に関心があったことも事実であるが,当初はマルクスの思想のより深い認識に至るための手段として本書を手に取ったに過ぎない.

 その後は滝口清榮先生の主催するヘーゲル精神現象学』読書会に参加しつつ,本書の読解には多少なりとも時間をかけてきた.だが,私はいまだに本書の概要すら把握できずにいるのが実情である.

 ここに自身の読解を書きつけるのはあくまで自分自身のためであって,私自身が理解の途上にいることをあらかじめ断っておく.

ヘーゲル精神現象学

「学の体系」構想,サブタイトルとしての「精神現象学

 ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)*1その人についての説明は省略する.というのも,ヘーゲルについて語るならば,一体どういう切り口で話し始めたら良いだろうかと困惑してしまうからである.ともかくまずは本書の表紙をご覧いただきたい.

ヘーゲル精神現象学』表題紙)

メインタイトルには『学の体系』(System der Wissenschaft)と書かれている.ここから『精神現象学』(Phänomenologie des Geistes)というタイトルが,当初はメインタイトルではなくサブタイトルとして,「学の体系」の一部門として位置付けられていたことが読み取れる.ヘーゲルは本書の執筆の過程においては「学の体系」を叙述することを目的としつつも,その第一部門として構想した「精神現象学」をそれ自体で独立した書物として公刊したわけである.

 そこで問題となるのは,『精神現象学』をその第一部とするような「学の体系」の第二部以降が刊行されていない点である.ヘーゲルは「学の体系」という構想を放棄してしまったのだろうか*2.第二部以降が刊行されていない以上,『精神現象学』に固有な意味での「学の体系」構想は途中で放棄されてしまったと見做されても仕方あるまい.

 しかし,ヘーゲルはこの構想そのものを捨てたわけではなかったと考えられる.というのも,この構想は「学の体系」を変容させた上で,後の『哲学的諸学問のエンツュクロペディー要綱』(Encyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse)へと結実することとなるからである*3.『エンツュクロペディー』では「精神現象学」という同じタイトルを持つ章が「主観的精神」のもとに収められているのである(ただし,単著としての『精神現象学』と比べると,大幅に簡略化されている).

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:ヘーゲル哲学についての現代思想的な入門書としては,仲正2018を参照されたい.

*2:精神現象学』の体系的位置付けの変更について詳しくは飯泉2019を見よ.飯泉によれば,『精神現象学』が学の成立において果たす役割は一回限りであるという.「『現象学』は,精神の歴史としてのその目的論的運動を叙述することで,精神の自己知としての学が〈今ここ〉という歴史的現在に成立することを示すと同時に,当の時間的 = 歴史的過程そのものを廃棄するのだが,まさにそのことによって体系第一部としては不要になり,しかも二度と体系の中に位置付けられなくなる,と解釈するのである.このように学の成立の歴史的一回性に着目する本稿の解釈は,ヘーゲル哲学に内在する,ある逆説を顕わにするだろう.すなわち,『現象学』という企ては,伝統的に切り離されて考えられてきた永遠的な形而上学と有限な歴史的時間を体系的に連関させることに一瞬成功するものの,次の瞬間には,その成功ゆえに体系からそれ自身が排除されてしまうのである.」(飯泉2019:146).

*3:ニュルンベルクでのギムナジウム講義「哲学への導入としての精神論」(一八〇八/〇九年)は,『現象学』の前半部,つまり,意識章,自己意識章, 理性章の枠組みをほぼ踏襲しているし(GW10.1, 8-29),同様の議論は,理性章の大幅な改変を度外視すれば,『エンツィクロペディ』の主観的精神章の一部——第二版以降では「精神現象学」節——にも見出すことができる.また,『現象学』の後半部である精神章,宗教章,絶対知章に対応した内容は,同著の客観的精神章と絶対精神章で論じられているものに近い.」(飯泉2019:148).