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ヘーゲル『精神現象学』覚書(4)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

「哲学」と「解剖学」の違い

さらにヘーゲルは「哲学」が他の分野とは異なる性質をもつ点について、「解剖学」を例にあげて説明する。

これに対して言われなければならないことがある。たとえば解剖学とは、生命を欠いて現にある存在という側面から考察された、身体のさまざまな部分にかんする知識といったものである。そうした解剖学をめぐっては、それが「なんであるか」という一般的な観念フォアシュテルングを手にしたところで、ことがらそのもの、つまり解剖学という学の内容をそれだけでは我がものとしているわけではなく、それにくわえてさらに特殊なものを手にいれるべく努力しなければならないというはこびを、ひとが疑うこともない。——ちなみに解剖学などは知識の寄せあつめであって、学の名を与えられる権利をもたないけれども、そのようなものについては、〔「序文」にあって〕目的とか、それに類する一般的なことがらにかんしておしゃべりがなされるのが通例である。しかもそのおしゃべりは、羅列的ヒストーリッシュで概念を欠いたしかたでなされるが、内容そのものであ、この神経やこの筋肉などについて語られるのもまた、そのおなじ方式においてなのである。哲学の場合は、これに対して、そのようなやりかたが用いられれば不整合が生じるのであって、そのけっか、このような様式では真理が把握されえないことが、やはり哲学そのものによって指ししめされるはこびとなるはずである。

(Hegel 1807:Ⅱ-Ⅲ、訳(上)11頁)

ここで「解剖学 Anatomie 」は「学の名を与えられる権利をもたない」と述べられている。これはつまり、「解剖学」はヘーゲルのいうの意味での「学 Wissenschaft 」の名に値しないということである。

では、ヘーゲルにとって「学」とは一体なんであろうか。「解剖学などは知識の寄せあつめ」であるとされている。それが「寄せあつめ」であるということは、裏を返せばそれは「体系的」ではないということである。

だが、本書のメインタイトルはもともと「学の体系」であった。それゆえ、哲学的な著作である本書は、解剖学のように「羅列的で概念を欠いた」方法を採用しないし、そこで叙述されているものは単なる「知識の寄せあつめ」ではあり得ない、ということになる。

しかも、ここで「解剖学」*1が例として取り上げられているのは、全く理由がないわけではない。「解剖学とは、生命を欠いて現にある存在という側面から考察された、身体のさまざまな部分にかんする知識といったものである」とヘーゲルはいう。ヘーゲルの「哲学」がめざすところの「学の体系」は生命ある身体を有機的に把握するものだと考えられる。それゆえ、身体から生命を欠いた状態で、しかも身体の全体を通してではなく、身体の局所的な部分からのみ得られた知識の羅列に過ぎない「解剖学」のあり方は、ヘーゲルのめざす「哲学」のあり方とはまさに対極に位置しているとも言えるのである*2

(つづく)

文献

*1:「なお、「解剖学」については、「理性章A節a自然の観察」における第二七六段落(209 ff.)で言及されているように、ヘーゲルにとっては、「感受性」、「反応性」、「再生産」の三つのモメントへの関心がある。これについては、シェリング、キリアンが関わっている。また、同「c自己意識をみずからの直接的な現実態への関係で観察すること」の「頭蓋論」第三三〇段落(266 ff.)でも言及されており、これについては、ガルが関わっている。ヘーゲルは、ブルーメンバッハの『比較解剖学ハンドブック』やヒルデブラントの『人間の解剖学教科書』を所持しており、これらも参考にしたと思われる。ヘーゲルの「解剖学」への言及は、医学の根源となる基礎的な学問という位置づけも意識していたのではないか。ちなみに、シェリングは、バイエルンのランツフート大学で一八〇二年「医学名誉博士」の称号を得ている。」(神山 2015:24)。

*2:ヘーゲルの理解によると、死せるものを扱う「解剖学」との対比で、哲学は、「生命」のある「自然」を取り扱うものなのである。したがって、「生命」は、哲学にとって議論の土俵として「実体的」であり、「直接態」なのである。」(神山 2015:27)。