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ヘーゲル『精神現象学』覚書(10)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ヘーゲル精神現象学』(承前)

序文(承前)

相違とことがらの限界

おなじく,相違とはむしろことがらの限界であって,相違が存在するところでは,ことがらはおわってしまっている.いいかえれば,相違とはことがらが「それではないもの」なのである.そのように,目的や成果に,同様にまた或るもの〔ひとつの哲学的体系〕とべつのものとの相違やそれらの評価にかかずらうとすれば,それは,だから,たぶん見かけよりもたやすい仕事なのだ.ことがらをとらえようとするかわりに,そうしたふるまいはつねにことがらを飛びこえてしまっているからである.つまり,ことがらのうちで足をとめて,そこに没頭するのではなく,そのような知識はいつでもなにかべつのものを追いもとめている.要するに,ことがらのもとにとどまって,これにみずからを捧げるというよりは,かえってじぶん自身のもとにありつづけようとするものなのである.

(Hegel1807: ⅴ,熊野訳(上)14頁)

「ことがら Sache 」をそれに即して把握するためには,「ことがらのうちで足をとめて,そこに没頭すること in ihr zu verweilen und sich in ihr zu vergessen 」が重要であり,そしてまた「ことがらのもとにとどまって,これにみずからを捧げること dass es bey der Sache ist und sich ihr hingibt 」が何よりも重要である.

 これに対して,「相違」に着目するような把握の仕方は,「つねにことがらを飛びこえてしまっている immer über sie hinaus 」のであって,つまり「ことがら」を見えなくし,むしろそこに見出すのは自分自身なのである.

 「相違 Verscheidenheit とはむしろことがらの限界であって,相違が存在するところでは,ことがらはおわってしまっている」.ことがらを何か別のものと区別して把握しようとすれば,そこで明らかとなるのはことがらと別のものとの間の境界線であり,そこが「ことがらの限界 Gränze 」なのである.それはことがらそのものの内には立ち入っていないことを意味する.

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