目次
ヘーゲル『精神現象学』(承前)
序文(承前)
「生成」の始まりと終わりとしての「目的」と「成果」
そもそも,ことがらはそれが目的とするところで汲みつくされるのではなく,ことがらが実現されることで汲みつくされる.成果もまた現実の全体というわけではなく,その生成とともに全体となる.目的とは単独では生命を欠いた普遍的なものにすぎない.それは,傾向がたんなる駆動であって,その現実性をいまだ欠落させているのと同様である.たほう剥きだしの成果とは,傾向を背後に置きざりにした屍なのだ.
(Hegel1807: ⅴ,熊野訳(上)14頁)
「目的 Zweck 」と「成果 Resultat 」はその「生成 Werden 」という過程からすると始まりと終わりにそれぞれ位置している.ヘーゲルの現象学においては「目的」と「成果」が重視されるのではなく,その「生成」という過程も含めてこそが重要である.
「目的」というゴールの設定は,それが実現されてはじめて現実的に意義あるものとなる.この「目的」を「成果」へと結びつけるのが「傾向 Tendenz 」である.例えば,ひまわりの種は,花を咲かせて新たな種子を作ることをその「目的」とし,その「生成」の過程では,地面から養分を吸収し,光に向かって茎を伸ばしたりする「傾向」を持つ.時が経ち,咲いたひまわりの花と種子はその「成果」として現れるが,この「成果」だけに着目すると,それまでのひまわりの成長の過程が見えなくなってしまうのである.
文献
- Hegel, Ge. Wilh. Fr., 1807, System der Wissenschaft, Erster Theil, die Phänomenologie des Geistes, Hamburg und Würzburg. (Université de Lausanne, 2008)
- ヘーゲル 2018『精神現象学』熊野純彦訳,筑摩書房.
小田智敏さんのコメント
当ブログの更新後に,Twitterにて小田智敏さんより有益なコメントを頂きましたので,私(荒川)のリプライをも含めて,以下に転載させていただきます.(小田さん,コメントありがとうございました!)
熊野純彦さんの『精神現象学』翻訳、昼もつぶやいたように未検討のままなのだが、そうかぁ、このder Leichnam, der sie hinter sich gelassen.のsieをTendenzと解しているのねえ。私だったらWirklichkeitと取るなあ。 https://t.co/6ww9Y0OldJ
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月12日
原文は荒川さんのブログの画像(これは何版?)をご参照いただいて、der Zwecke für sich ist ...を私なりに訳してみると、「目的はそれだけを取って見れば、生命のない普遍であって、傾向が自身の現実態をまだ欠いている、たんなる動力であるのと同様である。剥き出しの結果は、↓
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月12日
現実態を背後に置き去りにした死骸なのである。」
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月12日
「目的」「結果」はWirklichkeit(現実態と訳してみた)を捨て去った「生命のない普遍」「死骸」、「傾向」はWirklichkeitをまだ得ていない動力、という対比だと思うんだがな。
エルンスト・ブロッホの場合はTendenzは(Latenzとともに)重要なタームなのだが、Hegelの場合はあまり大事な言葉のように思えないんだよね。論理学をきちんと読んでいないので、Tendenzが論理学でタームとして使われているのかどうか知らないのだが。
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月12日
ま、翻訳はこういう地味ぃぃな作業の反復なんですね。ここでは、私が問題にしたsieをdie Tendenzと取っても(語学的にはそちらが素直)、生成の過程の全体を見なきゃ現実的な全体とは言えませんぜ、というヘーゲルの主張はわかるから、「大した問題ではない」とは言えます。↓
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月12日
難しいことはいいから、手っ取り早くヘーゲルの言っていることを教えてくれ、という要求からすれば、「どっちでも良い」ことになります。
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月12日
ただ、それでは原典を(たとえ翻訳でも)読む意義は薄れると思うんですよね。原文にはヘーゲルの思考をたどる手がかりがある、それをどう日本語にするか、↓
そこが翻訳の勝負だと私は考えます。「わかりやすく訳す」ことをもちろん私自身も目標としていますが、原著者がどう考えてどういう結論に至ったか、それを日本語にしたいわけです。私もヘーゲルと同様、「結論だけじゃ死骸のようなもの」と考えますので。
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月12日
一応調べてみたら、樫山訳でも、そのsieを「傾向」と訳していますね。
— 荒川幸也SakiyaArakawa (@hegelschen) 2021年7月12日
「そしてむき出しの結果は、傾向を捨て去った屍である。」(『精神現象学』樫山欽四郎訳、平凡社ライブラリー)
画像は『精神現象学』原著初版(1807年)からの切り抜きです!
— 荒川幸也SakiyaArakawa (@hegelschen) 2021年7月12日
Tendenzは、他の哲学者だとコナトゥス(傾動?)として語られている概念と関連するかな〜?とは一瞬考えましたが、ここでスピノザなどのそれと関連をもつかどうかは分からなかったので自分は触れませんでした。
— 荒川幸也SakiyaArakawa (@hegelschen) 2021年7月12日
ああ、原著初版も今はそうやって画像になっているのですね!
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月12日
ハイ、Googleブックスというサービスです。
— 荒川幸也SakiyaArakawa (@hegelschen) 2021年7月12日
画像を押していただくと、原著のどのページから切り出したのか見れるようになっています。
自分は〈ZweckーTendenzーResultat〉というように、「傾向」が「目的」と「結果」を媒介していると理解したので、それだけが一面的に取り出された「むき出しの結果」がその背後に置き去りにしたのは、「目的」と「結果」自身を媒介していた「傾向」ではないかと考えます。
— 荒川幸也SakiyaArakawa (@hegelschen) 2021年7月12日
私には、この一文ではZweckとResultatを媒介するのは
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月12日
Zweckから見ればAusführungだし、Resultatから見ればWerdenだと書かれているように見えるんですよね。
で、Zweckがunlebendigなのは、TendenzがWirklichkeitをまだ欠いているのと同様に、Wirklichkeitを欠いているからだし、Resultatが死骸なのは↓
Wirklichkeitを置き去りにしているからだ、と。TendenzはZweckとあまり変わらないものとして挙げられているようにしか見えないんです。ただ、上に書きましたように、sieをdie Tendenzと取るのは語学的には無難です。むしろWirklichkeitと取る方が冒険です。ですが、ZweckにもResultatにも欠けている↓
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月12日
生命をヘーゲルがどこに見ているのか、というと、どうしてもTendenzとは考えにくいんですよね、私には。AusführungやWerdenにつながる、つながりうる言葉がWirklichkeitではないか、と。
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月12日
「ZweckとResultatを媒介するのは
— 荒川幸也SakiyaArakawa (@hegelschen) 2021年7月12日
Zweckから見ればAusführungだし、Resultatから見ればWerdenだと書かれているように見える」
あー本当にそうですね!そう捉えるとnicht…, sondern…, noch…, sondernが綺麗な形してるのがわかりますね。いやはや読めてないな自分…
いや、樫山先生も「傾向」と取られていますから。
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月12日
金子訳、長谷川訳も奥深くに置かれてぱっと取り出せませんので(苦笑)、そちらではどう取っているかわかりませんが、ご指摘の通り、nicht..., sondern ..., noch ..., sondernの構文からも、ヘーゲルの思考が窺われるように思うのです。
「TendenzはZweckとあまり変わらないものとして挙げられているようにしか見えない」
— 荒川幸也SakiyaArakawa (@hegelschen) 2021年7月12日
これもそうですねえ。wie…以下で述べられているわけですから。ハッとさせられますし、ちゃんと読まねば自分!と思いました。
「生命をヘーゲルがどこに見ているのか、というと、どうしてもTendenzとは考えにくい」
— 荒川幸也SakiyaArakawa (@hegelschen) 2021年7月12日
ヘーゲルにおける「生命」の位置付けは難しいですが、それを小田さんが安直に「傾向」に還元せず、全体としての現実態につながるものとして解釈されているのも流石だと思いました!
まあ、ここでは生命は「たとえ」でしょうけれどね。『精神現象学』序文は、やはりヘーゲルの思考・思想が高密度で展開されているテクストですね。私も久しぶりに(ほんの一部分ですが)読んで、ちゃんと読み直さなきゃなあと感じました(卒論では序文は手に負えず、修論で多少踏み込んで論じました)。
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月12日
荒川幸也SakiyaArakawaさんのブログをリツィートして書いた『精神現象学』序文の解釈問題(というほどのものではありませんが)、元ツィートを一部修正加筆し、訳文も少し直してfacebookの方にまとめておきました。興味のおありの方に参照していただければ幸いです。https://t.co/0YAzNa0djP
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月13日
以上,小田智敏さんより頂いたコメントでした.
皆様のコメントもお待ちしております!
浦隆美さんのコメント
上記の内容について,Twitterで浦隆美さんより有益なコメントを頂きましたので,小田さんと私(荒川)のリプライも含めて,以下に転載させていただきます.(浦さん,コメントありがとうございました!)
der sie hinter sich gelassen、気になってズールカンプを見てみたら、sieがdie Tendenzに校訂されていました。ズールカンプの成立ちに詳しくないのですが、後年のヘーゲルがこのように校訂したのではないでしょうか。@hegelschen
— 浦 隆美 (@uratakami1) 2021年7月16日
(写真はズ版の該当箇所とその脚注) pic.twitter.com/2jpLZUVbjr
浦さん、ありがとうございます。
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月16日
私の手元にあるHoffmeister版(PhB版)も、それに先行するLasson第3版もdie Tendenzになっています(汗)
おそらく1832年版で変更されたのでしょうね。
完全に私の間違いでした。ただ私みたいに取る人間がいるからdie Tendenzに直しておこう、ということなのでしょう。
浦さん、小田さん、ご確認ありがとうございます!
— 荒川幸也SakiyaArakawa (@hegelschen) 2021年7月16日
一応、1832年版を調べたら、編者Johann SchulzeによりTendenzに訂正されてますね。https://t.co/G4oGmn2kLT
ありゃ、1832年版は編者による訂正ですか?
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月16日
ヘーゲル自身の訂正(Wissenschaft der Logikのような)ではない?
う~ん、ヘーゲル自身の手に依るのでないなら、Wirklichkeitの可能性を捨てたくないなあ。
ええ、ヘーゲルは『精神現象学』第二版を出版するつもりでしたが、『論理学』第一巻第一分冊第二版の「序文」を書き上げてからおよそ一週間で急逝してしまったため、ヘーゲルの生前には『精神現象学』序文の訂正を途中まで進めただけで第二版の出版は果たされませんでした。
— 荒川幸也SakiyaArakawa (@hegelschen) 2021年7月17日
ヘーゲル『精神現象学』第二版(シュルツェ編)へのリンクを貼っておきます。
— 荒川幸也SakiyaArakawa (@hegelschen) 2021年7月17日
1832年版https://t.co/9Dir1kjoJ0
1841年版https://t.co/VXKSwsXiqG
ありがとうございます。
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月17日
以前は簡単に見られなかった、古典のオリジナルヴァージョンやその他の歴史的ヴァージョンが手軽に閲覧できるようになっているのですねえ!
ヘーゲルの急逝も感染症でしたよね。ええと、コレラだったよな。精神現象学の訂正も途中までに終わった、という話も昔読んだ記憶があります。問題の箇所も、序文の比較的最初の部分ですから、なかなか微妙なところですよね。ヘーゲルのメモか何かに基づく修正なのか、それとも編者の判断によるのか。
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月17日
ご検討ありがとうございます。
— 浦 隆美 (@uratakami1) 2021年7月17日
ズ版巻末解説によると、脚注「A」は1831年のヘーゲル自身による推敲みたいです。(ドイツ語おぼつかないので、違っていたらすみません)
それでも、元のsieがTendenzを指していたとは限らない訳ですけれども。 pic.twitter.com/tKUuvQfyJk
この文章では、ヘーゲル自身の推敲と書かれていますね(苦笑)
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月17日
状況は私にはきわめて不利であります(笑)
ヘーゲルが1831年に考えを変えたという可能性もオプションとしてはあるとは思うのですが。
— 浦 隆美 (@uratakami1) 2021年7月17日
たとえそうではなくても、このsieをどう読むかは議論になるところだ、とヘーゲルが考えたことは確かですね。
音楽の世界でも、老作曲家の若い頃の作品の「この音符は間違いではないのか」なんて言って若い作曲家・演奏家が迫ることはあるんですよね。また、作曲家が昔の作品に手を入れて、結果的に改悪してしまうこともあります。
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月17日
テクストの確定は簡単な問題ではありませんが、やはり原著者の意志は大事です。
思ったことは、多数の訳書があるのに(すべては手元にありませんが)、1831年のヘーゲルの推敲の注解がないことです。
— 浦 隆美 (@uratakami1) 2021年7月17日
初版を訳した知泉版にも、異同の注は見当たりません。1831年改訂は「表現の正確化に終始」している(知泉版解説)という認識によるのでしょうが、そう決め切ってよいのかと。
うん、そこは翻訳では大きな問題のはずですよね。書籍として刊行する(ということは商品として売ることですが)場合、あまり煩雑になると困る、というのはあると思いますが、精神現象学の場合は原著者による訂正は限られているわけですからね。
— 小田智敏 Tomoharu Oda (@blochbenjamin) 2021年7月17日
触発されて、自分の解釈を検討してみました。
— 浦 隆美 (@uratakami1) 2021年7月17日
よい機会を与えてくださり、ありがとうございました!https://t.co/TSHnqAMElW
以上,浦隆美さんより頂いたコメントでした.
皆様のコメントもお待ちしております!