目次
はじめに
今回は「レトリックはいかにして伝わるのか」というテーマで書きたいと思います。
このテーマで考えるきっかけとなったのは、京都大学教授・大河内泰樹先生の次のツイートでした。
話題のバンドの人、名前しか知らないけど他の人がツイートしていたところでは「君の遺伝子まで愛してる」みたいな歌詞があるとのことで(未確認)、もしかして書いた本人は文字通りのことを考えていて、聴いている方はレトリックだと受け取っているんだとしたら、
— 大河内泰樹 (@taiju_okochi) 2020年7月25日
レトリックをレトリックにするのは何なんのか考える材料になりそうな気がした。
— 大河内泰樹 (@taiju_okochi) 2020年7月25日
ここで「話題のバンドの人」とされているのは、いまTwitterで物議を醸しているRADWIMPSのボーカルである野田洋次郎さんのことでしょう。今回反響が大きかったのは彼の次のツイートです。
前も話したかもだけど大谷翔平選手や藤井聡太棋士や芦田愛菜さんみたいなお化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべきなんじゃないかと思ってる。
— Yojiro Noda (@YojiNoda1) 2020年7月16日
お父さんはそう思ってる。#個人の見解です
このツイートのリプ欄を確認していただくとわかるのですが、この「個人の見解」に対して「これはナチスドイツの優生思想だ」という意見が目立ちます。
あなたと同じ意見を持っていた人たちを知っています。ナチスドイツって言うんですけど。純粋なアーリア人のための繁殖のための施設まで作っていました。結果、幼児死亡率が高く、敗戦で破綻しました。
— 中野彰子 (@toki21991) 2020年7月25日
野田さん
— 元気な猛毒太郎ちゃん (@K_yo_enemy_now) 2020年7月25日
それが優勢学のきっかけなんです
その後、劣った遺伝子はこの社会に不必要、とされ
ナチス台頭下のドイツでは自警団が街中に「障害者は貴方の財産を減らす敵」というような内容のポスターを貼り出しました。
お父さんの思想の行き着く先をじっくり想像してみてください🙏
優生思想については多くの方が指摘しているので別の観点から。
— Peace for Children (@peacefulworld99) 2020年7月25日
大谷選手や藤井棋士や芦田さんの活躍を「遺伝子」と表現している時点で、彼らの「努力」を軽視した非常に失礼なツイート。
フォロワーが100万人を超える有名人であり、単なる「冗談」で済ますのではなく、謝罪撤回すべきでしょう。
野田さんの先のツイートがこうした指摘を受けることになったのは、「遺伝子」と「国家プロジェクト」という二つを結びつけたことによると思います。
語用論的には何を意味しているか
野田さんは一つ前のツイートで将棋界の藤井聡太さんを褒めています。
藤井聡太棋聖、すごい。
— Yojiro Noda (@YojiNoda1) 2020年7月16日
想像もできない世界だなぁ。
おめでとうございます。
このツイートを読む限りで、語用論的には野田さんの先のツイートは藤井聡太さんのすごさを伝えようとしたものと考えられるはずです。
今「語用論的」と言いましたが、語用論とは次のようなものです。
発話の文字通りの意味と、そこに込められた発話の意図(含意)との関係をより正確にとらえようとするのが語用論です。
(木原善彦 2020)
野田さんの先のツイートに寄せられた「ナチスドイツの優生思想だ」という批判は、ツイートの文字通りの意味から分析されたものです。
これに対して、一つ前のツイートからツイートの意図(含意)を汲み取ろうとすれば、そういう国家プロジェクトを本気でやろうとするはずもなく、「大谷翔平選手や藤井聡太棋士や芦田愛菜さん」を持ち上げるだけの意図にすぎないと思われます。
意味と意図の受容のされ方
最初の大河内先生の問いに触発されて、私は発話者と聞き手との間での意味と意図の受容のされ方について、次のような区分を考えてみました。
上の四象限によると、発話者と聞き手との間では、文字通りの意味とレトリックを意図したものとは、疎通できているか齟齬が発生しているかという二つの仕方で受け取られることが分かります。(もちろん実際には発話者がレトリックも意図した上でなおかつ文字通りの意味でも書いているということも考えられますので、ちょうど四象限を分かつ境界線上に位置することも考えられます。)
レトリックはいかに不/適切に用いられるか
前節でみたレトリックの意図が適切に伝わっているかどうか(疎通できているのか)という問題に加えて、もう一つ、レトリックが社会通念(習俗的な規範 Sittlichkeit )に照らして適切なのかという問題があります。後者は単なる語用論的な問題にとどまらず、むしろ倫理に関わる問題だと言えます。
レトリックが通用するには、時代とともに変化する常識的な用語法と、それを通常とは異なる用語法を織り混ぜるようにして使うことが求められると思う。だた本人がレトリックとして用い、つまりそれを常識から解離した用語法だと思っていても、受け手がそう思わないことがある。
— 荒川幸也│Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2020年7月25日
つまり発話者と受け手の文法(概念のコード)が違うということがあるかもしれない。
— 荒川幸也│Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2020年7月25日
例を一つ出します。明石家さんまさんが女性をいじる発言をした時、従来はそれほど問題だと思われていなかったことが、昨今のジェンダー認識の高まりとともに不愉快なものとして受け取られるようになってきた。これは、明石家さんまさんの文法(彼の概念のコード、あるいは彼の常識)が、聞き手の文法(聞き手の側の概念のコード、聞き手の側の常識)と齟齬をきたすようになってきたからだと考えられます。この場合、時代とともに変容してきたのは、聞き手の側の概念のコード(常識)であって、明石家さんまさんの持つ概念のコード(常識)が変化したわけではないという点に注意が必要です。発話者の意図はどうであれ、発話された文字通りの意味が、時代とともに変化する習俗的な規範 Sittlichkeit (普遍性)と齟齬をきたすようになったとき、その発話は不適切なものとして取り扱われるのではないでしょうか。