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真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ジャック・デリダ『弔鐘』覚書(8)

目次

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ジャック・デリダ『弔鐘』(承前)

(左)ヘーゲル

〈伝説〉としてのヘーゲル家族論

     Ceci est ‒‒ une légende.

     Non pas une fable : une légende. Non pas un roman, un roman familial puisque s'y agit la famille de Hegel, mais une légende.

     Elle ne prétend pas donner à lire le tout du corpus, textes et desseins de Hegel, seulement deux figures. Plus justement deux figures en train de s'effacer : deux passages.

 このものは——伝説=読まれるもの〔légende〕である。

 寓話=話されるもの〔fable〕ではなく、一つの伝説である。一つの小説ではなく、ヘーゲルの家族が問題になるとしても家族小説ではなく、一つの伝説である。

 この伝説には、資料体コルプスの全体を、ヘーゲルのテクストと構想の数々からなる全体を読むべく与えようとする意図はない。それが読むべく与えるのは、ただ二つの形象である。より正確には、消え去りつつある二つの形象、つまり二つの移行=通過パサージュ〔passage〕である。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)247頁)

ここでは「伝説」が明確に「寓話」や「小説」と区別されている。鵜飼訳ではこれらの語の違いをその語源から説明している。つまり、それは「読まれるもの(エクリチュール)」と「話されるもの(パロール)」との違いでもある。

 「伝説 légende」というフランス語は、「読まれるべきもの ce qui doit être lu」を意味するラテン語のlegendaに由来する。

 「寓話 fable」というフランス語は、「話されるもの」を意味するラテン語のfabulaに由来する。ヴィーコの『新しい学』に従うと、ヘロドトスの「歴史」に至るまでの「寓話」は、その文体にホメロス的なもの、つまり詩的なものを含んでいた*1。ルソーの「言語起源論」的にいえば、それは抑揚を含むものである。これに対して「伝説」が「読まれるもの」だということは、「寓話」に見られるような詩的な抑揚を捨象した文章から成り立っていることが予測される。

 「小説 roman」というフランス語は、「ローマ人のやり方で à la façon des Romains」を意味するラテン語のRomaniceに由来する。

 だが、「伝説」と「寓話」との間に横たわる差異、すなわちエクリチュールパロールとのあいだの違いは、注意深く見ておかなければ見過ごされてしまうかもしれないような程度のものである。アーサー王伝説(Légende arthurienne)は確かに「伝説」だが、ヘーゲルの家族論を「伝説」として読むとは具体的にはどういうことを意味するのだろうか。「伝説」とは『アンティゴネー』を指しているのだろうか。

 デリダは実際にヘーゲルの家族論をどのように読んでいるであろうか。少し先の箇所でデリダは「存在神学のなかに、あるいはヘーゲル的家族のなかに、私生児のための場所はあるか? Y a-t-il une place pour le bâtard dans l'onto-théologique ou dans la famille hegelienne?」(Derrida1974: 12,鵜飼訳(1)237頁)と問うている。「私生児 bâtard」というものは、ともすれば「ヘーゲル的家族」の規範から逸脱したものであるように見える。したがって、その場所は原則としては存在しないように見える。だが、私生児は現にあり得るし、ヘーゲルは実際に私生児を設けたことが知られている。それに対する哲学的な考察はあって然るべきではないか。デリダは本書でそれに着手している。ヘーゲル的な規範の外部に追いやられ、無視された存在を、ヘーゲルのテクストから掬い上げる。そこに「読まれるべきもの」があるとすれば、そういう仕方によって、であろう。

     Ce qu’il en reste toujours irrésolu, d’impraticable, d’innormal ou d’innormalisable, voilà ce qui nous intéresse et nous contraint ici. Sans nous paralyser mais en nous forçant à la démarche: zigzaguante, oblique de surcroît, heurtée par la rive qu’il s’agit d'éviter, comme un appareil au cours d’une manœuvre difficile.

 この問題からつねに解かれぬまま残るもの、通行不可能なまま、不正常なまま、正常化不可能なまま残るもの、それこそが、ここで、われわれに関心を抱かせ、われわれを拘束する。われわれを麻痺させるのではなく、われわれにこんな歩みを強いることで。ジグザグ歩き、さらには斜め歩き、避けるべき岸にぶつかるような歩き方、まるで困難な作業中の器械のような。

(Derrida1974: 11,鵜飼訳(1)239頁)

デリダが取り上げる「二つのパサージュ deux passages」の歩き方は、寄り道のようなものだ。目的論的に、合理的に、まっすぐに進むことを、デリダは退ける。むしろ迂路にこそ、吸い寄せられるような魅惑的なことがらがある。これは先に見たデリダの〈残余〉の思考に通ずるのではなかろうか。

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文献

*1:この点について詳しくは拙稿「ヴィーコ『新しい学』覚書(18)」を参照されたい。