目次
はじめに
本稿ではアダム・スミス『国富論』(高哲男訳、講談社)を読む。
私は以前、岩波文庫で『国富論』を読んだことがあるが、いわゆる「道徳哲学 moral philosophy 」の教授アダム・スミス(1723-1790)*1が生きていた頃はまだ「経済学 economics 」という分野が確立していなかった時代だけあって、『国富論』の射程の広さに驚いたことがある。例えば、『国富論』を用いてアダム・スミスの「大学」論を取り上げることも可能であるように、同書には多岐にわたるテーマがふんだんに盛り込まれているのである。書店に行くと経済学のコーナーにはアメリカの経済学の教科書の分厚くて大きい翻訳書が目立つが、それらはグラフや数式が多用されているものの、『国富論』が取り扱う事物の広さや深さと比べるとかなり見劣りしてしまう。
『国富論』の邦訳は、これまでに岩波書店(水田洋監訳)や中央公論新社(大河内一男監訳)、日本経済新聞出版(山岡洋一訳)をはじめとして、数多く出版されてきた。そこに今年は高哲男氏の手による新訳が講談社学術文庫に加わったのである。そこで本稿では原文と対照しつつ、この新訳がどのように訳されているのかも併せて見ていきたいと思う。
アダム・スミス『国富論』
漢字では『国富論』の三文字で表記されるが、正式なタイトルはもっと長く、「国民の富の性質と原因に関する研究 An Inquiry Into the Nature and Causes of the Wealth of Nations 」である。すでにこのタイトル一つ取り上げても、アダム・スミスのいう「〈富 Wealth 〉とは何か」「〈国民 Nations 〉とは何か」*2等々、疑問がつきない。そしてこれらの問いは、アダム・スミスが生きていた時代である近代の勃興と無関係ではないはずである。
序と構想
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国民の年々の労働は、まず第一に、国民が年々消費する生活必需品と便宜品のすべてを供給する
基金 であって、この生活必需品と便宜品は、つねに国民による労働の直接の生産物と、それと引き替えに他国から購入するものとで構成されている。(Smith1789: 1, 訳27頁)
ここで「基金」と訳されている fund は、ラテン語の fundus(底、基礎)から来ている。巷でよく聞く「ファンド」はいわゆる投資ファンドや投資運用のための資金のことを指したりするが、ここでスミスが「労働が…基金 fund である」という際の fund が、そのような貨幣としてのそれではないことは明らかである。つまりスミスは、消費財の供給という経済の仕組みの根底にあるものとして国民の労働を捉えているのである。
(つづく)