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ルソー『政治経済論』覚書(2)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ルソー『政治経済論』(承前)

国家と家族の違い

 国家と家族とのあいだには、多くの著述家が主張しているほどに多くの関係があるにしても、だからといって、これら二つの社会のいずれか一方に適する行動の諸規則が、他の一方にも当てはまるということにはならない。二つの社会は、大きさが非常に違うから、同じやり方で管理することは出来ない。父親が自分自身ですべてを見ることが出来る家内政府 gouvernement domestique と、首長は他人の眼をかりなければ殆んどなにも見えない市民政府 gouvernement civil とのあいだには、常に極端な差違が存するであろう。この点に関して、事物があい等しくなるためには、父親の手腕や力や、すべての能力が、家族の大きさに比例して増大すること、また、君主の帝国の領域が一私人の相続財産にまでちぢまるのと同じように、強力な君主の精神が普通人の精神にまでなりさがること、が必要であろう。

(337: 7-8)

前のパラグラフでは「家」と「国家」の関係が示されていたが、このパラグラフでは一転して両者の相違について述べられている。すなわち、〈共同体の規模が異なれば、その統治の方法も異なる〉のであり、それゆえに〈国家と家族とではそれぞれ異なる原理・原則が当てはまる〉というのがルソーの主張である。

 こうした主張の背後でルソーはおそらくロバート・フィルマー(Sir Robert Filmer, 1588-1653)の『パトリアーカ』における議論を仮想敵としていたのではないかと考えられる。というのもルソーはこの少し先で「かの騎士フィルマーが『パトリアーカ』という題名の著作で樹立しようと試みた・かの憎き体系を覆すためには、僅かこの数行でことたりると私は信ずる」(訳12頁)と述べているからである。フィルマーの家父長制論はアダムより伝統的に引き継がれてきた家父長権という〈家族の原理〉の延長線上で君主政という〈国家の原理〉について考えるものである。これに対してルソーは、家政と国政とがそれぞれ異なる「行動の諸規則」という原理に基づいているということを明確にすることによって、家政のアナロジーで国政について語らせないようにするのである。

(つづく)

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