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マルクス『資本論』覚書(9)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

マルクス資本論』(承前)

商品のあいだに共通する〈第三のもの〉

(1)ドイツ語版『資本論』初版

 我々はさらに、二つの商品、例えば小麦と鉄を取り上げよう。それらの交換関係がどうであろうと、この関係は、つねに、ある所与の量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる。例えば1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄というように。この等式はなにを意味しているのか? 同じ価値二つの違った物のうちに、すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、存在するということである。両方ともそれゆえに或る第三のものに等しいのであるが、この第三のものは、それ自体としては、その一方でもなければ他方でもないのである。だから、それらのうちのどちらも、それが交換価値であるかぎりで、この第三のものに還元できるものでなければならないのである。

(Marx1867: 3)

(2)ドイツ語版『資本論』第二版

 我々はさらに、二つの商品、例えば小麦と鉄を取り上げよう。それらの交換関係がどうであろうと、この関係は、つねに、ある所与の量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる。例えば1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄というように、この等式はなにを意味しているのか? 同じ大きさの一つの共通物が、二つの違った物のうちに、すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、存在するということである。両方ともそれゆえに或る第三のものに等しいのであるが、この第三のものは、それ自体としては、その一方でもなければ他方でもないのである。だから、それらのうちのどちらも、それが交換価値であるかぎり、この第三のものに還元できるものでなければならないのである。

(Marx1872a: 11)

(3)フランス語版『資本論

(Marx1872b: 14)

(4)ドイツ語版『資本論』第三版

 我々はさらに、二つの商品、例えば小麦と鉄を取り上げよう。それらの交換関係がどうであろうと、この関係は、つねに、ある所与の量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる。たとえば1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄というように。この等式はなにを意味しているのか? 同じ大きさの一つの共通物が、二つの違った物のうちに、すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、存在するということである。両方ともそれゆえに或る第三のものに等しいのであるが、この第三のものは、それ自体としては、その一方でもなければ他方でもないのである。だから、それらのうちのどちらも、それが交換価値であるかぎり、この第三のものに還元できるものでなければならないのである。

(Marx1883: 3-4, 訳75頁)

「クォーター」とか「ツェントナー」といった聞き慣れない単位が登場するが、これらは一定量の小麦や鉄を示すための単位であるということが分かっていれば問題ない。

 ここでマルクスはある商品と別の商品との間に共通する〈第三のもの〉の存在を示唆している。これは以前のパラグラフで「内実 Gehalt 」と呼ばれていたものである。

 さらに以前のパラグラフでマルクスは「内在的な交換価値(valeur intrinsèque)というものは、一つの形容矛盾 contradictio in adjecto であるように見える」と述べていたが、このパラグラフでいわれている商品間における「同じ大きさの共通物」すなわち〈第三のもの〉こそまさに「内在的な交換価値」そのものであろう。マルクスは〈現象〉としての「相対的な」交換価値から、「内在的な交換価値」へと徐々に議論を本質的に突き進めているのである。

 そうなると問題は、諸々の商品がそれに還元されうるところの〈第三のもの〉とは一体何かという点である。結論を先取りしてしまうと、それは「抽象的人間労働」だということになるのだが、この点についてはもっと本書を読み進めていくより他にない。

(つづく)

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