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マルクス『資本論』覚書(8)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

マルクス資本論』(承前)

マルクスの〈価値の現象学

(1)ドイツ語版『資本論』初版

 ある個別の商品、たとえば一クォーターの小麦は、他の諸商品と最も様々な割合で交換される。しかしながら、その交換価値は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などで表現されようとも、変わらないままである。それゆえ、その交換価値は、これらのその様々な表現様式から区別可能であるに違いない。

(Marx1867: 3, 下線引用者)

(2)ドイツ語版『資本論』第二版

 ある個別の商品、たとえば一クォーターの小麦は、他の諸商品と最も様々な割合で交換される。しかしながら、その交換価値は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などで表現されようとも、変わらないままである。それゆえ、その交換価値は、これらの様々な表現様式から区別可能な或る内実を持っているに違いない。

(Marx1772a: 11, 下線引用者)

(3)フランス語版『資本論

 ある個別の商品、たとえば一クォーターの小麦は、他の諸商品と最も様々な割合で交換される。しかしながら、その交換価値は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などで表現されようとも、変わらないままである。それゆえ、その交換価値は、これらの様々な表現とは区別される或る内実を持っているに違いない。

(Marx1872b: 14)

(4)ドイツ語版『資本論』第三版

 ある一つの商品、たとえば一クォーターの小麦は、x量の靴墨とか、y量の絹とか、z量の金とか、要するにいろいろに違った割合で他の商品と交換される。だから、小麦は、さまざまな交換価値をもっているのであって、ただ一つの交換価値をもっているのではない。しかし、x量の靴墨もy量の絹もz量の金その他も、みな一クォーターの小麦の交換価値なのだから、x量の靴墨やy量の絹やz量の金などは、互いに置き替えられうる、または互いに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。そこで、第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの同じものを表わしている、ということになる。しかし、第二に、およそ交換価値は、ただ、それとは区別される或る実質の表現様式、「現象形態」でしかありえない、ということになる。

(Marx1883: 3, 訳74〜75頁, 下線引用者)

下線で示した通り、このパラグラフはいずれの版においても相違が見られる。ドイツ語版『資本論』の初版と第二版の間でも若干の違いがあるものの、その第三版は大幅に書き加えられていることがわかる。またフランス語版はドイツ語版の初版には見られないGehaltをcontenuと翻訳していることから、フランス語版がドイツ語版の第二版を底本にしていることがわかる。

 マルクスがこのパラグラフの叙述を繰り返し改善したのは何故だろうか。「交換価値」が「表現様式」として現象するものであるがゆえに、マルクスのいわば〈価値の現象学 Phänomenologie des Wertes 〉を誤解のないように精確に叙述することが彼自身にも難しかったのかもしれない。下手をすれば、読者によってマルクスの叙述した〈AがBとして現れる〉が単なる〈AはBである〉という無理解に還元されてしまうおそれがあったのである。

 ちなみにマルクスがドイツ語版の第二版以降に書き加えた「内実 Gehalt 」については、テクストをもう少し読み進めておかないとまだ何とも言えないが、これはすぐ後の「共通物」や「凝固物」に繋がるものだと考えて良いだろう。

(つづく)

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