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マルクス『資本論』覚書(11)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

一つの商品にみられる使用価値は一つだけではない

(1)ドイツ語版『資本論』初版

 交換価値の実体が商品の物理的な手掴みの存在あるいは使用価値としての商品の定在とはまったく違ったものであり独立なものであるということは,商品の交換関係がひと目でこれを示している.この交換関係は,まさに使用価値の捨象によって特徴づけられているのである.すなわち,交換価値から見れば,ある一つの商品は,それ*1がただ正しい割合でそこにありさえすれば,どのほかの商品ともまったく同じなのである⁸.

(Marx1867: 3-4,井上・崎山訳526頁,下線引用者)

(2)ドイツ語版『資本論』第二版

 この共通なものは,商品の幾何学的とか物理学的とか化学的などというような自然的属性ではありえない.およそ商品の物体的な属性は,ただそれらが商品を有用にし,したがって使用価値にするかぎりでしか問題にならないのである.ところが,他方,諸商品の交換関係を明白に特徴づけているものは,まさに諸商品の使用価値の捨象なのである.この交換関係のなかでは,ある一つの使用価値は,それがただ適当な割合でそこにありさえすれば,ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけのものと認められるのである.あるいは,かの老バーボンが言っているように,「一方の商品種類は,その交換価値が同じ大きさならば,他方の商品種類と同じである.同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには差異や区別はないのである⁸」.使用価値としては,諸商品は,なによりもまず,いろいろに違った質であるが,交換価値としては,諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり,したがって一原子アトムの使用価値も含んではいないのである.

(Marx1872a: 12,岡崎訳76頁,下線引用者)

(3)フランス語版『資本論

 この共通なものは,商品の幾何学的とか,物理学的とか,化学的などというような自然的な属性ではありえない.およそ商品の自然的な属性は,ただそれらが商品を,使用価値を生む有用なものにするかぎりでしか,問題にならないのである.ところが,他方,商品の交換において,諸商品の使用価値は捨象され,いかなる交換価値も,まさにこの抽象に明白に特徴づけられているのである.交換においては,ある一つの使用価値は,それが適当な割合でありさえすれば,ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけの価値がある.あるいは,かの老バーボンが言っているように,「一方の商品種類は,その交換価値が同じならば,他方の商品種類と同じである.そのあいだでその〔交換〕価値が同じであるような諸物のうちにはいかなる差異も区別も存在しない.¹」使用価値としては,諸商品は,なによりもまず,いろいろに違った質であるが,交換価値としては,ただいろいろに違った量でしかありえない.

(Marx1872b: 14,井上・崎山訳527頁,ただし訳文を一部補った.)

(4)ドイツ語版『資本論』第三版

 この共通なものは,商品の幾何学的とか物理学的とか化学的などというような自然的属性ではありえない.およそ商品の物体的な属性は,ただそれらが商品を有用にし,したがって使用価値にするかぎりでしか問題にならないのである.ところが,他方,諸商品の交換関係を明白に特徴づけているものは,まさに諸商品の使用価値の捨象なのである.この交換関係のなかでは,ある一つの使用価値は,それがただ適当な割合でそこにありさえすれば,ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけのものと認められるのである.あるいは,かの老バーボンが言っているように,「一方の商品種類は,その交換価値が同じ大きさならば,他方の商品種類と同じである.同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには差異や区別はないのである」⁸.使用価値としては,諸商品は,なによりもまず,いろいろに違った質であるが,交換価値としては,諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり,したがって一原子アトムの使用価値も含んではいないのである.

(Marx1883: 4,岡崎訳76頁)

内容的には前のパラグラフに引き続き,マルクスは「共通なもの」の特徴を説明している.すなわち「共通なもの」は,あくまで交換価値に関する概念であって,使用価値に関する概念ではない,というのである.どういうことか.

 諸々の商品を使用価値の観点から比較すると,それぞれの使用価値は異なっている.これに対して,ある商品と別の商品との交換が成立する場合には,使用価値がどんなに異なっていようとも,交換価値の観点からみると両者の間に差異はない.商品間の交換関係は,使用価値を捨象するからこそ成立するのであり,これを説明するのが「共通なもの」なのである.

 ところで,このパラグラフはドイツ語版の初版から第二版にかけて叙述に変更が加えられている.とりわけ初版では「使用価値の捨象 Abstraktion vom Gebrauchswerth 」という箇所の「使用価値」が単数形であったが,第二版以降では「使用価値」が複数形として「商品の使用価値の捨象 Abstraktion von ihren Gebrauchswerten 」へと修正されている.どうしてこのような修正が加えられたのであろうか.この点に関しては,まずは,一つの商品にみられる使用価値の複数性について確認しておきたい.例えば,筆の使用価値は紙に文字を書くことであるが,筆先でくすぐることもできる.紙の使用価値はそこに書かれるためだけでなく,汚れた物を拭いたりすることもできる.このように一つの商品であっても使用価値を複数有していることもあり,この点に気づいたマルクスは第二版以降でこの箇所の「使用価値」を複数形に直したのである.

 さらにまた「すなわち,交換価値から見れば,ある一つの商品は,それがただ正しい割合でそこにありさえすれば,どのほかの商品ともまったく同じなのである」(初版)という一文が,「この交換関係のなかでは,ある一つの使用価値は,それがただ適当な割合でそこにありさえすれば,ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけのものと認められるのである」(第二版)という一文へと変更されており,つまり〈ある一つの商品とほかの商品との比較〉から〈ある一つの使用価値とほかの使用価値との比較〉へと置き換えられている.なぜこのような転換がなされたのであろうか.おそらく,商品間の比較では,「ある一つの商品」のうちには複数の「使用価値」があり得るために,〈或る商品のもつ複数の使用価値〉と〈別の商品のもつ複数の使用価値〉とを比較するとなると,議論が曖昧で錯綜してしまうおそれがあったからであろうと推測される.

注8の検討

 ここでマルクスの議論の背景にあるのは,ニコラス・バーボンの以下の主張である.

⁸)「ある種の諸商品は,その価値が同等であれば,別種の諸商品と同じものである.〔」「〕同等の価値をもつ諸物に差異や区別はない…〔中略〕…100ポンドの値打ちがある鉛や鉄は,100ポンドの値打ちがある金や銀と同じ大きさの価値を持っている.」(N・バーボン,前掲書,53ページおよび7ページ.)

(Marx1867: 4,岡崎訳76頁,ただし訳文は改めた.)

以下,気づいた点を箇条書きで列挙しておく.

  • ドイツ語版初版のみ「差異や区別はない no difference or distinction 」という箇所が隔字体で強調されている.この強調は,バーボンの原文には見られない.
  • バーボンの原文でイタリックになっているのは"For one sort of wares are as good as another, if the value be equal."(Barbon1696: 53)という一文である.これはマルクスの引用では強調されていない.
  • 岡崎次郎訳は,引用ページ数を「五三ページ,五七ページ」と訳している.しかし,この「五七ページ」は間違いである."There is no〜"以下の文章は,バーボンの原著では7ページにある.
  • マルクスによる引用の最後にある"silver and gold"は,バーボンの原文では"Silver or Gold"(Barbon1696: 7)となっている.この限りで,マルクスによる引用は不正確である.
  • マルクスは,バーボンの「価値 Value 」をドイツ語で「交換価値 Tauchwerth 」と訳している.この点,ValueとWorthについては拙稿「マルクス『資本論』覚書(6)」を参照されたい.

(つづく)

文献

*1:井上康・崎山政毅は「「それ〔sie〕」は,当然ながら,冒頭の「実体〔die Substanz〕」である」(井上・崎山2017:101)と述べているが,この「それ〔sie〕」は直前の「ある一つの商品〔eine Waare〕」を指しているのではないか.どうして井上・崎山が「当然ながら」冒頭の「交換価値の実体」を指していると考えるのか,私には皆目検討がつかない.