目次
富の〈社会的形式〉と〈素材的内容〉、あるいは「商品」と「使用価値」
(1)ドイツ語版『資本論』初版
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ある物の、人間生活のための有用性は、その物を使用価値にする⁴。つまり我々は、鉄、小麦、ダイヤモンドなどという有用な物すなわち商品体を、使用価値、財、品物と呼ぶ。使用価値を考察する際には、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とか一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する⁵。諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。我々によって考察されねばならない社会的形式においては、諸々の使用価値は同時に交換価値の素材的な支柱をなしている。
(Marx1867: 2)
(2)ドイツ語版『資本論』第二版
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ある物の有用性は、その物を使用価値にする⁴。しかし、この有用性は漠然と宙に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体の諸特性によって条件づけられているので、商品体なしには存在しない。それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものは使用価値または財である。商品体のこのような性格は、その使用特性の取得が人間に費やさせる労働の多少にはかかわりがない。使用価値を考察する際には、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とか一トンの鉄などのような、その量的な規定性が常に前提とされている。諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する⁵。諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、交換価値の素材的な支柱をなしている。
(Marx1872a: 10-11, 下線引用者)
(3)フランス語版『資本論』
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ある物の有用性は、その物を使用価値にする¹。しかし、この有用性は空漠の曖昧なものではない。この有用性は、商品体の諸特性によって決まっており、商品体なしには存在しない。鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものは結果的に使用価値である。商品体にこのような性格を与えるのは、人間がその有用な性質を取得するために必要な労働の多寡ではない。使用価値を問題とする場合には、一ダースの時計とか一メートルの亜麻布とか一トンの鉄などのような、ある特定の量がつねに前提とされている。諸々の商品の諸々の使用価値は、ある特殊な知識・学問・商業的因習の原資を提供する²。諸々の使用価値は、使用または消費においてのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的なものをなしている。我々が検討しなけれればならない社会においては、諸々の使用価値は同時に、交換価値の素材的な支柱である。
(Marx1872b: 13-14)
(4)ドイツ語版『資本論』第三版
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ある物の有用性は、その物を使用価値にする⁴。しかし、この有用性は漠然と宙に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体の諸特性によって条件づけられているので、商品体なしには存在しない。それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものは使用価値または財である。商品体のこのような性格は、その使用特性の取得が人間に費やさせる労働の多少にはかかわりがない。使用価値を考察する際には、一ダースの時計とか一エレの亜麻布とか一トンの鉄などのように、その量的規定性が常に前提とされている。諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する⁵。諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。我々によって考察されねばならない社会形式においては、諸々の使用価値は同時に、交換価値の素材的な支柱をなしている。
(Marx1883: 2-3, 訳73頁)
このパラグラフは、マルクスによって第二版で加筆修正が加えてられていることがわかる。語の強調は第二版からは全く消えてしまっている。第二版で加筆修正された部分は下線で示しておいた。
ここでマルクスは富をその〈社会的形式〉と〈素材的内容〉の側面から区別している。先行するパラグラフで「個別の商品はそのような社会の富の基本形式として現象する」と述べられている通り、富の〈社会的形式〉をとって現われた物が「商品」である。
「諸々の使用価値は、富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている」。つまり、「富の社会的形式」(=商品)が鉄であろうと小麦であろうとダイヤモンドであろうと、それぞれの商品の使用価値が富の〈素材的内容〉をなしており、その〈素材的内容〉の具体性は商品ごとに異なっている。
「使用価値」と「交換価値」という語が『資本論』の本文の中で出てくるのは、このパラグラフが初めてである*1
このパラグラフで説明されているのは主に「商品」と「使用価値」との関係についてである。しかもその点が第二版以降ではより詳しく説明されているのだが、それはおそらくマルクス自身が「商品体 Waarenkörper 」についてもう少し詳しく書かねばならないと考えたからであろう。「商品体」と聞くと何か変な印象を持つかもしれないが、「体 Körper 」はラテン語で言えば corpus であり、これは要するに〈商品とは物体として具象的な形を有している〉ということである。この物体性こそが、「この有用性は、商品体の諸属性に制約されているので、商品体なしには存在しない」といわれる所以であり、そして同時に使用価値がそれに投下された労働の大小と関係がないといわれる所以である。
十七世紀までの英語圏に見られる〈価値〉の用語法、worthとvalue
「使用価値」の直後に付された原注4の中でマルクスは次のように述べている。
(1)ドイツ語版『資本論』初版
⁴)「およそ物の自然的価値は、いろいろな欲望を満足させるとか人間生活の便宜に役だつとかいうその適性にある。」(ジョン・ロック『利子引き下げの結果の諸考察』、1691年、『著作集』、ロンドン、1777年版、第二巻、p. 28)。十七世紀にはまだしばしばイギリスの著述家たちのあいだでは使用価値に “Worth” を、交換価値に “Value” を用いているのが見いだされるのであるが、それは、まったく、直接的なことがらをゲルマン語で、省察したことがらをロマンス語で表現することを好む言語の精神によるものである。
(Marx1867: 3)
(2)ドイツ語版『資本論』第二版
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⁴)「およそ物の自然的価値は、いろいろな欲望を満足させるとか人間生活の便宜に役だつとかいうその適性にある。」(ジョン・ロック『利子引き下げの結果の諸考察』、1691年、『著作集』、ロンドン、1777年版、第二巻、p. 28)。十七世紀にはまだしばしばイギリスの著述家たちのあいだでは使用価値に “Worth” を、交換価値に “Value” を用いているのが見いだされるのであるが、それは、まったく、即物的なことがらをゲルマン語で、省察したことがらをロマンス語で表現することを好む言語の精神によるものである。
(Marx1872a: 10)
(3)フランス語版『資本論』
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1.「およそ物の自然的価値は、いろいろな欲望を満足させるとか人間生活の便宜に役だつとかいうその適性にある。」ジョン・ロック『利子引き下げの結果の諸考察』1691年。十七世紀にはまだしばしばイギリスの著述家たちのあいだでは使用価値に Worth という語を、交換価値に Value という語を用いているのが見いだされるのだが、これは、即物的なことがらをゲルマン語で、省察したことがらをロマンス語で表現することを好む言語の精神に倣っている。
(Marx 1872b: 14)
(4)ドイツ語版『資本論』第三版
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⁴)「およそ物の自然的価値は、いろいろな欲望を満足させるとか人間生活の便宜に役だつとかいうその適性にある。」(ジョン・ロック『利子引き下げの結果の諸考察』、1691年、『著作集』、ロンドン、1777年版、第二巻、p. 28)。十七世紀にはまだしばしばイギリスの著述家たちのあいだでは使用価値に “Worth” を、交換価値に “Value” を用いているのが見いだされるのであるが、それは、まったく、即物的なことがらをゲルマン語で、省察したことがらをロマンス語で表現することを好む言語の精神によるものである。
(Marx1883: 2, 訳73頁)
ここでジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)による〈自然的価値 natural worth 〉という用語は、ちょうど「使用価値」の意味で用いられている。マルクスはこれを「即物的なことがらをゲルマン語で」表現している一例として引用しているのである。というのも、「自然的価値」が「いろいろな欲望を満足させるとか人間生活の便宜に役だつ」ということは、「即物的なことがら」に該当するからである。
以下にマルクスが参照した『ジョン・ロック著作集』第2巻から該当箇所を引用しておく*2。
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1. およそ物の内在的な、自然的な価値は、いろいろな欲望を満足させるとか人間生活の便宜に役だつとかいうその適性にあるということ…
(Locke1777: 28)
しかしマルクスの時代はもはや十七世紀の英語圏ではない。ドイツ語では「使用価値 Gebrauchswerth 」にも「交換価値 Tauschwerth 」にもどちらも共通して "-werth" が用いられ、これは英語のworthに該当する。つまりドイツ語では、十七世紀までの英語圏に見られる worth と value の区別のような用語法上の区別が存在しないのである。
worth と value の語源学:ゲルマン語派とロマンス語派
マルクスのいう「即物的なことがらをゲルマン語で、省察したことがらをロマンス語で表現することを好む言語の精神」というものを、我々は一体どのように適切に理解したら良いのだろうか。そもそもゲルマン語とロマンス語はどのように異なっているのであろうか。
この点を明らかにすべく、以下で我々は worth と value の語源について探ってみたい*3。
worth の語源
中英語 worth 又は wurth < 古英語 weorþ < ゲルマン祖語 *werþaz
まず worth の語源(etymology)を辿ると、古くはインド・ヨーロッパ祖語(Proto‐Indo‐European, PIE)において *wert- (「向かって、転じて to turn」の意)という表記が再建され、これから派生したとされる前ゲルマン祖語(Pre-Proto-Germanic, Pre-PGmc)の *wértos が再建され、さらにこれから派生したゲルマン祖語(Proto-Germanic, PGmc)の *werþaz (形容詞「価値ある worthy, valuable 」の意)が再建されている。これが低地ドイツ語では weert (形容詞)や、ドイツ語では wert, Wert となったのである。一方、古英語(Old English, 450年ごろから1150年ごろまで)では weorþ となり、中英語(Middle English, 1066年から15世紀後半ごろまで)でようやく worth へと至った。
次に value の語源を辿ると、古くは印欧祖語の *walh₂- (「強くある to be strong 」の意)という表記が再建され、これからラテン語の valere (valeoの現在能動不定詞、「強くある、価値がある to be strong, be worth 」の意)となり、そこから古フランス語(ancien français, Old French)の value (valoir の過去分詞の女性形)となり、中英語において valew, value へと至った。
ラテン語の口語である俗ラテン語(sermo vulgaris, Vulgar Latin)に起源を持つ言語の総称をロマンス諸語(Linguae Romanicae, Romance languages)という*4。高橋英光によれば、
ラテン語とはインド・ヨーロッパ語族のイタリック語派に属し、最初はラチウム地方だけで話されていたがローマの発展とともにその国語としてヨーロッパとその周辺に広まった。紀元前1世紀には洗練された文章語をもつ古典ラテン語ができて中世、近世の学術語およびローマ教会の典礼用語としてヨーロッパ文化の中心的言語となった。一方で民衆が使うラテン語は俗ラテン語(Vulgar Latin)と呼ばれ、それが地方色を帯びて分岐して今日のロマンス語諸語(フランス語、イタリア語、スペイン語など)となった。
(高橋2020: 21)
以上の点を踏まえると、マルクスは、ゲルマン語派をその語源とする worth のことを「即物的なものごとをゲルマン語で」表現したものだと述べ、ロマンス語派をその語源とする value のことを「省察したものごとをロマンス語で」表現したものだと述べたのだと考えられる。
では「即物的なものごと unmitterbar Sache 」と「省察したものごと reflektirte Sache 」を表現するにあたって、ゲルマン語とロマンス語を区別して用いるということは、一体何を意味するのだろうか。これは筆者の推測に過ぎないのだが、近代にはラテン語はもはや民衆の読める文字ではなくなっていたことを思い返すと、ゲルマン語の言葉が粗野なイメージを抱かれ、ロマンス語の言葉は自由学芸を修めた教養ある人々や聖職者が用いる観念的な言語というイメージを抱かれていたと言えないだろうか。そしてこのことをマルクスは「それは、まったく、直接的なことがら〔目に見えるもの〕を〔粗野な〕ゲルマン語で表現し・反省されたことがら〔観念的なことがら〕を〔洗練された〕ロマンス語〔教養人の用いる言語〕で表現することを好む言語〔英語〕の精神によるものである」とアイロニックに述べたのではないだろうか。
市民社会における〈擬制〉
マルクスは「諸々の商品の諸々の使用価値は、一つの独自な学科である商品学*5の材料を提供する」という箇所に次のような注を付けている。
(1)ドイツ語版『資本論』初版
⁵)市民社会では、各人は商品の買い手として百科全書的な商品知識を有しているという擬制〔fictio juris〕が支配的である。
(Marx1867: 2)
(2)ドイツ語版『資本論』第二版
⁵)市民社会では、各人は商品の買い手として百科全書的な商品知識をもっているという擬制〔fictio juris〕が支配的である。
(Marx1872a: 10)
(3)フランス語版『資本論』
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2. 市民社会では「何人も法律を知らないとはみなされない」。——つまり経済的な擬制〔fictio juris〕のもとに、すべての買い手は商品の百科全書的な知識を有しているとみなされている。
(Marx1872b: 14)
(4)ドイツ語版『資本論』第三版
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⁵)市民社会では、各人は商品の買い手として百科全書的な商品知識を有しているという擬制〔fictio juris〕が支配的である。
(Marx1883: 2, 訳73頁)
この箇所を石崎は次のように解釈している。
マルクスの記述は、市民社会の全構成員が商品知識をもっていること、さらに商品知識をもっていなければならないこと、さらに商品知識をもっていなければならないこと、しかしながら完全な商品知識をもちえなくなってしまっている現実、しかし商品知識をもっていると仮定しなければ売買契約という対等の立場での契約を結べないこと、したがって、実際には商品知識をもっていなくても、商品知識をもっていると法的にも認めざるをえないこと、その結果、商品を購買してしまった後には、基本的にはすべての責任が購買者に転化されてしまうという社会が市民社会であるということを示している。
(石崎1981: 792)
今日ではもはや「すべての責任が購買者に転化されてしまう」ことはなく、例えば平成6年(1995年)に製造物責任法(PL法)が施行されている。商品に欠陥があることが認められた場合に製造元・販売元がそれを無料で回収・修理するものとしてリコール(Recall)があり、一定の条件のもとで契約を撤回することができるクーリングオフ(cooling-off period)制度がある。これらの制度はマルクスの時代にはまだ無かった。
文献
- Locke, John, 1777, The Works of John Locke, Vol.2, London.
- Marx, Karl, 1867, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Erster Band, Buch 1: Der Produktionsprocess des Kapitals, Hamburg.
- Marx, Karl, 1872a, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Erster Band, Buch 1: Der Produktionsprocess des Kapitals, Zweite verbesserte Auflage, Hamburg.
- Marx, Karl, 1872b, Le capital, tranduction de M. J. Roy, entièrement revisée par l'auteur, Paris.
- Marx, Karl, 1883, Das Kapital, Kritik der politischen Oekonomie, Erster Band, Buch 1: Der Produktionsprocess des Kapitals, Dritte vermehrte Auflage, Hamburg. (University of Michigan, 2006)
- Smith, Adam, 1789, An Inquiry Into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, Vol.Ⅰ, the fifth edition, Dublin.
- スミス, アダム 2020『国富論(上)』高哲男訳, 講談社.
- マルクス, カール 1972『資本論(1)』岡崎次郎訳, 大月書店.
- 石崎悦史 1981「マルクスにおける使用価値概念の変遷——商品学における品質論との関連で——」一橋論叢 86(6).
- 岩下正弘 1969「商品学の学史的考察——ドイツにおける商品学を中心にして——」同志社商学 20(3-4).
- 上野貴史 2016「ロマンス語語彙におけるゲルマン語の通時的影響——10世紀までのロマンス語語彙と古英語——」広島大学大学院文学研究科論集 76.
- 高橋英光 2020『英語史を学び英語を学ぶ——英語の現在と過去の対話——』開拓社.
- 種瀬茂 1951「ジョン・ロックの経済論——利子に関する論文を中心として——」一橋論叢 26(4).
*1:「使用価値」と「交換価値」という用語はマルクスの独創ではない。アダム・スミスは『国富論』の中で「価値」について次のように述べている。「価値〔VALUE〕という言葉には二つの異なった意味があること、すなわち、ある特定のものの効用をさす時と、ものを所有しているがゆえに生じる他財を購買する力をさす時がある、ということに注意しなければならない。前者を「使用価値」、後者を「交換価値」と呼ぶことができる。」(Smith1789: 42、訳63〜64頁)。
*2:ロックのこの著作について詳しくは種瀬1951を参照されたい。
*3:以下の語源についてはウィクショナリー(Wiktionary)各国語版の記述を参考にした。
*4:「現在、ロマンス語とされるものには、国家単位として、フランス語(F)・スペイン語(S)・ポルトガル語(P)・イタリア語(I)・ルーマニア語(R)がある。これらのロマンス語は、各ロマンス語で多くの共通する点が見られるが、系統的には、イタリアにおけるラ・スペツィア=リミニ線(Linea La Spazia-Rimini)で示される北西と南東部分で二分し、北西に当たる北イタリア諸方言・フランス・スペイン・ポルトガルを西ロマンス語、南東に当たる中南イタリア諸方言・ルーマニアを東ロマンス語と大きく分けることが可能である。この西ロマンス語に属するフランス語語彙が、1066年のノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest of England)を期に、古英語の中に大量に流入していくわけであるが、この流入したフランス語にはもともとゲルマン語起源とする語彙も含まれていることになる。」(上野2016: 17)。
*5:「商品学(Warenkunde)が一つの学問ないしは学科体系として商取引学体系から独立したのは、Johan Bukmannの商品学序論(Vorbereitung zur Warenkunde oder zur Kenntniss der Vornehmsten ausländischen Waren 1739年)をもってなすと考えられている。」(岩下1969: 929)。