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ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要 初版』覚書(5)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

カルヴァンキリスト教綱要 初版』(承前)

第一章 律法について、十戒の説明を含む。(承前)

神の被造物である万物のあるべき態度

第二に、天地のすべては神の栄光をあらわすために創造された(『詩篇』第一四八編、『ダニエル書』第三章)ということである。そのため、すべての者は、神から与えられた神的本性ゆえに、神に仕え、神の法を守り、神の権威に従い、従順に神を主あるいは王と崇めること*1こそが神に対して最もふさわしい(『ローマの信徒への手紙』第一章)。

(Calvin1536: 43, 深井訳47頁)

すでに見たように、私たちが神について知るべきことの第一は、神の概念であった。その概念は「知恵、正義、善性、慈悲、真理、力、および生命」として言及されていた。これに対して、私たちが神について知るべきことの第二は、神の被造物である万物が神に対してあるべき態度である。換言すれば、〈神の被造物はその造物主である神に対して、神を主として——同時に自らを従順な僕として——仕えるべきである〉という規範が、ここでは述べられているのである。  

「naturae suae」は「神から与えられた神的本性」か

 深井訳の「すべての者は、神から与えられた神的本性ゆえに、神に仕え」という箇所は、ラテン語原文では「singula pro naturae suae ratione illi seruiant」となっており、「神から与えられた神的」に該当するラテン語が原文には存在しない。「singula」は数詞「singulus(いずれも)」の中性複数主格である。「pro」は奪格支配の前置詞「〜のために」であり、「ratiō(理由)」の女性単数奪格「ratiōne」を取る。「nātūrae suae」いずれも女性単数属格で「ratiōne」にかかるが、所有代名詞「suae」は「singula」を取る。指示代名詞「illī」は「ille」の男性単数与格であり、これは「Deus(神)」を指している。「seruiant」は動詞「serviō(仕える)」の接続法現在/三人称複数/能動態である。したがって、この箇所は文字通りには「いずれもが自らの本性に応じて神に仕える」と直訳される。

 深井訳では「naturae suae」を「神から与えられた神的本性」と訳出しているが、これはどういう了見に基づいているのだろうか。特に問題だと思われるのは、この「(すべての被造物が持っている)各々の本性(naturae suae)」を神的(divinae)と形容できるかどうか、端的に言い換えるならば、〈カルヴァンの神論において、すべての被造物が神性を有すると言えるのか〉という点である。私は明確に〈できない〉と考える。なぜならば、神によって創造された「天地のすべて(uniuersa quqe in coelo sunt et in terra)」の「いずれも(singula)」が持っている本性(naturae)が神的(divinae)であるとは、カルヴァンのテキストには書かれておらず、もし深井訳のように「天地のすべて」が「神から与えられた神的本性」を持っているとするならば、それはスピノザ的な「神即自然」に理論的に転化してしまうからである。

「imperium」は「(神の)法」か

 深井訳で「神の法を守り」と訳されている箇所は、ラテン語原文では「eius imperium intueantur」である。「法」というからには、これは「lex(法律)」や「ius(権利)」の訳語に用いられるのが通例であるが、原語は「imperium」すなわち「支配」「統治」の意味であるから、これに「法」の訳語を用いている点に関しては、大いに疑問である。加えて深井訳では、次のセンテンスの「eius praescriptis」も「神の法」と訳されている。しかしながら、神の「imperium(支配)」と神の「praescriptum(規律)」との間には、明確に異なった意義が横たわっている。前者がいわば神自身の主体的な指揮命令権を示しているのに対して、後者は「前もって(prae-)書かれたもの(scriptum)」、つまり客観的に明文化された律法を示しているからである。

 木村俊道(1970-)は「imperium」について次のように説明している。

「帝国」は、ラテン語で「命令」を意味する「インペリウム」(imperium)に由来する。それは当初、①執政官をはじめとする政務官の命令権や軍事指揮権を指していたが、のちに②支配権や至高の権力そのものを含意するようになる。そして、共和性から帝政へと移行する過程で、「インペリウム」は、現代における一般的な「帝国」の意味、すなわち③支配権が及ぶ広大な領域を示す概念としても用いられるようになった。

(木村俊道「帝国」、古賀敬太(編著)『政治概念の歴史的展開 第4巻』晃洋書房、128頁)

キリスト教綱要』における「imperium」は、本来の古代ローマ共和政における「軍事命令権」や、ローマ法以来の「dominium(所有権)」と区別された「imperium(支配権)」のような政治概念とは異なり、内容的には「神の被造物である万物に対する神の支配」を意味していると考えられる。

 ところでカルヴァンキリスト教綱要』に出てくるラテン語を政治概念から読み解くのは一見すると間違っているかのようにも思われるが、しかしその初版が出た1536年というのは、マキアヴェッリ没後およそ10年後ごろであり、もはや近代政治思想が登場してくる時代に差し掛かっていることも念頭に置いておきたい。その限りでは、『キリスト教綱要』を単に組織神学の理論的な手引き書(institutio)として読むのみならず、ある種その時代の政治思想を反映した思想書としても読み解けるのではないか。これは一つの仮説に過ぎないが、そういう試みもあって良いだろう。

 すでに近代政治思想のそのような至上の支配権という意味で比喩的に捉えるならば、「imperium」を「(神の)帝国」と訳しても差し支えなかろう。

 以上を踏まえて、この箇所を直訳すると次のようになる。

Deinde, uniuersa quqe in coelo sunt et in terra, in eius gloriam creata esse. Id'q; iure illi deberi, ut singula pro naturae suae ratione illi seruiant, eius imperium intueantur, maiestatem eius suspiciant, et parendo uelut dominu ac regem agnoscăt.

第二に〔私たちが神について学ぶべきことは〕、天にありまた地にあるすべてのものは、神の栄光のために〔神によって〕創造されたということである。したがって、〔神の被造物である天と地におけるすべてのものの〕いずれもが自らの本性に応じて神に仕え、神の至上の支配権〔帝国〕(インペリウム)を見て、神の威厳を仰ぎ見、服従することによって、主および王として認めることが、正当に神に対してなされるべきことである。

(Calvin1536: 43, 訳は改めた)

箴言』第十六章と『詩篇』第一四八編

 ラテン語の原著では「uniuersa(すべてのもの)」の右側に『箴言』第十六章への参照指示がある。だが、どの具体的な章句を指しているのかは全く明らかではない。カルヴァンが具体的な章句まで書かなかったということは、本書の想定読者層はすでに聖書の大まかな文脈を知っていて、そこまで細かく言及する必要がなかったとも考えられる。 

 さしあたり「uniuersa」と最も関係があると考えられるのは以下の章句である。

Universa propter semetipsum operatus est Dominus ; impium quoque ad diem malum.

主は御旨にそってすべての事をされる。逆らう者をも災いの日のために造られる。

(Vulgata, Proverbia 16:4, 新共同訳『箴言』16:4)

 『詩篇』第一四八篇の参照指示は、「…quqe in coelo sunt et in terra, in eius gloriam creata…(天にあるものと地にあるものは、神の栄光のために創造された)」の横に置かれている。『詩篇』には実際に「caelum(天)」と「terra(地)」が登場する。

Alleluja. Laudate Dominum de cælis ; laudate eum in excelsis.

ハレルヤ。 において 主を賛美せよ 。 高い天で 主を賛美せよ 。

(Vulgata, Psalmi 148:1, 新共同訳『詩編』148:1, 強調引用者)

Laudate Dominum de terra

において 主を賛美せよ 。

(Vulgata, Psalmi 148:7, 新共同訳『詩編』148:7, 強調引用者)

こうした具体的な章句を示したからといって、本書の読解に役立つとは到底思えない。むしろ重要なのは、言及されている聖書の文脈から取り出されるその内容(その精神と言っても過言ではない)であろう。

(つづく)

文献

*1:深井訳で「崇めること」と訳されている原語は「agnōscant」であり、これは動詞「agnōscō(認める)」の接続法現在/三人称複数/能動態である。したがって、文字通りには「服従することによって〔神を〕主および王として認めること」と直訳される。