目次
スピノザ『エチカ』(承前)
第一部 神について(承前)
実体と存在
定理七
実体の本性には存在することが属する.
証明
実体は他のものから産出されることができない(前定理の系により).ゆえにそれは自己原因である.すなわち(定義一により)その本質は必然的に存在を含む.あるいはその本性には存在することが属する.Q.E.D.
(Spinoza1677: 5,畠中訳(上)42頁)
【定理七】では「実体」と「存在」との関係が初めて説明されている.
先に見た【定理六の系】において「実体は他のものから産出されることができない」という命題が導出された.ここまでは前回の確認なので問題なかろう.
論証する上で問題なのは「実体は他のものによって産出されることができない」という命題を「自己原因」として理解できるかどうかである.
【定義一】
自己原因とは,その存在が本質を含むもの,あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの,と私は解する.
【定理六の系】における「実体は他のものによって産出されることができない」という命題には,【定義三】における「実体」の定義が繰り返されているに過ぎないのではないだろうか.
【定義三】
実体とは,それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの,すなわち,その概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの,と解する.
スピノザは【定理七の証明】を【定理六の系】から証明しようとしているのだが,実際には【定義三】を【定義一】と同義のものとして説明すれば【定理七】は証明できてしまうのではないだろうか.【定理七の証明】においてわざわざ【定理六の系】を迂回しなければならなかった論理必然性は一体どこにあるのだろうか.